はてなキーワード: pl法とは
これ、類似判例無いんじゃないかな。
争点としては、①PL法の範囲内に入るのか?
②使用者の過失による相殺はどの程度ある?(瑕疵担保責任免責が機能するのか?)
是非裁判で決着つけて欲しいもんです。
根拠を付与してる人が誰もいない。
通常の瑕疵担保責任なら免責期間が当然ながらあるけれど。
瑕疵担保責任の期間を定めてPL法から逃れることはできないでしょ?
2001年2月13日には、情報システムの製造物責任を問う訴訟に判決が出ている。プリインストールされた会計システムの不具合で、売掛金残高が実際よりも多く計算されてしまった。このため、2年分の税金を過剰に支払っていた事実がわかった。そこでこのシステムの使用者である食品メーカが、PL法などに基づき、システムを開発した会社に対し過剰税金分約1400万円の損害賠償を求めたものだ。
この裁判では、「情報システム」が「製造物」に当たるかどうかが注目された。原告側は、「会計システムはハードウェアとソフトウェアが一体となったもので、製造物に当たる」と主張した。青森地裁はこの点の判断を避けて、税金の過剰支払いはソフトウェアの操作ミスによるものとし、原告の訴えを退けた。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/NBY/techsquare/20030828/1/
元増田です。丁寧なお返事ありがとう。こちらも同じく暑くて眠れないので返事します。
一方で、「原子力村」の「ウソ」は、彼ら活動家とは届く範囲が違っていたし、時間的な長さも違う。広く一般の人々が読む新聞で、前の投稿に例示したような「安全だという宣伝」を重ねてきた。
それが「ウソ」だというのが理解できないというのは述べたとおり。航空会社が「飛行機は安全だ」と主張してもそれを「ウソ」というわけにはいかないでしょう。御巣鷹山(余談ながら、このニュースのあたりから記憶がかろうじて断片的に残っている)以降国内航空会社で重大事故がない(と記憶している)にしても、JALの整備がひどかったとか、そういう問題は数々ありました。
少なくとも3.11までの日本の原発は所外にリスクを伴う放射能漏れ事故を一度も起こしていなかったわけで(念のため、JCOは「原発」ではありません)「安全」と宣伝する資格はあったと思います。
ちなみに国内最大の原発事故は福島だと私は思っていません。あれは「国内最大の放射能事故」ではあるにしても(広島・長崎は別格)、みんななぜこの事故のことを忘れているのか私は不思議でなりません。こういうことが、反原発派が「命が一番大切」とかいっても信用できない一因です。
http://www.jaea.go.jp/04/turuga/jturuga/mj_anzeniinkai/2/siryou_2-3.pdf
「新幹線は安全です」「鉄道は安全です」「飛行機は安全です」これを「絶対安全」の主張だと思う人は「馬鹿」だといってよいでしょう。
そういう「馬鹿」を基準にしなければならないんだ。少し極端な言い方をするが、PL法(製造物責任法)もそういう思想のもとにある。
ではなぜ「新幹線は安全です」「鉄道は安全です」「飛行機は安全です」は社会的に許容されているのでしょうか?なぜ「原発は安全です」だけが許されないのでしょうか?それは差別というものではありませんか?
