○朝食:なし
○昼食:ころうどん
○調子
よくもなく悪くもなくだが、今日はプログラミングをお休みさせて欲しいと
共同作業者に連絡を入れた。
一応、午前中は少しやったので、その報告とレビューを済ませた。
○ポケカ
一回目の大会では、僕含めて四人の総当たり。
弱点をついてくるボルトロスに苦戦したが、フラダリやポケモン入れ替えで上手くかわし勝利。
序盤の相手が豪快に事故っていて、序盤にダメカンと通常イベルタルのエネ加速が上手くハマり。
が、これまた相手が豪快に事故り、相手はモンスターを出すことも、エネを張ることも出来ず、
というわけで、初優勝は運にかなり助けられた結果となりました。
次の大会では、薬が切れて半分朦朧としていたの詳しく覚えていないです。
ただ、三戦して、一勝二敗。
しかも、その二敗は上の優勝した大会で勝った二人にリベンジされた結果に。
だが、僕は悪タイプが大好きなので、作るとしても別の悪タイプデッキを作ろうと思う。
今日は次の大会をはしごするのに徒歩だと間に合わないので、車に載せてもらったり。
家まで連れて行ってもらい、トレードをしたりと、かなり濃厚に人と絡んだ。
今までだったら、ここまで濃厚に人と絡むと、途中でパニック(動悸が止まらなくなる)になり、人に迷惑をかけていたが、今日はそんなこともなく、普通に過ごせた。
(帰りの電車の中が少し危なかったけど)
少し治ってきた証拠かなあ、と思うとやっぱり人付き合いは大事だと思いました。(リアルもネットも同じぐらいに)
○帰宅後
今までは、シス管の偉い人がやっていたことを自分でするのは中々難儀し、苦労したが、無事できた。
(まあ別にたいしたことはやってないんだけどね、元々プロジェクト管理サイトに用意されてるものを導入しただけで)
プログラマを退職しても、こうしてプログラミングに関われていることが、何となく幸せに感じられて、
ああやっぱり、僕はこの仕事が好きなのかもしれないなあ、とも思った。
集団の定義を「悪の定義を共有できている人たち」とするとより正確かもね。
こう定義すると、
集団内の悪を批判することは犯罪を批判することとなって正当で、
うまく区別できる。
なんでカラオケに行くの?
お金溝に捨ててるのと一緒だよ。
今までいくら使って、いくら歌ったの?
全部カラオケ屋にあげてるんだよ。
男も女もカラオケやってるってわかると、
「コイツ、バカなんじゃない?」
って軽蔑してる。
音姫の大便版。
手をかざしたりボタンを押すと、放屁混じりのブリブリ、プッ、プピッ、ブバーッというような音が断続的に流れる。
音の王子様。
しかし安直すぎるので、流行りのうたプリよりインスパイアし、音のプリンスさまっ=おとプリっとした。
羽田空港のトイレで男子トイレの個室に音姫のような流水音が流れるものがあり、初めて見たそれに感動した。
しかし、大便時の放屁やその他もろもろの音は到底カバーできるものではなく、男のトイレの個室につける意味がないように感じられた。
音姫は小水の音を流水音でカバーするのに対し、大の音を大の音でカバーするのは意味がないのではないか。
個室が埋まっている間のトイレが無駄に騒々しくなるのではないか。
おとプリッの先行取り付け。
音を好きなものに変えられるようにする。
飛行機の中でこれを書いてたんだけど、飲み物持ってきてくれたスッチーが「お仕事ですか?大変ですね」と気をつかって飲み物にフタつけてくれたりした。
http://anond.hatelabo.jp/20140503000158
とりあえず、30までは生きておけよ。死ぬなよ。絶対。
なぜか天の声が、「1999年のノストラダムスの予言が実現するか確かめろ」と言ってきたので、
1999年には結局何も起こらなかったけど、惰性で今日まで生きている。
休みの日に遊ぶ友達も居ないし、恋人はもちろん居ない。誰も私の私生活を知らない。
いろいろ考えたけど、生きてる価値は 生きてること自体にあるんだよ。
他人に認められるかどうかとか、誰かの役に立っているかどうか
東京至上主義ってわけじゃないけど、やっぱりどこか垢抜けなさを感じる。
別に自分がいけてるとかいうわけじゃないけど、結構長く東京にいるとなんとなく感じるんだよ。
なんか無理してるな、浮いてるなみたいな。
福岡にいたときはおしゃれな人だらけだと思ってたけど、全然そんなことなかった。
あ、でも確実に言えるのは、福岡の大学生のファッションは絶対的にダサい。
中途半端さを感じてどうにも見ているこっちが恥ずかしくなるような感じ。
着ているモノはいいのかもしれないけど、身の丈にあってない感じ。
お父さんお母さん、ごめんなさい。立派な息子になれずにごめんなさい。
妻にも、ごめんなさい。楽をさせてやれなくて。結婚したけど、意味のあるものは何も遺せない。
高校生のときの自分は生きる意味についてずっと考えてた。思春期によくある悩みの一つだと思う。そのときの自分はとても真面目に悩んでいて、一日中考えてみたり本を読んだりしても何も見つからないことに苦悶していた。そうした毎日を数ヶ月も続けたとき、考えても見つからないってことは意味なんてきっと無いんだろうな、と勝手に結論づけた。
それなら、生きる意味もないのに現実は苦痛しかないなら、死なない理由は無いだろうと考えた。だから死のうと思った。けれど、許容可能な苦痛を前にすぐ死のうという気力が起こるわけでもなく、ただただ日々を無気力に生きていた。苦痛に耐えながら誰かが僕の死を後押ししてくれるのを待って。
そんなある日、知らない精神科の先生が書いた本に、「死のうと思ってもとりあえず30歳まで生きてみなさい」と書いてあるのを読んだ。特に根拠はなかった。ただ30歳まで生きてみれば何か変わるかもしれない、というだけのことだった。そんな話を真に受けるほど純粋ではないと自分では思っていたけど、でも頭のどこかでそれを覚えていて、30歳まで生きることをいつの間にか決めていたりした。最近ではそんなこともしばらく忘れていたんだけど。
それから10年経った今日、高校生の自分がやってきた。そして寝ている僕に「生きる意味は見つかったの?」と尋ねた。見つからない。「どこか役に立てる場所はあった?」無い。
独学でプログラムを学んでいくつかの会社で働いてもみたけど何の結果も出せなかった。オープンソースでいくつかプロダクトを公開もしてみたけど、意味のある成果が出たものは一つもない。カンファレンスに参加して発表も何度かしてみたこともあるけど、そんなものはもう誰もが忘れている。
それなりに我を忘れて熱心に取り組んできたと思っていたのに、振り返ってみても自分のしてきたことに何か価値があると思えなかった。
今は会社も辞めて家で一日寝ているような毎日で、体を起こすのもつらくて外に出かけることはもちろんできないし、プログラムを書くこともできなくなった。本を読もうにも本の重さですぐ疲れてしまう。我慢して読んでみても頭に何も入ってこなくて同じところを何度もなぞってる。いよいよダメだ。まだ30歳までは数年あるけど、こんな状態でこれから何か自分にできることなんてありそうもない。