はてなキーワード: 保坂和志とは
梅崎春生『幻化』
佐多稲子『樹影』
大江健三郎『性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』
開高健『輝ける闇』
小島信夫『うるわしき日々』『残光』
黒井千次『群棲』
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』
笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』
阿部和重『アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ』
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』
綿矢りさ『かわいそうだね?』
柴崎友香『その街の今は』
磯崎憲一郎『往古来今』
朝吹真理子『きことわ』
滝口悠生『高架線』
高橋弘希『指の骨』
崔実『ジニのパズル』
なんか話題がめちゃくちゃ飛ぶんだわ。
あの「貧しさ」の側に立った柄谷行人ですら、というかさ。
まあ目先の話題は飛びつつ根底のテーマはつながってるんだけど。
俺がインターネットエクスプローラーに求めてたのもそういう飛躍なんじゃないかと思うのよ。
昔はクソだったってこと、昔を知ってるやつほど知ってるはずだからな。
ただとにかく、今俺は話題がヒュンヒュン飛ぶネットエッセイを読みたいです、そういう話なんですよ。
もちろんネットじゃなくてもいい。
ネットにはそういうのがゴロゴロ転がってるんじゃね?そう思ってる。
まあ本だと最近なら保坂和志のエッセイが真っ先にあがるんだろうし、俺もあれはあれで大好きだが、
というかさらに言えば、「半分計算」って塩梅を計算してるからな。
まあ、そんな感じだわ。
1年ほど前、内部から突然わいてきたもこっちかわいさに基づいてわたモテに注目していたんだが、
あれよあれよという間に(一部ネットで再び)絶大な人気を誇るコンテンツになってしまった。
俺も夢中になっているうちの1人で、
ここまで漫画の新作を楽しみにする、というのはこれまでの人生でなかった。
「その界隈の最右翼」たる青木淳悟『私のいない高校』となぜだかダブらせて読んでしまっていることに気がついた。
『私のいない高校』ってのは一言で言うととにかく凄い不思議な小説で、
さしたる個性がない教師とさしたる個性がない留学生との関係を中心に、
さしたる個性がないクラスメイトが描かれ、さしたる事件もないまま学生生活が送られる・・・という話で、
文字に起こすと何がおもろいねん、って話なんだけど、あるタイプのわたモテ読者は読めばピンとくると思う。
魅力的な個性派揃いのわたモテ(ってアイロニーなく書けることに少し感動)とは一見対照的なんだけど、
あとこれは些細なことだけど舞台が千葉県であるとか(千葉県には「ヤマ」がない、というエピソードが冒頭にあざとく挿入される)、
学生が主に女の子であるとか、一応修学旅行にヤマらしきものがもってこられるところとか、
色々とオーバーラップするところがある。
ちょうどコインの裏表として読んでいる、とでもいうか。
わたモテを読んでいると、自分がもこっちでもなく、主要キャラクターでもなく、無論うっちーでもなく、その他モブでもなく、しかし神の視点でもない・・・
そんな不思議な、要は幽霊ってことなんだけど、ポジションに置かれている気持ちになるんだけど、
まあ、おれはもこっちが好きだしおれはもこっちなんだが。
興味があるひとがもしいれば読んでみてくれ。
保坂和志の言葉をとりあげてつぶやいていく Twitter アカウントが人気だ。
彼は文筆のプロであるわけで、仕事についてストイックな姿勢を持っているわけだから、そこでとりあげられる彼の言葉はどれも至言にみえる。だからみんな、彼の言葉をお気に入りに登録し、リツイートをして他人へと共有したがる。
そんな光景を見ていて、ぼくはちょっとした悪意をふくむ欲望にかられた。そのアカウントをハックして、保坂和志の言葉のなかに、こっそりとぼくの言葉を紛れ込ませたい、と。
おそらく大多数のひとはぼくの言葉が混ざっていることなどに気づかないだろうから、ぼくの言葉は多くのひとびとに重く受け止められることだろう。
そんなひとびとをぼくは笑いものにしてみたいと思ったのだ。
いきなり浅田次郎の『お腹召しませ』の跋から引用するんだけど「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わなければならぬ」って、これなかなかカッコイイこと言ってるけれども、浅田次郎の文章だってたいがいひどいときはある。語彙は豊富だけど脂っこすぎるから格調が損なわれちゃって、なんだか下品だなーって思っちゃう瞬間も多いよねってわりと共感してもらえると思うんだけどどう?
