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2011-02-03

なぜアラブ革命精神を恐れるのか? スラヴォイ・ジジェク

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました

なぜアラブ革命精神を恐れるのか?

チュニジアエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋リベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?

チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府イスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。

去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はま継続であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派イスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。

原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバン普通テロにより支配を押し付け原理主義イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンパキスタンスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンアメリカリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?

これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした宗教伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?

こうした背景をふまえたうえで、チュニジアエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要ですしかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日エジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプト平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラク軍隊派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。

ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力イスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説タイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌した政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。

西洋リベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。

さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグ国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。

訳注毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。

2010-07-21

アクション書評 梅棹忠夫文明の生態史観」 (1966)

①まず読んで、これはずるい、と思った。

第一にこれはきちんとしたかたちの「論」なんかではない。

著者自身がくりかえしそのことを強調している。「文明の生態史観」は今後の研究のための作業仮説であり、デッサンであり、研究計画、である、と。つまり研究者にとって、もっともしんどいけど絶対に必要な、史料や文献によって自分の仮説を検証したり補強したりするという作業をすっ飛ばしている。記者が、裏をとらずに想像で書くようなものだ。政治家が、公約だけで政治を行うようなものだ。

②そうはいっても、このビジョンはすごい。

 なぜ世界(ことユーラシア大陸内)には経済が発展し豊かな国々がある一方で、貧しい国があるのだろうか。なぜ他ならぬ日本けがアジアの中でこれほどまでに高度な経済発展を遂げているのか。まずこの問題意識がいい。こうした問題意識は、こんにち「グローバルヒストリー」として、世界史の1つの重要研究テーマになっている。著者は50年前の早くからそれを予見し、問題提起をおこなっていた。この先見性には、正直舌を巻く。

 また、その問題意識のもとで提示した仮説も面白い。とくに著者が両者を分け隔てたものとして強調するのは、西洋日本はともに封建制で、それ以外のユーラシアの国々は、独裁制専制君主制をもっぱら、敷いてきたという指摘だ。前者は1人当たりの富を育成する方向に進むが、後者は特定の為政者に富が集中したまった富がおりていかない。(ただ、一口封建制と言っても、日本西洋封建制は実はかなり違うものであることが専門家から指摘されていることには注意したい)。

③ただ、さすがに時がたったな、と思う記述もある。

 それは、この本で扱われる日本ポジションだ。西欧社会に唯一肩を並べる、ユーラシア大陸でも特別な存在、として描かれている。日本が今繁栄しているのは、(後進国中国はなく)先進国西欧社会文明史的な共通点があったためだ、と主張する。「日本とそれ以外のアジアでは交通、通信など密度がぜんぜん違う。決定的な違いは工業力だ」とまで言い切っている。梅棹先生がも50年後にこれと同じテーマで本を書いたとして、日本について同じような見方をできるだろうか。興味深い

2010-04-02

思想の自由市場と性表現

鬼のようなことを言うと、世表現規制したい人って、ポルノ業者を駆逐してより優れた性表現をすることができないだけではないのか。

性教育はしなければいけないが、ポルノの性表現を超えてデファクトスタンダードとなるような良質な性教育を行うめどは立たない。

さらに言えば、彼らの供給する性教育クライアントたる子供への訴求力が足りない。ヒットした『ないしょのつぼみ』を書いたのはやぶうち優という民間の作家小学館という民間出版社であって、文部科学省学校ではない。(おそらく『ないしょのつぼみ』は性教育に役立っているにも関わらず、性教育に反すると言われて規制の対象に挙げられるだろう。なーんじゃそれ?)

