「パブリックアート」を含む日記 RSS

はてなキーワード: パブリックアートとは

2022-06-01

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220530-OYT1T50247/

から一時撤去の裸婦像、再設置を見送る方針…「パブリックアートとは何か再考を」との声も

兵庫県宝塚市宝塚大橋改修工事で一時撤去された裸婦像「愛の手」について、同橋を管理する県と市が、再設置を見送る方針に傾いている。芸術的価値を認めつつ、ジェンダー社会的文化的性差平等観点から公共空間に据えられることに不快感を抱く市民らに配慮した形だ。

関西圏ムスリム人口が増えている現在ジェンダー平等のみならず宗教的配慮という観点でも撤去妥当だろう。

2019-10-12

アートに関するよくある勘違い

表現不自由騒動きっかけなのか、最近アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。

とりあえずポリティカルなことや特定展覧会人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違い淡々と正してみる。

文章が読めない人向けに繰り返すが、別に表現不自由展」など特定展覧会作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート芸術」に対する先入観について語っている。


自費でやれ?

基本的に、人間芸術で食っていけないという前提がある。

前史時代から現代に至るまで、金銭作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれ芸術作品芸術はいない。

「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。

パトロン

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族王族庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品メディチ家庇護のもと、もしくは依頼で作られている。

モーツァルトのようにフリー音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。

現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。

政府

こちらは王政封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。

-

政治思想とは一定距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位アーティストを雇い、パブリックアート制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である

因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動バンバン興った。

それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界アート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。

-

一方、プロパガンダ芸術で有名なのはソ連ナチスなど。政府意向政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品政府思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。

上述した政治思想とは一定距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。

ただ、これらの政府体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。

あくま個人的見解だが、プロパガンダ芸術はその性質大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。

なお、これらの国では、現代アート前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストアメリカ渡り祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。


政治色をもつ作品芸術ではない ?

上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。

だが「20世紀代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。

現代であれば例えばバンクシーは思いっき政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。

文学音楽映画だって政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。

政治色をもつ作品アートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。


大衆に受け入れられないもの芸術ではない?

しろ現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。

バッハミケランジェロボッティチェリレオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族王族むけに作品を作っていた。そもそも一般大衆向けの芸術ではない。

時代大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎ケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術ほとんどは淘汰されている。

-

現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキージョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったこだってある。

これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展花形だし、ストラヴィンスキーバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさん美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆感覚はあてにならなくなる。自分感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。

かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ

グリーンバーグ論文

この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドキッチュ」っていう論文が分かりやすい。

この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆感覚芸術作品価値乖離について論じている。要するに、「大衆迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。

80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。


不快作品公序良俗に反する作品芸術ではない?

作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話聖書出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。

実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実女性の裸を描くなんて、淫猥である不道徳まりない!下品メスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。

しかし、どちらの作品も今やマネ代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代芸術からオマージュ対象とされるような絵画として扱われている。

一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象枚挙に遑がない。


写真みたいに写実的に描けている作品は素晴らしい?

簡単にいえば、写真実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。

で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画からこそできる表現」というものが重視されていくようになった。

そして「じゃあ絵画価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート特に後者現代美術への影響は色濃い。

もちろん、写真のようにリアル作品価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアルであるかどうかとは別の土俵表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。


終わり

分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。

文章中でも少し触れたが、アメリカ中国欧州比較すると日本美術市場はかなりちっぽけだ。国内アートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在アメリカ立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。

アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。

2019-03-10

表現の自由戦士に肩入れしない理由について述べる

毎回フェミ晒しあげられる光景を見る度にモヤモヤする。ブコメだけではではいつも言いたい事が何も言えず、一度そのモヤモヤを雑ではあるが増田アウトプットしてみたいと思い、不慣れな長文を書いてみる。

フェミの主張の大筋は要するにエッチものを世に溢れさせるなという主張だと何となく考えている。この問題は非常に議論しづらい難しさがある。例えばエッチものとはそもそも何なのか誰が決めるのかという切り口だけでも大変複雑な難問であり、それに対して「表現の自由侵害」「お気持ち押し付けるな」という反論だけでは有効カウンターになってないのではないかというのが俺の見解だ。後に詳しく説明するが、この問題において議論されるべきだと俺が考えているのは公共空間デザイン表現の自由バランスについてなのである。ところが当のフェミからもオタからもそのような議論がされている様子はほとんど見られず、見るも無残な中傷合戦に終始している。クリエイターからはそのような話が出る事が多々あるのだが、オタもフェミもこれらの問題に対して無関心を貫いていると言わざるをえない。ある意味で我々の価値観の過渡期であるにも関わらず、肝心の論点が置き去りになるその不毛な状況に対しての失望こそが俺が感じるモヤモヤの正体なのだ、とようやくこの文章を書きながら気づいた。

例えば近年、学校官公庁公園などといった公共空間に設置されている裸の少女の像や裸婦像の絵画などがフェミによって問題視されるケースがある。一見するとそれは荒唐無稽な主張かもしれない。しかし裸の女性というモチーフ西洋芸術文脈においては古くからの一大ジャンルではあるが、一方ではエッチモチーフでもあり、我々は単にそれをエッチものと捉えてはならないと繰り返し教育を受けてきただけに過ぎない。パブリックアート公共空間における彫刻や造形、絵画のあり方としては、すでにエッチものには疑義が生じているという状況と考えてもいいだろう。

言うまでもなく公共空間というものは幾多もの他者自分とが相互に関わりあう空間であり社会のものである。そのような場にエッチ創作物がさも当然のように鎮座する事が保証されるのが表現の自由というのはいささか暴論だ。他者と関わりあう場だからこそ公共空間における表現は常に綱渡り的なバランス取りを強いられる。仮に頭のおかしフェミによる病的なクレームであるにせよ、クリエイターは観客のリアクションを受け止めざるをえない。おそらく世の大抵のプロアマ含めたクリエイターはそれを十二分に自覚しているはずだ。つまり表現の自由公共空間社会という危うい綱渡り最初から常に晒されており、真なる表現の自由というのはそもそも幻想なのである。真なる表現の自由がもし完全に存在する空間があるとするなら、それは引き出しの中の鍵付き日記のような私的領域における創作という場において以外はありえず、フェミがそこまで創作行為批判しているようにはどうにも思えない。公共空間作品を送り出す以上、我々は常に公共空間にとってセーフかアウトかを社会に対して問いながら、あるいは喧嘩を売りながら生きていく他なく、現代においてエッチもの忌避されるならばそれは綱渡り判断材料の一つと捉える他ない。それは別に表現の自由侵害でも何でもない。元から創作活動というものはそういうものなのだ

そんな議論ができればいいなとは思うのだが、フェミもオタもそういう話には興味がないらしい。公共空間からこそ快不快という主観のぶつかり合いが大切なのに、一番のキモであるお気持ち」が軽視されている現状は何なんだろうな。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん