はてなキーワード: 立脚点とは
■その1。
前回の原稿で、オタク業界に蔓延している過剰なヒーリング志向について軽く触れたのだが、今回はそのあたりを少し突っ込んでみたい。というのも、「癒し」という言葉が、やたらと濫用され、単にナルシズムを肯定する為の方便に陥っているような気がするからだ。
さて、過剰なヒーリング志向の本質は、常に表層的な感動状態を維持したいという意志で、まあ、完璧に「感動ジャンキー」に陥っているのだけど、実の所、表層的に感動させるのは案外、簡単だったりもする。「心の琴線」というスイッチを押してやれば良いのだから。そして、感動のスイッチを押してくれるのを待ち望む人々の需要に合わせ、感傷的な設定のおたく向けメディアも大量に供給される時代になったけど、その水準には千差万別あるのも確か。
で、今回取り上げるゲームは『終末の過ごし方』なのだけど、このゲーム、インタラクティブ性はほとんどない。あくまで、CGと分岐を加えたデジタル小説というスタンスである。その為、うっかりいつものくせで速読法を使ったら、一時間もかからずにクリアしてしまった。
プレイヤーの視点は主人公ではなく、あくまで読者という第三者で設定されていて、その距離感が淡々としたイメージを増幅している。でも、美少女ゲームのはずなのに、感傷的な気持ちだけが残るというのは、どこか肩透かしな印象も受けるし、ゲームとしては、正直言ってあまり評価できないけど、心の中にひっかかりを残すという点では、上手い作品だと思う。……そして、淡々としたイメージを大事にしたことが、良くも悪くも物語を支配している。
まず、終末が近いのに、あくまで日常の延長を望むという意志を描くには、やがて来る非日常との対比が必要なのだけども、非日常の予兆が感じられるのは、章ごとのプロローグ的なラジオと、登場人物の断片的な台詞だけだったりする。主人公達以外の行動を具体的に描いてしまうと、せっかくの世界観が崩れてしまうという危険はあるけど、それにしても、慎重過ぎた気はする。また「終末」が、実際は「週末」としての意味しか持たず、学校という閉鎖空間への追憶に留まってしまったことに、少々歯がゆさもある。
『終末の過ごし方』は、感傷的な演出や舞台を、意図的に仕掛けることで成功した作品だ。それは、需要に対して忠実な姿勢だと言えるし、作品の水準も高いんだけど……。
■その2。
確かに、筆者は昔、虚構としての学校を描き、虚構の追憶を描いた『雫』を支持した。感傷的ではあっても『雫』には、自分の中の闇や暴力性を見つめる視点があったし、自分が何者であり、何処から来たのか、その理由を解体し、文脈化しようとする意志があったように思う。
最近、ユーザーの嗜好が視野狭窄的になっているというか、感傷的な設定のみに過敏に反応して持ち上げ、他の要素に対しては全く盲目になるという妙な風潮が、急スピードでユーザーとメーカーの感覚を支配しつつあるような気がする。この風潮に乗った作品がヒットを飛ばしているのは、他のメディアでも顕著に見られる傾向ではあるが、美少女ゲーム業界では、更に明確な形で現れている。その責任が誰にあるかは、また改めて書くつもりだが……。
……しかし、それほどまでに「癒し」が必要なのか? 過剰な「癒し」を消費する世界は何なのだ? という疑問は、心に残ったままだ。
話がずれるけども……残念ながら、世界は方向性を失っている。向上心を生むべき壮大な目的は、社会のどこにも存在しないし、怠惰で澱んだ空気が世界を支配している。先日、「児童売春禁止法改正」という事件があって……まあ、それ自体は強行した側も反対した側も、本質とかけ離れたつまらない思惑で動いているのが見え見えで、滑稽な印象しか抱けなかったのだけど、そんな澱んだ世界だからこそ、そもそも少女ポルノが問題となった訳だ。
だいたい、少女ポルノに需要が無ければそもそもそんな話にはならないし、何で需要があるかといえば、少女の瑞々しい生命力を媒介として、一瞬でも澱んだ空気から解き放たれたい=癒されたいという潜在的意識があるからだろう。もっとも、それも安易な幻想ではあるんだけど。
だから、癒されたいという本質が研ぎ澄まされた結果として、ポルノメディアがエロから乖離していくという現象も起きる。元々、肉体性の希薄な二次元メディアである美少女ゲームでは、更に現象が極端になっていくのは当然なのかもしれない。
僕らが置かれている世界は、全体としての方向性を失った為に、社会と向き合う意志を持たなくても十分に生きて行けるし、自分の立脚点を相対化する必要に迫られることも無い……むしろ、それを持っている者、自覚的である者が排除されていくというパラドックスも生じている。
各々が「癒されたい」「楽になりたい」という快楽原則に忠実であるあまりに、自覚的な存在は、快楽原則を脅かす存在として、集団の中から自動的に排除されてしまう。そうやって完成された巨大な快楽原則=システムには、既に評価軸なんてものは存在しないし、結果として、罪の意識を漂白した、商品としての表層的な刺激だけが残ってしまった。
……だからこそ、優雅でも感傷的でもない、痛みを伴う物語が必要になっていると思うのだけど?
■総括。
本当は、それぞれのユーザーが、ゲーム(物語)に対して、どのような意志を感じるかが問題で、このコラムも、あくまで参考資料だと思って欲しいなあ……という訳で、なんだか賛否両論な『こみっくパーティ』だけど、次回、テストプレイが間に合えば取り上げてみようかなあ、と思います。
あと、批判するつもりは無いのだけど、なーんか、批判的な言い回しが多くなってしまう……というジレンマを抱えながらも、同時に、論評に耐えられるだけの水準が無い、つまらないゲームは最初から取り上げないのが、このコラムだったりもするので、ここは一つ、実際にプレイして、自分なりの感想を持って欲しいのだな。
駅で池沼がタウンワークのスタンドを倒して中身をばらまいていた。そしてそのあと、母親であろう老婆が片付けていた。もう彼女にとっては何年も、何十年も繰り返されてきた事態なのだろうと想像がついた。
片付けるという行為は非常に高度な知性が必要な作業名だと判った。そして、人が人である立脚点は知性なのだとも。そりゃ見た目にインパクトのある障碍者は多い。満足にしゃべれない障碍者だっている。でもネット上での言葉のやり取りならそれは判らない。ただ知性があるだけで、対等な人物がモニタ越しに鎮座ましましてると想像はできる。そうやってデバイスの進化、ネットワークの普及でそれまでとは違う経験を得ている障碍者は大勢いるのだろう。それはとても平等だ。
しかし、彼ら知的障碍者はどうやっても救われない。たとえ微力でも社会に参加もできない。わたしは着床前診断を強く強く推奨する。母体への影響と天秤にかけてもだ。彼らの誕生で得るものはない。