じゃあ文部科学省学校は何をやっているのか? つまらなく受け入れられない性教育を続けるだけか? それでは子供性教育をつまらなく思い、受け入れないだけだろう。教育が成立していない。

彼らが供給者として失敗しているから、他の供給者を駆逐しよう、というのは全く社会の発展に資さないというか、自由主義以前の封建制絶対王政の思想だと思う。

自由主義国家としては、ゴミのような言論が流行っていると嘆くなら、もっと優れた言論を野に放ってゴミを駆逐したらどうよ、出来ないならお前らの方がゴミなんじゃないの、ということになると思う。

2009-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20090327004212

「視点をずらす」のが定石。メタにもっていけば相手を矮小化して嘲笑できる。具体的には

  • 論点ではなく議論の枠組みを非難。
  • 相手の主張ではなく人格を非難。
  • 作品ではなく作者について語り始める。
  • 事件ではなく時代背景について語り始める。

ベタな戦いではデモナイズが有効。何か共有できる絶対悪(封建制でもナチスでもブルジョワでも何でもいい)がある場合には、相手をそれに結びつけて有罪宣告する。共通する属性が何かひとつでもあればいい。共通点が見当たらない場合には「隠蔽された~~」とか言って牽強付会する。

2009-03-07

東大合格するもう一つの方法(日本史編)

今年で東大文系)を卒業する。いまさらだが、東大受験勉強について語ろうと思う。受験勉強にもいろんなやり方があるんだということを、これから東大受験するであろう後輩に送りたくて書く。

誰でもそうだと思うが、僕は「受験勉強」が嫌いだった。暗記科目といわれる「日本史」と「世界史」が特に嫌いだった。教科書を声に出して暗記しよう!としたこともあったが10ページで挫折した(頑張ったほうだと思う)し、買ったはいいけれど結局1ページやって終わった問題集が何冊もある。

受験が迫ってきた秋ごろになってようやく気付いたことは、受験勉強用の本はつまらないという当たり前のことだった。そこでたてた戦略は、できる限り一般書を読んで勉強しようというものだった。

主な対象

考えるのは好きだが、覚えるのは得意ではない。

参考書と問題集とにらめっこしながら机に向かうのが好きではない。

誰がどこで憤死しようが、何年に農民が一揆しようが関係ない。

攻略法日本史編)

東大日本史は、センター試験日本史よりも断然にやさしい。それは、細かい人物名や出来事を覚えている必要がないためだ。

東大日本史は、「古代」「中世」「近世」「近代」について、それぞれ論述式の回答が求められる。いろいろな資料や図表が示され、「当時の将軍家と皇室家の関係を論ぜよ」とか「だれだれが行った施策はどのような狙いをもったものか」といったことが問われる。

要するに歴史の流れを理解していて、基本的な知識さえあれば、あとは資料を読み込んでその場で考えれば正答を導くことができる。

さて、このような知識を覚えるための方法だが、「受験対策教材」では無駄な枝葉の情報がそぎ落とされていために、教材の「丸暗記」をすればよい(これが僕は苦手だ)。

しかし、受験意識していない一般書は(受験にとって関係無い)無駄情報の塊だ。それらを全て丸暗記するというのは効率が悪いし、暗記したところで役に立つかどうかわからない。こうして、「とにかく沢山の本を読む」という結論になった。結局自分が読んだ本は三種類に分けられる。受験のために最低限必要な知識を得る受験基礎本歴史の大きな流れを理解するために読むコア本、雑多な知識を身につける豆知識本だ。

受験基礎本

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最初はおなじみ実況中継シリーズから。これで一通り網羅しておけば、他の受験生が知っていることを「はじめて聞いた」ということはなくなるはずだ。

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自分の文章化能力に問題がない限り、まじめに解く必要はない。いろいろなテーマをとにかく覚えるのだという心意気で、片っ端から解答を読むべし。

コア本(ダイナミズムを理解する)

古代中世

http://www.amazon.co.jp/dp/4004305004

http://www.amazon.co.jp/dp/4004305012

http://www.amazon.co.jp/dp/4004305020

古代中世の大きなうねりを理解することができる。古代中世を、公家武士の時代だったと思っている人は読むべし。特に、神社寺院や海洋ネットワーク、芸能・文化を政治社会と絡めながら覚えられる点が非常に役に立つ。

近世

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江戸時代メインテーマは「幕府政治システム」と「民衆の経済システム」なのだが、その前者を網羅的に抑えることができる。

近代

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近現代の歴史を理解するためには、経済を軸にして考える必要がある。江戸時代中期からゆっくりと、社会体制が封建制から資本主義へと転換したからだ。経済史を理解すれば、ほとんどの問題を解くことができる。

