はてなキーワード: ぬことは
1. システムを作ることと研究することは違うとよく言うが、結局どう違うのか僕にはよくわからなかった。その違いはいったいどこで学ぶんですか?少なくとも自分は今まで、何だかんだいって最終的にはシステムありきとされる主題にしか関わってこなかった。自分で習得しなかったのが悪いといわれればそこまでだが、果たして自分の中で自然と発生する課題意識を捻じ曲げる必要があるのだろうか。とはいえ、デキル人はその自然と趣向される課題意識を研究タスクに細分化できることは分かっているのだが、そのメソドロジーはどうやれば習得できたのか。
2. つまるところ言うと、自分の思考は極端に「システム」と「そのシステムによってできる世界」に偏向しすぎてしまっている。さてこの場合問題となるのは、そのシステムおよびできる世界が、自分より先に来てしまった場合どうするかということである。簡単に言うと、やりたかったことがもうやられちゃった場合どうすればいいの?ビジネスや趣味として開発している場合なら「先越されちゃいましたー、失敗プロジェクトです残念!」と言えるかもしれないけれど、研究の場合はこれまで議論してきた時間コストの消費はもう取り返しがつかない。
3. そのような窮地な状況において、あらゆる魂胆を用いてゼミを一時しのぎする方法というのは、偉大なる先輩方から色々聞いたりもする。しかし、そのような手法は極めて無意味というか逆効果であることは、自分によって2回も実証済みである。結局最後のこの時期に死ぬことになるだけ。ゼミという場は議論する場であるわけで、例えボコボコにされたとしても、困っているのであれば率直にそれを報告して真摯で痛烈な意見をもらった方が、よっぽど自分のためになる。まあ、それを毎回繰り返してもいっこうに前にすすむことができないならば、よっぽど毎週何も考えてなくてポカーンとしているわけではない限り、不運なことにそのゼミの議論と自分の相性が悪かったと検討するのも妥当ではある。
4. とはいえ、もう無理やり何かしら適当にシステムを作って、強制的に文章化してしまうことは可能だろうし、修士までならそれで学位をとることも可能だろう。しかし、これはエンジニアとしての性格であろうが、たとえ研究的に意義を見いだせるものであっても、車輪の再発明をして納得のいかないシステムを世に送り出してしまうのは、どうしてもしたくない。これはわがままというものだろうか。しかしなんだろう、学士の時はこんなことは全然考えずにとにかく学位が取れることが重要のように思っていたが、修士ではそうは考えなくなった。問う、「なんのために修士課程にきて、なんのために自分のキャパシティーを消費するのか」。
5. 上記意見は全て自分を合理化するものであることは、自分で後から読んでも十分にわかる。でもそうとでもしないと、この窮地な状況で手を動かし続けられないでしょ…。
竹光は「斬れない」というだけで叩かれれば痛いということだ。
それに、何度も叩けば死ぬことだってあるかもしれん。
つか、またお前かよ >ボトムズ次回予告
雇用が改善しないことに対してBIしろだの、働かなくても暮らせる国作りをしろだの、働かない奴の食い扶持を出すのは嫌だ、だの色んな意見がある。俺もこの先雇用は改善しないと思うし、どうやったって「働か(け)ない人」の割合が増えていくと思う。
当然、働いた奴だけ負担して働いていない奴はタダ飯食わすわけにはいかない。だから、何かしら「仕事」は必要だと思う。国が管理する物で一番やりやすいのは「掃除」だろう。人間が居る限りどうやったって街は汚れる。掃除しなければいけない箇所なんて多々あるし、何の資格も体力も必要なく、大人から子供まで出来るだろう。
掃除に限らずとも放置自転車の整備とか介護の手伝いとか農業の手伝いとか何かしら仕事はあると思う。そういう誰でも出来そうな仕事を国が管理して、仕事量(貢献度)に応じて配給する分量を変えていけば良いんじゃないだろうか。
そういう人達は就職している人と比べて自由な金は手に出来ない。しかし、少なくとも死ぬことはない。人の嫌がる仕事をすることで貢献してるし、その仕事は人間が居る以上、すぐに無くならない仕事でもある。だから、雇用が改善しないのなら、BIとか生活保護の変わりを政府が用意して、それを条件に生活を保証するようにしてはどうだろうか。
「どうもーはじめまして」
「はじめまして」
「今日は、生きる目的というインタビューです!あなたの生きる目的はなんですか?」
「そうそう。何のために生きるとか、生きがいとか、これがあるから生きているとか、漠然としていてもいいです」
「そのテーマなんですけど、それを聞いたときからよく考えてみたんです」
「そんな難しく考えなくていいよ?簡単に、生きていてこれが楽しいとか そんなでもいいから」
「はい」
「恐怖です。」
「恐怖?」
「そう、恐怖です。」
