はてなキーワード: ルソーとは
天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。
自然権(しぜんけん、ius naturale/jus naturale)とは、人間が、社会の仕組みにたよることなく、自然状態の段階より生まれながらに持つ不可譲の権利。人権はその代表的なものとされている。今日の通説では人類の普遍的価値である人間の自由と平等を中心とする基本的人権及びそれを基調とした現代政治理論においてもっとも基本的な概念・原理であるとされている。ただし、その由来については神が個々の人間に付与したとする考えと人間の本性に由来する考えが存在する。
東京新聞:選挙終われば『ドレイ』か:私説・論説室から(TOKYO Web)
ttp://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2010032202000084.html
民主党の小沢一郎幹事長は選挙を重視する。選挙至上主義と言ってもいい。昨年には
悲願の政権交代を成し遂げた。「選挙に強い」という神話の当否は別として、小沢氏の
小沢氏はこう言う。
「民主主義の原点は選挙だ。国民が最終決定権を持つ国民主権が民主主義の絶対の
原則であり、その主権者が主権を行使する唯一の機会が選挙だ」
その通りだ。民主党に政権を託したのは有権者自身である。その責任は選ばれた
しかし、小沢氏の言動を見ると、選挙後はとやかく言われたくないと考えているように
思えてならない。
有権者は鳩山民主党政権にもどかしさを感じていても、次の選挙まで口出しできない
のだろうか。政権への注文も、行使すべき主権のうちではないのか。
仏革命に影響を与えた十八世紀の哲学者ルソーは社会契約論に「イギリスの人民は
自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する
間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」
(岩波文庫版)と書き記した。
英議会制度の欠点を指摘し、直接民主制を主張するのが主眼だが、選挙至上主義の
陥穽(かんせい)=落とし穴を言い当てているようでもある。
なんでヤングな彼らは「ポスティング」なる行為に走ったのだろうね。
だって、すんげぇ泥臭くてうざったいイメージあるじゃん。いかにも若者が「安保時代のバカサヨじゃないんだからwwww」とか言って嘲笑しそうじゃん。
ま、それはさ、ともかく。
フツーね、郵便受けン中に自分が想定していた以外のモンが入ってたら不快に思うじゃない? 思わない? や、そういう人はそういう人でいいんだけど。すいません。しかし、俺は「うわっ」、ってなっちゃうわけ。で、内容を一瞥すらせず、デリヘルの型番不明なちっこいチラシと一緒にさ、ストレートにゴミ箱に突っ込んじゃうの。そのゴミ箱ってのがさ、マンション側が用意した迷惑チラシ用のヤツなんだけど、覗いてみたらまたそういうビラで溢れかえっちゃってんのよ。選挙中ずっと。ウヨサヨ自民公明民主社民共産幸福実現生長の家その他その他問わず。
で、思ったわけね。何でこんなに揃いも揃って嫌われてんのかなー、って。思ったわけね。何で俺はこいつら、というかこういうビラが大嫌いなのだろうね、って。別に俺だって宗教も政治もいうほど嫌いじゃないし、ってか今回の選挙にあたっては、選挙権もないくせに珍しく能動的に行動しまくって、まず各党マニフェスト読破、したら「そもそも政治ってなんじゃらほい」って気分になったんで岩波書店の『政治学入門』とか、敷衍してジャンはジョンでもロックじゃないルソーとか読み出して全然わかってないのに理解した気になってちょこずいて『リヴァイアサン』(大塚原作じゃない方の)を二三ページ捲ったところで我に返った。それまで溜めた経験値もリセットされた。誰も褒めてくれなかったよ……。慰めてくれるのは不定期に届くエロい夢が詰まったAmazonのダンボールだけ……。
そう。同じ郵便受けにあってもAmazonは歓迎される。だって自分で頼んだんだもん。しかし、俺は人生を通じて一度たりとも「どこそこの勧誘ビラが欲しい!」などと願ったことはない。