元増田へ。レスありがとう。言いたいことは十分に伝わってくる。怒りも伝わってくる。
以下、少し乱暴な物言いになるかもしれない。夜中で眠いので(暑くて眠れないのだが)、気に障る言い方をしてしまうかもしれないが、許してほしい。
そうか、2006年か……。不運なことだが、やはりこれを一般化してはいけない。むしろ、「自分に入ってくる情報が特殊だった」っていうことだ。ちなみに、俺は世間並み以上にニュースに接しているし、どちらかといえば「エコ」志向で、原発はなければない方がいいのではないかとずっと考えてきたような人間だが、それでも、チェルノブイリについて、「最終的な死者の数は10万人から20万人くらい」なんていう話は、今はじめて聞いた。それは一部の、極端な、「反原発運動の活動家」の、具体的根拠のない意見で、一般的ではない(ということは元増田はわかっていると思うが、俺の知り合いで鼻息を荒くしていた奴はわかっていなかったので……しつこくてごめんな)。「10万人から20万人」などという大雑把すぎる数値を聞かされて、真に受ける人がいるとは思えない。というより、そんな数値を鵜呑みにするのは、「絶対安全」と勝手に解釈するのと同じくらい、バカなことだと思う。
ただ、チェルノブイリの事故から時間が経過するにつれて、一般のニュースで話題にならなくなった分、情報源として彼ら、極端な「反原発運動の活動家」以外には何もなくなった時期があったことは確かだ。事故当時子供だった元増田のような人たちは、問題に関心が高ければ高いほど、彼らの歪んだ情報に接することにもなっただろう。それは気の毒だと思うし、申し訳ない。俺たちのように事故当時、ニュースを見て、ニュースの内容をだいたいは理解できていた者が、その後、チェルノブイリへの関心を失い、何がどうだったのかを伝える努力をしなかったことにも責任の一端があると思う。その点、済まなかった。もっと努力すべきだったし、根拠の薄い過激な主張にはもっとつっこみを入れるべきだったのだろう。
一方で、「原子力村」の「ウソ」は、彼ら活動家とは届く範囲が違っていたし、時間的な長さも違う。広く一般の人々が読む新聞で、前の投稿に例示したような「安全だという宣伝」を重ねてきた。それも、本当は地震対策が不十分なのにそれを認めなかったり、隠していたり、もっと悪いことには事故隠しやデータの捏造といったことまでやってきた。しかも彼らのバックには国家がついていた。
「ウソだった」ことでは「原子力村」も「過激で根拠のない反原発活動家」も同じだ。しかし深刻さが違う。届く範囲が違う。今、問題とされているのは、そのことではないだろうか。
最後に、小バカにしているように聞こえたら済まないと思うが、
「新幹線は安全です」「鉄道は安全です」「飛行機は安全です」これを「絶対安全」の主張だと思う人は「馬鹿」だといってよいでしょう。
そういう「馬鹿」を基準にしなければならないんだ。少し極端な言い方をするが、PL法(製造物責任法)もそういう思想のもとにある。
これは本当にその通りだ。「反原発」だろうと、「原発推進」だろうと、どちらもだ。そこが、今、福島第一の事故を経験した日本人が立ち帰るべき出発点ではないか、と俺は思っている。
それを改めて確認して、次の世代に「まともな国、日本」を残せるよう、努めていくのが俺たちの責任じゃないか。
さて、そろそろ本当に眠くなってきた。蒸し暑くて寝苦しいが寝るよ。おやすみ。
社会的な正義/不正義は、技術的な「正しさ」とは関係なく決まることに、そろそろ気付くべきだ。
http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20110529.html#p01
その意味するところは、次のどちらなのか。
これを明らかにしてほしい。後者なら私も賛成だが、前者なら情報技術分野関係者は受け入れることはできないだろう。法務省は後者のつもりのはずと信じたい。
情報系技術者以外の人間にとっては、どちらであろうと、望まない被害を受けるという点に変わりは無い。ゆえに「一般人」が、「罰するなら両方とも罰するべき」という発想に傾くのは、まさにPL法の論理であり、極めて自然なことだ。
そもそも、「技術そのものに正邪がある」という発想を社会に発信し広めてきたという点で、高木先生、貴方にも確実に責任の一端がある。裏切られてから慌てても遅いのだ。
言うまでもないが、技術そのものに正邪などない。その技術が社会的な正義に適うものと看做されるか否かは、それが利用者にどう受け入れられるかに完全に依存している。良き意図を持った技術者によって生み出された技術が、必ずしも正義を実現するとは限らない。その逆も、また然りだ。
これは、ソフトウェア技術においては特に顕著だ。なぜなら、ソフトウェアには実体が無い故に、「情報処理の結果にどう価値を見出すか」という問題の答えは、完全に受け手に依存しているからだ。「善良な技術と悪徳の技術」という二分法の論理を認めた時点で、あらゆるソフトウェアは「善悪」の彼岸を容易に行き来しうるということに、もっと早く気づいて欲しかった。
今からでも遅くない。高木先生にはぜひ、「技術」というものに対するスタンスを、今一度考え直していただきたい。今から立場を変えたとしても、私は、そのことを絶対に笑いはしない。
ソフトウェアに必ずバグが潜んでいるように、議論の誤りが判明することは恥ずべきことではない。ただ、反省し修正すれば良いだけなのだから。
補足:
当然ながら、私はソフトウェアにPL法の論理は適用できないと考えている。その理由は、主に以下の二つ。
そもそも、近年のアジャイル開発の理論が主張するように、「利用者の要求は変化する」ものだ。ある時点での要求を完全に満たしたソフトウェアが、将来のある時点における要求を満たさない、といった事態は容易に起きうる。その場合、そのソフトウェアには「バグ」があると看做されるだろう。この場合でも、ソフトウェアの開発者には、それをメンテナンスする義務が発生するのだろうか?