豆知識本

コアとなる本の他にも、いろいろな細かい事象を覚えるために本を読む必要がある。受験後に数えた限りでは、日本史関係で30冊前後だったが売ってしまって手元にないので思い出せたものを記述する。とにかく、本屋みかけ日本史関係ありそうな新書は片っ端から買っていた。

古代

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古代歴史ミステリー的に「~といわれているけれど実は・・・」「近年の調査によると・・・」「私の見解では・・・」といった周辺知識が頭にこびりつくようになり、結果として(教科書的な)本筋をしっかりと覚えることができる。

中世

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中世テーマは一言でいえば「武家の起こり」なので、源氏とか平家とかに関連するものを読めばよい。

近世

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江戸時代将軍や町人を中心に把握しがちだが、(補集合としての)百姓にも注目しておくとこの時代の理解が深まる。

近代

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近現代は「イベント」か「人」で把握する方法がある。大枠はすでに理解しているはずなので、イベントや人物のトリビア的なものを読んでいればおのずと知識が定着するはずだ。

最後に

受験対策に一般書を使う、という試みで最も大変だったのは「網羅性」を確保することだった。「邪馬台国」や「戦国大名」のように人気があるテーマの本はたくさん出版されている一方、地味なテーマである「土地制度」や「社会制度」について触れている本の数は激減する。新潮新書岩波新書などメジャー新書シリーズであれば、出版社が出している目録が大きな本屋においてあるで、必要なトピックの本を取り寄せも活用して買いそろえる必要がある。

正直、これが「効率がよい方法」だったかと問われると疑問だ。ただ問題集を解いて覚えていくというスタイルがどうしても性に合わなかった自分に、最適な方法だったといえる。高校時代ずっと地歴科目が苦手だったが、最終的に本番の試験日本史では47点/60点をとることができたことが、この方法論もあながち悪くないものではないという証左になればと思う。

正確な単語や年号の暗記を要求される予備校模試では20点を超えることはなかったし、センター模試でも50点を超えることはなかった。

ちなみに、暗記が要求される世界史は30点だった。世界史については自信がなかったので論述における「必死ポイント」(単語とか正確に知らなくても必死に書いたらもらえる点、造語だけど。)があったのだと信じている。

#匿名ダイアリーでも本のタイトルamazonから自動で引っ張ってくる方法を教えてー

2009-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20090213214819

あそこでその地方の人たちが封建制矛盾について語り出したらどうするんだろう。

どうするんだろうって危険思想の持ち主として退治するんだろうけど。

そういうエピソード作ってほしい。

2009-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20090121235459

差別」は、平等を原則とする近代民主主義社会の阻害要因でありマイナスの効果があるため、右翼左翼問わず批判されて当然です。

差別」を良しとするのは、弱肉強食主義者馬鹿)、前近代的封建制身分社会支持者、もしくは全体主義の支持者(ファシスト)と考えられます。

2008-11-23

http://anond.hatelabo.jp/20081123171535

公教育だけでも社会の支配階層に食い込めるようなシステムづくりをしなければ永久に既得権益層による寡頭制社会が続くけどな。

これが本当なら一度でも中世封建制になった国は永久にそういう社会のはずだが現実には封建制が潰れたところはいくつもあるんだがそのあたりはどう思ってるんだろ。

そもそも中世が本当に機会の平等がなく固定化した社会だったのか自体疑問だが。

2008-06-22

必然性ネガティブ自己暗示

自分らしく生きようと思って毅然とした態度をとらないと、必然性の面をしてやってくるのは、自分が思い描く選択肢の中でまちがいなく一番つまらない人生。ようするに、自分で当たりくじを用意して引かないかぎり、100パーセント確率でスカを引かされるようにこのゲームはできているのである。それはどこかの金儲けのうまい人間、一度も会ったこともない人間が書いたシナリオをそれが世間の常識であるかのようにだまくらかされて、つかまされているだけ。

封建制でない社会では、自分で責任をとることを条件に、そのようなシナリオを拒否してもよい。

しかし、最終的に誰かが何とかしてくれるはずだと心の底で思っているうちは、何をやってもうまくいかないし、うまくいかないことを他人のせいにしたがる。凡人というものはそのようにしてできる。