通販も(一応)新聞も人からの手紙や郵送物も各種料金請求書も普通、何かしら先立つの契約や相互の信頼関係があってはじめて投函される仕組みになっている。つまり、受取人に「望まれて」おり、あらかじめ「配達されることが織り込み済み」なんだ。裏を返せば受取人に「望まれていない」郵便物は明らかに異物だ。だから俺は拒否してしまう。いかにアブトロニックの効果が素晴らしかろうと、大川先生が偉大であろうと、招かざる客である以上はほうり捨ててしまう。恐るべきは、その仕分けシステムを受取人の無意識に組み込んでしまった投函ポストの魔術。
俺らはマンションの玄関先で郵便受けを「ああ、今日は待ちに待ったアノDVDの……不在受け取り票が届いているであろう日!」などといかがわしい期待で悶々としながら開錠する。勧誘DMアジメールくさやがその中に鎮座していようなどとは想像だにしない。ダストとしてINしたものはすべてノイズであり、カスであり、ゴミであり、一律にダストとしてアウトすべき障害でしかない。普段の志向/嗜好がどうの、とかはそこでは全く関係ない。ダストに中身なんぞ存在しない。単に無意味だ。一掴みで十数の紙束を一絡げにしてダストシュートへ。なんと見事なまでに洗練された取捨選択の美しさよ。
とすれば、俺自身そこまでアジビラ勧誘メールを憎んでいるわけではないのかもしれない。
ただ、「望まれない」「配達が期待されてない」ブツを分別する手間が疎ましいだけで。
気持ち悪い、と感じてしまうのは、あるいは嫉妬しているだけかもしれない。ポストというシステムに人格を否定されながらもなおも自己主張を止めない彼らに、自分の正義を貫く彼らに。
ああそうか。わかった。最初の疑問が解けた。ワカウヨは、彼らは「真実」や「正義」を突きつければ手段やプロセス関係なく、他人を説得可能と思い込んでいるのか。
ちくしょうめ。なぜ前提としての彼らの「正義」を疑わないのか。なぜなら、教師は悪だ。やつらは束縛する。なぜなら、一党独裁社会主義国家は悪だ。やつらは束縛する。児ポ法は悪だ。俺たちを束縛する。在日は悪だ。俺らが束縛されているのに、やつらは自由だ。
してみると左翼はわかりにくい。景気が悪いのは自民のせいだという。格差社会は自民のせいだという。年金問題も派遣問題も自民のせいだという。どれも社会人生活経験の少ない若者にはピン、とこない。なんとなれば、天下り官僚は宿題を忘れた子供を怒鳴りつけたりなどはしない。それに仕事や景気の話というのはどうしても「自分」を要素として含まなければ成立しない。そうなると「自己責任」というメンドクサイ勘定までいれなくてはいけない。勘定しようにも社会人生活を営なまないことには算定方法も解らない。経済も勉強しなきゃ。数学? ケッヘイ。ならば徹底して「他者」と「エピソード」のみで構成されている右翼の敵の方が信じやすい。迷わないですむ。
俺は信じられない。迷う。彼らが「ネットにこそ真実がある」と学んだように、俺は「ネットにすら真実なんて存在しない」のを思い知らされた。だから常にニュースや情報を目の前にして、いつも迷ってしまう。信ずべきか否か。教科書に出てくるような公式や定理やシステムや歴史や定説は本当に信じていいのか? 「この時計は一日に0.000....01秒遅れます」本当に?
猜疑心と躊躇は決して同世代において、彼らより俺が賢(し)いということを意味しない。大体の場合において、俺は怠惰だ。一次ソースなんてクソ食らえで孫引きに次ぐ孫引き伝言ゲームで捻じ曲げられた捏造情報が事実として流布されるなら、それはそれでかまわないとすら考えている。半分ヤケクソに近いメンドくさがり屋だ。
そうやって踏み出すことをためらっている分、「政治」に貪欲なネトウヨたちより知識において劣るだろう。っていうか俺はそもそもサヨでもない。かといって中道を名乗るにゃ定義に確信が持てない。俺はなんでこんな話をしてるんだ。
率直に言ってさ、http://anond.hatelabo.jp/20090901001358にでてきた男の子がうらやましいと思ったよ。あいつには諭してくれる人間がいる。信念を表明したことを労ってくれる仲間がいる……
今まで生きてきて25年、どうも、俺の考え方が他の人と違っているなぁ、と思いながら、今日、その違いの本質っぽいところにたどり着いた。学校でも、会社でも、目標を作って「壁を乗り越える」ことが評価されるようなのだが・・・
そもそも、壁を乗り越えることに意味ってあるの?