ソフトウェアを「製造物」と看做す概念は、「完全な設計は可能である」とするウォーターフォール開発が長年の間主流を占めていることからも分かる通り、人々の意識に深く浸透している。
今こそ我々は、ソフトウェアに対する正しい理解を広め、社会との適切な関係を構築すべく、活動していく必要があるのではないだろうか。
情報と物質とでは、物質の方が先に着くというのが、物質媒体時代の常識であった。インターネット以後は、情報が先に着いて、後から物質が届くというのが、常識となりつつある。ロングテールという言葉が使われるようになったが、それは、情報が先に広まってから、在庫が動き出すという意味であった。
もちろん、インターネットがそこに存在するという意味では、物質が先であるという前提は崩れていないのだが、物質媒体と情報との不可分性は消滅しており、情報の不足している地域に商品を売り込む為に、サンプルを抱えた商社マンを送り込み、地域の商人や政治家を抱きこんでビジネスループを組み上げ、地域の経済成長の割り前を取るというビジネスモデルは(cf.[2007.12.16])、既に否定されてしまっている。後進国・中進国を発展させて、その成長の利益の分け前を受け取るというビジネスモデルは、米ドルの基軸通貨からの転落によって、否定されているのである。
世界中にインターネットが張り巡らされているわけではないし、インターネットを実現するのに必要な、安定した電源が供給されている地域は、先進国と呼ばれる地域だけであるというのが、現実である。
となれば、この現実の中で利益を上げるにはどうすれば良いのかという事を考えるしかない。
後進国・中進国において、現地の産品の商業活動を活発化させ、食料や燃料や消耗品を買う貨幣経済に取り込み、その上で、Made In Japanを買わせるというやり方がやれないのであれば、先進国を市場にするしかない。しかし、企業が商品を輸出し、現地で販売するというやり方では、貿易赤字が発生するし、現地の雇用が奪われるということで、批判の対象となる。
そこで取れる手段は、輸出するのではなく、個人輸入してもらうという事になる。
現地人が日本から個人的に商品を取り寄せるのであれば、それは、貿易摩擦を発生させない。現地に存在する日本企業や支店が、貿易赤字の元凶として攻撃されるのであって、それを購入した顧客は、決して批判されない。ならば、現地にサービス拠点を置かずに、商売をするしかない。現地に店舗を出して直接販売する方が、はるかに楽であるが、それがやれない以上、遠回りであっても、日本製品を個人輸入するという行為を、広めていかなければならない。日本製品を買わせるには、日本語を理解させる事が必要であるし、日本の常識を認識させる事が必要となる。
インターネットによって国境を越えて情報を広める事が出来る環境があるのだから、後は、人々の興味をいかにして集めるかである。日本の娯楽コンテンツは、その為の道具となりえる。ドラマや小説の中に登場した物が、実際に存在していて、お金を出せば手に入る、あるいは、日本に行けば実物に触れられるというのは、人々に行動を起こさせる動機となりえるのである。
もちろん、日本からの個人輸入が簡単に出来るように、日本国内での宅配便や外国為替・クレジットカードによる決済といったルールの整備も必要となる。日本国内での使用を前提とした製品を、勝手に海外で使ったユーザーがPL法関係の訴訟を起こすという事は考えにくいが、万が一の時でも、第一審の専属管轄裁判所を日本国内の裁判所に指定しておくという手段が可能になる。また、海外で使用されていたとしても、日本の法律が適用されるというように、法制度を整えておく必要があるであろう。この辺は、海外での使用に対して、事前にメーカーが知っていたかどうかというのも問題になりそうなので、小売業者を資本的にも切り離しておくという手管が必要になるかもしれない。
http://www11.ocn.ne.jp/~ques/diary/diary.html [2009.10.12]