毎年、おせち的なものは大晦日にほとんど食べきってしまうので、いざ正月を迎えたときに食べるものが思いつかない。
元旦はお雑煮を食べるとして、でもそれは朝食べてしまうので、晩ごはんどうしよう?ってなる。
まあおせちの残りとかうま煮の残りとかを食べるかな。
で、三が日のお昼とかは残りの餅を砂糖醤油やきなこでちょこちょこ食べる。
ほかの道民の皆さんはどうしているんだろう?
「電車に汗臭い人が乗っている、不快だ」と「汗臭い人は電車に乗れないようにしよう」には隔絶した違いがあるのだが区別がついていない、どころか「乗れなくしないのはおかしい!あぁやっと言える社会になった!抑圧されていた!素晴らしい社会になった!」と目をキラキラさせて言うようになった
社会人になって、まもなく9年が経とうとしている。
義務教育も9年間だが、あの期間中の自分の成長と比べると、どうもこの9年間は(物理的に体が大きくなったことを除けば)成果に乏しい気がしてならない。
もちろん所謂社会人的な経験や、社会の本音と建て前みたいなものの片鱗は、多少なりとも体得できてきたように思われる。が、ひらがなや1+1からスタートし、高校受験レベルまでの知識を得てきた9年間と比べると、あまりにも心もとない成長度合いだなあともの悲しくなって仕方がない。
これでも大きな変化として、結婚と子供の誕生は挙げられそうだ。
結婚を通じて感じた、家庭を築く難しさと相手に対する感謝の気持ちの大切さというのはとても真新しく思われたし、生まれてきた子供が異常なまでに早く成長していくスピードを見ると(生まれて1年後には歩き出し、2年後にはどんどん喋り、3年後には正論で親を諭してくることすらあるのだ)、いよいよこの人生の主役は自分ではなくなってきたかのようにも思える。
もちろん自分が主人公で居続けたいと思えば、今の過程をぶち壊すことだって原理的には可能なので、自ら好き好んで主役を降りた一面も多分にあるのだが。
これから先、これほどまでの大きな変化がどのくらいあるのだろうか?
そう思うと、この9年間よりも、もっと無機質で中身のない9年間がこれから待っているような気がしてくる。ジャネーの法則の通り、中身の薄さに反比例するかのように、時の流れはどんどん早くなっているように感じる。
現にフェミがずっと書いてるじゃん
クンニ✋(👁👅👁)🤚
ワイのことやん
俺はお前の言う表自だと自認する身だけど「ある種の表現を公の場に出す事はそれそのものがセクハラ」という考えは認めているよ。
その上でその「ある種の表現」がどのような表現を言うのか、まずは社会的合意を取ってからゾーニングだなんだは叫べと思っている。
そりゃあ職場にヌードポスターがあったら大多数の人はセクハラだと思う。これは社会的合意が取れている状態と言って良いだろう。
じゃあ近年たびたび話題になっている萌え絵広告なんかはどうだろう?
俺には極一部の得意なネットクラスタの人が目くじら立てているようにしか見えない。
だって、現実で会う非オタクの普通の人々を見ても規制を叫んでいる人なんてほぼほぼ見たことがない。圧倒的大多数は無関心でしかないもの。
正負問わず関心のある層だけ取り上げても、近年のオタク文化の興隆を思えば、規制派と呼ばれる存在はその手の表現の愛好者よりもほぼ確実に少数派だと思われる。
そんな状態で「こんな表現を堂々と見せるなんてセクハラだ!」と言われても「まぁ、そういう特殊な取り方をする人もいるんですねぇ……」以上の感想は出てこないよ。
思ってなきゃわざわざ晒さないでしょ。
するに決まってるじゃん。
俺は本だったりゲームだったりから影響を受けて、人生の行動指針が変わったと思ってる。
例えば車の来ないタイミングでも赤信号を無視しないのは、西校ジャンバカ列伝かほりさんの影響だ。
いい方向に影響を与える力があるなら、悪い方向に影響を与える力もあるだろう。
マンガと現実の区別もつかないのか(笑)なんて言うやつは、マンガなりゲームの力をナメてる。
マンガ好き、ゲーム好きなやつこそ「表現が現実の性犯罪や性被害を誘発する」(こともある)という論には賛同するんじゃないか。
で、各種実験で違いが見えないのは何故かだっけ。
日本の性犯罪件数は年間1万件とかそれくらい。1億人強で1万件ってことは1万人で1件。
それぞれ1万人を1年間追跡しても、性犯罪が増えたかどうか精度の良い測定はできない。
そこまでの規模の調査が行われてないだけじゃないの。