その壁って、すでに他の人が乗り越えたものじゃないの?前人未到の壁だっていう証明はどこにあるの?他の人と同じ壁を乗り越えても、それって意味あるの?社会には人がたくさんいるわけで、あなたが壁だと思っている目標を、軽々と超える人もいるわけだ。あなたが頑張って壁を越えたとしても、それって、何かを達成したことになるのかな?あなたを評価する人・あなたを雇う人から見れば、あなたが壁を乗り越えようが乗り越えまいが、壁を軽々と乗り越える人の方が評価は高いわけだ。「何かを達成する」ということが、他者の評価を上げるということだったなら、別に、壁を乗り越えても乗り越えなくても、評価の順位は変わらない。企業は、あなたを捨てて、壁を軽々と乗り越える人を採用するだけ。
で、そもそも、何で「壁を乗り越えよう」としているんだっけ?壁って何?業績?業績を上げるって、他者からの評価を上げることじゃなかったっけ?あれ?でも、壁を乗り越えても、他者からの評価は変わらないんだよね。企業も大学も、あなたを捨てて、軽々と壁を乗り越えられる人を採用するだけ。結局、あなたは負け犬。
あなたにとって、今やろうとしていることが「壁」である時点で、すでに、もう決着はついているんだよ。競争社会では、壁につまづいて、それを乗り越えたことは評価されないの。壁を壁と思わず、進める人が評価されるの。壁にぶつかった人は、もうその時点で、負け犬なんだよ。壁にぶつかったら、もう、その時点で、評価は決まっているんだ。
でも、負け犬と評価されても、死刑になるわけじゃない。負け犬でも、生きていることは許してもらえる。僕らは怖がりだから、死ぬのは嫌だ。社会には、負け犬のための場所があって、そこで、かろうじて生きることはできる。そこで、社会とのwin-win関係が結べるんだ。社会は、「壁に乗り越えること」なんて求めてないんだよ。壁にぶつからない人を求めているんだよ。社会は、壁にぶつからない才能を持った人だけに用があるんだ。壁にぶつかったら、もうその時点で、社会は、その人に用なんかないんだよ。でも、かわいそうだから、壁にぶつかっても、かろうじて生きていていいことになっている。僕らは、壁にぶつかったという罪を償う代わりに、「生きていい」というお墨付きをもらえる。ここに、僕らと社会との間の、ひっそりとした約束事があるんだ。別の言葉で言えば、win-win関係、難しく言えば、社会契約っていうのかな。ルソーの社会契約論とか、高校の教科書に出てきたよね。
そういうわけで、壁を乗り越えることには、本当は意味なんかないんだよ。「壁を乗り越えよう」なんていうのは、人をタダで働かせるための、スローガンに過ぎないんだ。もう、壁にぶつかった時点で、あなたの評価は決まっているんだ。高校・学部・修士・博士・企業、全部そうなんだよ。壁にぶつかった奴は負け。壁にぶつからなかった奴が勝ち。壁にぶつかった奴は罪人で、壁にぶつかったという罪を、一生つぐなわないといけないんだ。
【追記】
ついでに言っておくと、僕は東大卒です。東大入学は、僕にとって壁ではありませんでした。まぁ、その後、壁にぶつかったわけですが。いろいろ反論はあるみたいですけど、「自分にとっての壁を乗り越えたんだからいいじゃない」みたいな意見は、単なる自己満足だと思っています。たとえ自分の中では成長したと思っていても、他人から見たときに自分が成長していることを示せなければ、「自分の成長」を客観的に示せないわけです。壁を軽々と乗り越えられる人間が、壁にぶつかる人間より優れていることは、明らかです。競争社会では、壁にぶつかった人間は不要なのです。その代わり、壁にぶつかった人間は、壁を乗り越えた人間を恨み、妬み、殺されないように自衛することは許されています。それが競争社会の意味であると思っています。
【追記2】
今までの記述と矛盾するかもしれないけど、少し冷静になってみる。とりあえず、自分の経験は、次のようなもの。高校のころから、「壁を乗り越える」というのは、まず、「自分の壁」を探して、その後、ぶつかることだと思っていた。当時から、「xx君は数学ができてすごいな~」、「でも、数学は自分の壁じゃないから、そこそこできればいいや」というようなことをやっていた。こうやって、ぶつかるべき壁を絞っていった結果、一応、「自分の壁」は見つかったんだけど、今ぶつかろうとしている壁は、数学や英語の「基礎力」がモノをいう壁でした、という話。だったら、最初っから「自分の壁」とか「壁を乗り越える」なんていう考え方をせずに、基礎力を鍛えておけばよかったな、という話。
でも、だからといって、「基礎力をつけようとしたら壁にぶつかったけど乗り越えました」なんていうことをアピールするのはひどい勘違い。企業にしろ、大学の先生にしろ、他人が自分の基礎力を評価するときは、そもそも「壁にぶつからない人」を高く評価する。基礎力をつけるときに、自分の壁を乗り越えた、バンザーイ、なんていうのは、甘っちょろい自己満足。
だからね。何がいいたいかっていうとね。
・個性とかオリジナリティーとかうざいです。結局、基礎力がないとおもしろいことはできません。オリジナリティーの高いものを作るには、基礎力が必要。
・逆に基礎力さえ高ければ、オリジナリティーの高いものが自然に出てくるのです。
・基礎力をつける段階では、「壁を乗り越えたかどうか」は評価されません。壁にぶつかった時点で、あなたは、壁にぶつからなかった人より劣っているとみなされます。つまり、もう、そこで序列ができているのです。あなたは、負け犬です。
・ただ、壁にぶつからなかった人を羨み、妬むことは許されています。個性とかオリジナリティーとか独創性とか、馬鹿げた幻想に踊らされるよりも、人を羨み、妬みながら静かに生きていたほうが、幸せな人生がおくれると思いませんか?