「生きる目的が恐怖?」
「はい」
「どういうこと?」
「はい、私の人生を振り返ってみると、私の行動原理が全てにおいて、恐怖を根底においていました。ですから「生きる理由は?」と聞かれたら 「恐いから」としか答えようがありません。恐いから。 恐さからの退き。恐怖からの脱却。恐れからの逃げ。 私の生涯はそこに全てが集約されております。 楽しむとか好きなこととか達成とか勝つとか欲とかそんなもんありません。 あるのは恐怖。恐さを退くためだけに生きてきました。 それ以外はありません。」
「楽しくはないですよ」
「じゃあ死んだらいいじゃない?私なら耐えられない」
「死ぬのも恐いんですよ」
「何が恐いの?楽になれるかもよ?」
「いろいろ恐い。痛そうだし。それに、今の状態って 別に私にとっては特別じゃないからあえて死ぬほどの事でもないんです。 これが普通」
「マゾじゃないです。やはりこういう恐怖におびえるだけの毎日って疲れるんですよね。いくら恐いからとはいえ」
「じゃあやっぱ死ぬ?」
「死なないですよ。恐いから。死ぬことの何が恐いかって、一番は母親です。母親がどうなるかわからない。次は妹です。彼女たちは少なからず私の死に対して悲しむでしょう。 病むかもしれません。それは私にとって耐え難い。今のところそれを越えるほどの恐怖を抱えてはいません。だから私は今生きております。」
「家族のために生きてるってこと?」
「違います。生きるのは普通に生きてます。死なない理由は家族の恐怖に耐えられないからです。つまり自分のためです。」
「よくわからないけど」
「いいんです。似たようなもんですから。私が言いたいのは人のせいにしたくないということだけです。」
「でも家族は人のせいにしてでも生きて欲しいって思ってるんでしょ?」
「決めるのは飽くまで私自身ということです」
「はあ」
「ですからですね、話がそれましたが、私の理想としてはですね、誰も悲しまずに私が恐怖に脅えることなしに、できるだけ早く。出来るだけ早く終わることが出来ればそれが理想なのです。」
「早く死にたいってこと?」
「なんの弊害もなければね」
「親より先に?」
「先には死ねないですね。ですから、恐怖が無い、誰も傷つけない形で、できるだけ早く、です。」
「それって、親が死んで、妹も死んでからってこと?早く無いじゃん」
「一緒でしょ?」
「一緒です。ニュアンスが違うのです。死そのものに対する欲求はありません」
「よくわからない」
「つまり、死を望むわけではなく、生の終焉を望むのです。結果は同じですが、私の目的は飽くまで生にあるのです」
「じゃあそれは置いときましょう。出来ることなら、早く終わりたいこれが私の望みです。私のような人は多いと思いますよ。」
「え、そうかな?みんな長生きしたいんじゃない?」
「そういう人も多いと思います。」
「君は違うっていうの?」
「そうです。おそらく、長生きしたい人は生きていることが楽しい人か、若しくは人生に希望がある人ではないでしょうか」
「生きていて楽しくないの?」
「そうですね」
「全く?全く楽しいことなんて無いって言うの?」
「全くではありません。楽しいこともあります。要は比重の問題です」
「ひじゅう?」
「どういうこと?」
「つまり、よくアンケートでありますよね、四択で、はい、いいえ、どちらかというとはい、どちらかというといいえ」
「うん」
「私はどちらかというといいえ、なのです。楽しいことが、全く無いわけではないけれど、長生きしたいというほどではない」
「じゃあ何で死なないの?」
「恐いから生きてるってこと?」
「全然」
「でしょうね」
「でもさ、これから生きていればいいことあるかもしれないよね?」
「あるでしょうね」
「じゃあもうちょっと生きたいとか思わないの」
「思いませんね。なるべく早く終わりたいです」
「なんで?」
「え、なんの話?」
「つまり、長生きしたい人は人生が楽しいか、希望がある人か、その後半の話です」
「おそらく。」
「希望はないってこと?」
「ないですね」
「でもわからないでしょ?先のことなんて」
「わかりません」
「じゃあ、この先長生きしたいほどのことがあるかもよ?」
「期待はできません」
「なんで?わからないじゃん」
「どういこと?」
「つまり、期待とは可能性の問題です。可能性とは、現状から予測できる今後の見通しです。それが期待です。現状とこれまでから予測する限り今後は期待できないということです。」
「わからない」
「ですから、今までがこうだった、そして今の自分がある。未来を予測する際の基準は過去と今です。」
「うん」
「極端な例を挙げますと、今まで数学のテストが0点で、今日も0点だったその人が明日のテストで100点を取れると思いますか?」
「すごい努力すれば出来るかもよ?」
「0点ばっかり取ってたら嫌いになるよ」
「あるかもしれないよ?」
「可能性はある」