ようするに、本当に好きなことをやる代償として自分の人生責任を引き受ける勇気がないのだ。ほかに誰が引き受けてくれるのかじつは知らないのだが。

老い先短い人生で一日でも多く鬱々とした日があるというのはまったくもって馬鹿馬鹿しい。それがいったいなんの得になるというのか。そういうことをして自分以外の誰が満足しているのか。

日本では、「いまこれをやっておかないと将来ひどいことになりますよ」というかたちで、親切な忠告めかして、やんわりと、ねっとりとからみついて脅しをかけてくるやましい輩が多すぎる。そういうことをする奴らはようするに他人が自分より面白い人生を送ることに我慢がならないか、たんに金が欲しいだけなので、よけいに腹立たしい。よく外国人が、日本では真綿で首を絞められるような苦しさがあるというが、そういうことだろう。上品に見えてこれは本当に卑しい心根である。

日本に長くいるとそういうことが自然になってしまって、気がついたら鬱になったりしているので、卑しい馬鹿は尻を蹴飛ばしてやらないかぎりどこにも行かないということをときどき思い出さなくてはならない。

2008-06-08

経済グローバル化ブッシュが年次改革要求出してきてるのでやってるふりしてるだけだろ条項。実のあることは何もしてないよ。日本封建制のまんま。グローバリズムだの外資金融だのという掛け声に騙された馬鹿が次々自殺してるだろ最近

今は改革してるようにみせながら実は元に戻ってるという微妙な時期なんだろなあ。マスコミが言わないのも微妙だからでしょ。ブッシュからは改革してるように見えないといけないわけだし。

そういうきっつい時に起きたのが秋葉事件なんだね。

http://anond.hatelabo.jp/20080608162443

封建制というのが事実とするなら……

ここで派遣は死んでも良いとか言ってる人たちって、つまり封建制の上の方の人たちなわけだよね?

昔で言えば武士とか貴族みたいな?

単純に興味あるからどういう家柄で、どういう学歴で、どういう仕事してるのか知りたいな??。

2008-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20080511172731

とおりすがりでかつ印象論で悪いけど一応説明しておこうかな。

日本江戸時代から(封建制だったのもあって)中間団体(株仲間とかいい例)に権限委譲してそこで自治させることで、政府の規模を抑えてきたという経緯があんのね。(これが欧州国家の場合、中間団体を邪魔者とみなして政府に権限を集中させてる。)これは現代、というかつい最近までそうで、たとえばいわゆる「業界団体」を組ませてその中で自治させて、必要に応じて行政指導するわけ。そうすると官吏の数自体は少なくて済む。身近な例だと、町内会なんかそうかな。田舎に行くと町内会は結構手広い業務をこなしてるんだよ。

ところがこれにはデメリットもあって、横並びや談合競争抑制を生んでしまうので、国全体の生産性が下がってしまいがち。それで最近はこの方式をやめることになったんだけど、そうすると政府の規模は必然的に大きくなる。この問題に対してはEUの場合「補完性原則」(サブディアリティ)、日本で言えば「地方分権」で対処しようとしてるんだけど、そううまくいくかどうか。

こんな感じで理解してもらえたかなぁ。何のデータもないけど。

2008-04-11

ネガティブコメント論:自由からあえて逃れる人々

古代ローマ末期には「自由」なはずだった市民は、城壁の外に荒れ狂う暴虐を恐れるあまり、みずから大土地所有者=領主の奴隷(コロヌス)となりさがり保護を得た。自由というのは危害を受ける自由ではないのだ、そのことを忘れるべきではない。

ネガティブコメントが荒れ狂えば、それを恐れる人々はますますmixiのような城壁の中に逃げ込むようになり、実質的な「自由」は大きく損なわれるだろう。いくら城外が自由であっても、人がいなくなっては意味が無い。

なお、領主がコロヌスを守る制度=封建制度は、後に立ち現れる主権国家によって打破され、国家の力によって市民保護が果たされるようになった。ネガティブコメントのような行為によってネットが細分化されることがあれば、ネット情報伝達効率を落とすことになるのだから、それを嫌った国家公共の福祉の名の下に介入することもないとは言えない。別にそれは悪いことではない、自由を履き違えて最低限の倫理を忘れた人々が悪いのだ。

こういってもわからなければ、こう言い換えてもいい。自由なら何をしてもいいなら、アキバ変態パフォーマーと何も変わりはしない。

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