で、こういう話をしてると必ず横から口を出してくる手合いがいて、言うことには「最近の小説家は文章のレベルが低すぎる」。こういうやつには気をつけなきゃいけない、なにしろこいつはそんな侮蔑的なことを言いながらむかしの小説をあんまり読んでないからだ。たしかに百田尚樹はおそろしいくらい下手な文章を書くし、現在まで残ってるむかしの小説家の作品の多くはたしかに文章が上手くて、そのうえたとえば川端とか百閒とかの異常な怪物がぐーんと平均値を上げちゃってるもんだから勘違いする。ひどい文章を書く作家の作品は当然のように消費されただけで現在まで読み継がれてるものは本当に少ないってことくらい考えればわかるんじゃないの? 面白いことは否定しないけど、三十年後の子供が『永遠の0』とか『ビブリア古書堂の事件手帖』とか『容疑者Xの献身』とか読んでるわけないじゃん。だいたい残ってるひとでいってもひどい文章の作家ってのは残念ながらちゃんと存在していて、ほら太宰治とか田山花袋とか小林秀雄とか超ひどいじゃん。あ、でも内容は面白いと思うよ、田山花袋以外の2人はね。
まあ浅田次郎は「小説家なら上手な文章を書け!」とは言ってなくて、素直にちゃんと読むと「小説家の文章は日本語を使うひとにとってはお手本なんだから、せめて間違いのないように書かなきゃいけないなあ」って意味でしかないんだよね。だから話はもうとっくに逸れてるんだけど、なんか言いたいこと思い付いたから文章のうまいへたの話を続ける。
そもそも無機的な文章と小説の文章のうまいへたってぜんぜん別問題で、都市伝説レベルの話で好きなんだけどさ、三島由紀夫ってもともと官僚だったんだけどすぐ辞めたのね。ちゃんと東大出てたくせにぜんぜん仕事できなかったんだって。なんでかっていうと三島の書く文章がかっちりしすぎてて、官僚にとっての必須スキルである「余地を残す」文章を書くってことがまったくできなくて、まあ言ってみれば文章がうますぎて向いてなかったんだってさ。これはさすがに誰かが作った伝説というかいたずら話だと思うんだけど、三島の文章って異常に人工的でみっちりしてるから何となる「あーわかるー」ってなっちゃう。改めてなかなか好きな作り話だ。
たとえば誰だろう、最近でいうと朝吹真理子って年齢のわりに文章がうますぎてサラブレットってこういうことかあって感心するんだけど、このひとがふだんの小説やエッセイで使ってる文章で書いた報告書ってたぶん読みにくいよね。いや、なんでそこでひらがなつかうんだよって苦笑いしてる上司の図ってめっちゃ想像できてかなり笑える。だいたい文章(文学)ってのは芸術なんだから美しくなければ嘘でしょう? ってみんな大好き古井由吉先生も松浦寿輝との往復書簡でさらって書いてたけれど、まあそこまで大上段からカッコイイことは言えないけれども、まあ言ってることはわかるじゃん?
芸術なんだから判断は割れちゃうんだよ。日本人はフェルメールが好きってよく言われるし、高校生はなぜか「はしか」のようにラッセンを好きになっちゃう時期を迎えるものだけど、美醜の基準なんてひとによって違って当たり前なのよ。モーツァルトとサリエリの格付けは「アマデウス」がしちゃったけど、ヴェートーベンとシューベルトのどっちが上って難しくない? って書くと「おまえさっき太宰が下手だって言ってたじゃん!」とかひどいのになると「山田悠介! 山田悠介!」なんて連呼されちゃうんだけど、山田悠介はうまいへたじゃなくて「間違ってる」からダメだよ。とかいうと「保坂和志! 保坂和志!」って返ってきそうでキリがないのでいいわけをやめる。
何が言いたいかって実はまったくの逆で、それでも文章のうまいへたって、きっと存在してるんだよね。いや少なくとも自分のなかでは間違いなくあるんだよ。同じことを何回も言わないで済ませられるかとかね。何気ない言葉の選び方とか、リズムとか句読点の位置とか改行のタイミングとか語順とかセンテンスの長さとかほんといろーんな要素が絡み合いすぎてて、たとえばリーダビリティって文章のうまさに入るのって言われちゃうともう答えはまったく出ない。でも個人的には入らないと思ってるって結論だけはちゃんとあるんだ。
そろそろみんな気付いてると思うけれども自分なりにうまい文章を書きたくて書きたくて、読み返して「わあ、おれって文章うめーじゃん!」って思いたくて自分なりに努力してきたんだけどまったくダメで、下手でどうしようもない文章なんだけど文章を書くのは好きで、だから深夜にこんな下らない長文を書いてストレスを発散しているんだけど、まーまず間違いなくこの文章は読み返さないよね。ひどいから。
文章書くのってなんていうか心地よい行為だと思うし、こんなところに文章書いてるくらいだからみんなもきっと文章を書くことが好きで、だからさー、なんていうのかな、小説家とか関係なくってこうやって日常的に文章を書いているおれたちなんかはさ、上手な文章を書きたいなっていう欲求を誰しも持っているんじゃないかって思うし、その欲求には忠実になってもいいと思うんだよね。
あー、文章うまくなりてーなー。
人生を半分くらい投げたらロックンロールな気分は消えて、酩酊したいような気分で、でも別に学校行きたいなんて思うわけもなくて、ああ最後までなんかちょっと違う感じだったよなとか思いながら、最初から最後まで医学生ぽくないって言われたこと思い出しながら、なんとなく憂鬱な気分で、でも留年してくそ暇な時間を過ごしているときにおれは別に暇だとか退屈だとか感じていなくて確かいつもこんな感じだったよなって思う。わけわからない気分。勉強するつもりで買った本は全然頭に入らなくて、いやレトリックの本はなんとなくあたまのなかで形にはなったんだけど特に文章としてまとめられるような感じじゃなくて、なんにもわからなくなっちまった。憂鬱な気分を抑えるために外に出て歩いて、いつも思い出すのは運動好きな体育教師が心を病んで辞職したこと。結局運動は健康になるし憂鬱な気分を吹き飛ばすけれども、一時しのぎのものにすぎなくて、最低な今日。時々凄くはかどる日があるけど今日はぜんぜんそんな日じゃなくって、何がどうなのか僕はわからなくて人生の何にも向いていないような気がする。こうやってひきこもってへんてこな文章を書いて永遠に無視され続けるんだって、もちろん保坂和志が書いたように小説がそういう感情を負の側面に持っていくということは確実にあって、覗き込む心が覗き返してきてそのせいで頭が痛くなり心が暗くなり心配事があふれだす。自己啓発本読んで片付けようとした部屋は相変わらず汚いままで、明日になったら全部捨てようとかそんなことを思う。捨てよう捨てようと考えてずっと捨てられないのは僕の部屋がいろいろな余計なもので溢れているせいで、殆どのものは捨ててしまえるのになって思う。だけどおれはぜんぜんすててこなかった。そういう事なんだと思う。永遠に読むことのないであろうドイツ語のプリントやルーズリーフやビニール袋を捨てることが出来なくて、いい加減に捨ててしまわなければと思う。僕はものに囲まれすぎた。こいつらが思考をごちゃごちゃにする、なんてことはなくて、いや、ないのかどうかはわからないが、相互作用でどっちがどっちというわけではないのだろう。いずれにせよおれはとても物を片付けるのが苦手だから物は少ないほうがいい。有名なコピペの鉄道模型を捨てられて、殆ど全てを捨ててしまった夫のように、スーツケース一枚だけの荷物にしてしまえばいいのだ。父は僕にボランティアにいくのはどうだろうと思った。たしかにそれは納得出来ることだったが、ボランティアはボランティアを求めているのであって、おれの更生を求めているわけではない。できればシェアハウスでどうにかこうにか生きたい。思い出した、昔のこと。長距離走でおれは結構得意だったから前の方走っていて、後ろのヤンキーがぜーはーいいながらスピードをあげてきて、苦しそうな顔をしながら走って粘ってくるのがすっごいつらくなって、おれは走るのが辛くなった、別にペースをあげたからとかそういう話じゃなくて、なんだか泣きたくなってしまったのだ。それでおれはちょっとだけペースを落として、彼の声が聞こえないところまで下がったら、おれはこのまま頑張り抜こうとかいう気持ちが無くなってしまった。別に同情しようというのではない。ただそれがおれにとってはつらかったのだ。同じことが今も起こっている。年上の再受験生がひいこら言って、生活かかっていて、そんな中でおれはなんだか嫌になってしまって、そういう競争を強いるしくみが・・・。もちろんこれは軟弱なのかも知れない、真っ先に潰されるのかも知れない。そして長距離走のときみたいに、おれはどんどん転げ落ちていくのかも知れない。