ということです。
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
メルヴィル『白鯨』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
ブランショ『文学空間』
日本文学
樋口一葉『にごりえ』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
志賀直哉『小僧の神様』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
横山利一『機械』
谷崎潤一郎『春琴抄』
川端康成『雪国』
太宰治『斜陽』
大岡昇平『俘虜記』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
坪内逍遥『小説神髄』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
パスタといえば茹で時間+1分で作れるカルボナーラモドキはよいよ。書いたもんだけど、トラバもらって微妙だって言われた。
http://anond.hatelabo.jp/20071212020334
たしかにそのとおりだ、おおきなパスタパンと火力強いコンロ(ふたは使わない、洗うのめんどいから)は確かにひとりぐらしの干物女もしくは女ひでりの家に似つかわしくない。ごもっとも、ありがとうね指摘してくれて。勉強になったし反省した!
ただこれだけはむちゃくちゃ。「オリーブおいるは最低でもエキストラバージンクラスがいいです。麺はやすくてもあまり変わりませんがオリーブオイルは大きく違います。いいのを買いましょう。いいのをつかえばどばっと入れてももたれないのでどばっといれよう。」って、エクストラバージンって言うのはランクとかじゃなくて種類ね。オリーブの身をしぼったときの一番絞りがエクストラバージンで、これは「オリーブオイルの香りが主役」か「強い香りがでる食材のなかでオリーブオイルを主張したいとき」のためのオイル。へたに多用するとオリーブの生臭さがでるし、たとえば日清のエクストラバージンオリーブオイルとGotinoae(アルファベットじゃ書けない)のプレーンオリーブオイルだと「オリーブ」なのは前者だけど、値段とか飲んだときの味わいは猛烈に後者が勝ってる、というか、用途が違うんだけど。ちなみに保存利かないと思い込んでるから俺は高いの買わないけどな。あと、トマトソースや、オイルソースならよっぽど濃いやつじゃない限り、麺の味の影響はでかい。「あまり変わらない」は事実として間違っている。主観だろっていうならためしにくらべてごらんよ、ディチェコでいいよ、そんな高くないし。セービングのも好きだったりするけど。ただお金が無いなら100均一で500gのスパゲティーを買ってくるのが妥当だとは思う。金があるならごはん炊くだろうしな。
前にはなまるマーケットでやっていたフライパンで作るパスタって方法で作ってる。
分量は一人分として、フライパンに水500mlを入れて沸騰させて、塩を入れてパスタ一人分を入れる。そのまま中火で煮詰めていって大体水が蒸発した頃に丁度パスタも茹で上がるので、お湯切りする必要もないというもの。すげー簡単。二人分作るときは確か水の量を700mlくらいにするんだったはず。フライパンの大きさ的にそれ以上の量は多分無理。だから基本一人暮らし向け。
パスタをフライパンに入れたところで乾燥ニンニクスライスも一緒に入れて、水が蒸発しきる直前辺りでオリーブオイルを大さじ一、二杯くらい入れてあえて、最後に輪切りとうがらしを適量入れて混ぜて出来上がり。煮詰まったパスタのゆで汁にはでんぷん質が濃いめに溶け込んでて、これとオリーブオイルが上手く反応していい感じに乳化してくれるので、ちゃんとしたオイルソースになる。
アレンジとしては、キャベツなどの葉もの野菜やきのこ類なんかも一緒に茹でたりして具にすることもある。
とにかく簡単だし洗い物も少なくて済むししかも下手に手間かけてオイルソース作るよりも上手くオイルソースが出来るしで個人的にはこの方法がマジ最強。
追記
ゆで汁を煮詰めたものなので、ゆでるときに入れた塩が残ります。だからゆでる時に入れる塩は味付けしたいくらいの分量の塩で。その他には基本的に塩味無用。同様の理由で、市販のパスタソースと合わせるのはあまりお勧めしません。自分もこれで一度地雷踏んだことがある。書き忘れてスマソん。