「何パーセントぐらい?」
「…1パーセントぐらい」
「でも先のことなんてわからないじゃん?」
「わかりません」
「はい」
「じゃあその間に希望が持てるかもよ?」
「そうですね」
「じゃあ長生きしたい?」
「したくないです」
「え、なんで?」
「今後あるかもしれないよ?」
「そうですね」
「じゃあ明日宝くじの一等が当たるとしても希望持てないってこと?」
「今の時点でその希望は持てないですし、期待も出来ないですから」
「そりゃそうだよね」
「そりゃそうです」
「でもやっぱり生きていれば良い事あるかもしれないよ?」
「あるでしょうね」
「それでも早く死にたい?」
「早く終われれば最適です」
「でももし良いことあったときに後悔するよ?」
「何故ですか?」
「例えば、今日死んだとしてお葬式ですっごい美人の子が、実は~くんの事好きだったのにー!ってなるかもじゃないじゃない?」
「その時はもう死んでるんですよね?」
「うん。後悔するでしょ?」
「…えっと、じゃあさ、死ぬ直前に告白されたら?すっごい美人」
「死ぬ直前ですよね?」
「うん。後悔するでしょ?」
「死ぬ直前にそんな余裕ありますか?どんな場面かわかりませんけど」
「それ助けてくれないんですか」
「たとえたとえ!」
「例えば、ビルから落ちそうなときに告白されたら、それは不可抗力です。ですから、そこで後悔したりする事と、明日を生きるのに希望を持つ事は全く繋がりません。希望を持っていたところで同じ結果になります。」
「…うーん、なんて言えばいいのかな、じゃあさ、すっごい欲しい物があるとする。何が欲しい?」
「特には何も」
「何も…じゃなくて、例えばなに?趣味とかは?」
「無いです」
「無いの?何か好きなこととかは?」
「そんな、すぐには思いつきません」
「ええ、そう?もういいやじゃあ、すっごい欲しいバッグがあるとする。たとえね?たとえ」
「はい」
「すっごい欲しいバッグがあるとする。すっごいカッコいいデザインで今すぐ欲しい。でも発売は来年なの。それでも今すぐ死にたい?」
「ええと、」
「ほら、長生きしたいでしょ?」
「いいですか、」
「何?」
「とても欲しい物があるとする、それが今は手に入らない」
「そうそう」
「欲しいから、それまで待たないといけない。待ってでも欲しい」
「そう、そういうこと。」
「うん、希望があれば生きているのも楽しいし長生きしたいでしょ?」
「え、バッグだよ?」
「じゃあ何が欲しいの?」
「…じゃあ、物欲がないって事?」
「あります」
「今はないです」
「そう、ですね。そんなには」
「それは程度によります」
「すっごい欲しければ?」
「恐怖を覆すほど欲しいものには、今まで出会ったことがありません」
「出会うかもよ?」
「そうですね」
「じゃあ長生きしたい?」
「期待はできません」
「そうなるか…」
「そうなります」
「さっき、親が悲しむから死ぬのが怖いって言ったよね?」
「はい」
「でも、死んでから君のこと好きだった人がいても後悔できないって言ったよね?」
「はい」
「それって矛盾してない?自分が死んで親が悲しむのは死んだ後だよね?でも君は死んだあと後悔できないって言ったよね?」
「はい」
「やっぱ死んでから後悔するんじゃん?」
「死んでからは後悔できません」
「じゃあ親が悲しむのは?それは死んでからだよね?」
「おかしくない?」
「説明していいですか?」
「うん」
「まず、親が悲しむというのは分かりきっている事です。」
「言われましたから」
「でも死んでみないとわかんないじゃん」
「もしかしたら、悲しむって言ってるだけかもよ?」
「どういうこと?」
「死んでみないと分からない、死んでからの事は考慮してません」
「どういうこと?」
「私が死んでもし親が悲しんだとしても後悔は出来ないという事です。同様に、たとえもし私が死んで親が悲しまなかったとしても安心する事もできないのです。」
「え?わからない」
「私は、私が死んだら親が悲しむから死ぬのは怖いと言いましたよね」
「うん、言った。」
「それは、生きている間の話です。」
「でも親が悲しむのは死んでからでしょ?」
「そうです。」
「じゃあ死んでからじゃん」
「私が怖いのは、厳密に言えば親が悲しむ事そのものではありません」
「どういうこと?親が悲しむ事が怖いのに、そのものではない?」
「はい」
「じゃあ何が怖いの?」
「なにそれ、どう違うの?」
「私は親に、私が死ねば悲しいとあらかじめ言われております。たとえ言われてなかったとしても多少は予測できます」
「そりゃそうだよね」
「だからって、やっぱ死んだ後悲しむのが怖いんじゃん?それは死んだ後の後悔じゃん?」
「違います。いいですか、私が怖いのは予測です。私が死ぬと親が悲しむであろう、病むかもしれない、という予測が堪え難いのです。死への恐怖となっているのです。ですから言ってしまえば、実際に私が死んだ後に親が悲しもうが病もうが知った事ではありません。私はその時死んでいるのですから後悔も何も出来ません。」
