子どもの頃見てた「志村けんのだいじょぶだぁ」がYouTubeで公開されたので見た。これ見るの何十年ぶりだろう。イケてた頃のマーシーもカットされていない。
だが、最初のコーナーが「ぱいのぱいの体操」。うわー、覚えてる。あったあった。
でも、今見ると...キツいな。無邪気に笑ってた当時の自分ってすごいなぁと感じつつ、これを大人達が作ってたっていうのもすごい。
そうそう。本人軽傷で治ったとしても、結局ことあるたびにぶり返して、ぶり返すタイミングで周りの人の肺を重症レベルで再起不能にさせるのって人間災害じゃん。
看護師を支えろと言っておきながら、保育士を支えろと言わないブクマカは職業差別では。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20200418/k10012393931000.html
「治る」の定義を症状が出ないまで、に仮置きするというのは今回の新コロの場合集団免疫シナリオ直行するって話になるんだよな。
だからといって「治る」を厳しめの定義(抗体ができるまで?)にすると、罹ったが直後一生社会生活はできない謎第九地区みたいなところで生活してもらうしかなくなる。
もしかしたら今回は後者を想定しつつ社会構造を組み替えていく(感染者と非感染者で社会階層を分断する)ことすら視野に入れないとあかんかもだぜ。
そういう冗談言ってる段階じゃなくね?
60歳以上の感染者はそこらの川に流せばよくね?
ああああああああああ
俺はずっと以前から考えてたんだが
優秀な日本人がばんばん中共党員になって内部から乗っ取ればええんじゃ!!
金、遼、元、清の次は日系王朝の実現やな
(そういや一時期「秀吉の明朝征服が成功してたら」ネタが話題になったな)
俺は中共に入党したうえで
精製同党と「今の中共は毛沢東の精神を逸脱しているではないか!!」と
全力で批判するw
「治る」の定義による
「ソーシャルディスタンス」の訳語として「社会的距離」なんて言葉が当たっていたりするが、全然適切ではないと思う。
日本語における社会は、全体やシステムを表すものである。ソーシャルは「人と人とのつながり」の意味合いの方が強い。
そもそも辞書の定義に問題がある、いやしかし文化背景が異なるが故に異なる言語を翻訳することに無理がある、という話をさておいたとしても、今回矯正できない日本において、何を意味する単語なのかを言葉から推測できるかは重要な意味を持つ。
「社会」よりも「社交」の方が、「人と人」の意味を強く表す。社交自体がエスタブリッシュメント層の文化という気もするが、意図するところとしては近いだろう。ダンスするだけが社交じゃないのは納得が行くだろうが、人と触れ合うことだけが社会ではないというのは想像がつきにくい(今後社会の意味する範囲も変わっていくだろうが)。
「距離」というのもニュートラルすぎる。離れるという意味合いは含んでいない。一方でディスタンスはある程度含んでいる。それは「匂い」と「臭い」の違いが英語(インド・ヨーロッパ語族)には無いという話にも親しい。ディスタンスというときには離れることを意味するが、距離はそうではない。
あるとしたら「間隔」だろう。まず、離れることを前提とした単語である。その上でどの位かという話ができる言葉だ。
テクニカルタームの翻訳というのは、新しく単語を定義する重要な仕事である。それなのに、今回は輸入した言葉そのものを普及させる時間も無いままにメディアが直訳した日本語を専門家さえ(伝わりやすさを重視して)使用している場面さえある。だが政府がのんびりやっているのでその辺りの議論をする余地だってあったはずなのだ。
翻訳は、特に単語は、直訳では意味を表さない。伝わらない言葉を用いるのは大変危険である。一般に知られることの危険の他に、タームが曖昧なために議論がブレる。
私は「ソーシャルディスタンス」の訳語(新定義単語)として「社交間隔」を提唱する。正しい言葉は正しい理解の道筋になりうる。ここで喚いてどうにかならないほどに誤訳が広まってしまったが、まずは発声してみる。