「…じゃあさ、もし君が死んで、親が悲しむかどうかわからなかったら怖くないってこと?」
「そうです」
「じゃあ親が悲しまないって言ってたら怖くない?」
「それは嘘かもしれません。私の親に関して言えば、それは無いことが予測できます。とにかく、親の話については生きているうちの恐怖です。死んでからの後悔とは全く違います。」
「よくわかんないけど、君の事が好きだった人がいたとして、死んでから後悔できないって言ったよね。それとはどう違うの?」
「まず、死ぬ前に私は、その人が私を好きだった事が予測できません。」
「死んでから言ったもんね」
「じゃあ死ぬ前に言ったら後悔してたの?」
「死ぬ前に言ったとしても、死んでからは後悔できません。」
「じゃあ例えば、そのすっごい美人の子が死ぬ前に告白してきたら長生きしたいと思う?」
「思うかもしれません」
「じゃあ、長生きしたい?」
「私は今死ぬ前ではありませんし、告白もされてません。その希望も期待もありません」
「…ごめん、私こうやって話していて、ちょっと好きになったかも」
「すっごい美人?」
「うるさい!!」
(長すぎて続きが表示されなくなっていたので分けました。)
続き
最近マークアップエンジニア志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去のHTML(特に90年代以前の仕様)を読んだことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「マーク・アンドリーセンをどう思う?」と聞くと、「アンドリーセンって誰ですか?」という答えが返ってくる。「ヨスケの独自要素で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔のHTMLを見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「とほほでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、HTMLを体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題仕様ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといて標準化団体ごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。HTMLは、もう長いこと(90年代の早い時期から)インターネットの王者としてあらゆるWeb関連技術の上に君臨してきた。だから、Webを作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
HTMLは、表・画像・フォーム・音楽・デザイン・フレーム・動画など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、HTMLを読まずして現代のインターネットは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、HTMLを読むことは欠かせない。また、単に読むだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、HTMLを包括的・体系的にとらえることによって、現代のインターネットそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、Webを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔のHTMLをほとんど見たことがないという人や、あるいはHTMLそのものもあまり見ないという人のために、これを見ればHTMLを体系的に理解でき、現代インターネットの成り立ちや実相までをも包括的にとらえることができるようになる、7本の仕様を紹介する。
ここで紹介するHTMLは、いずれも後のWeb業界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、HTMLという標準のありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、HTMLというのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、体系的に理解できるようになる。そしてそれが、世界のインターネット利用シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、第一次ブラウザ戦争前のHTMLをひとまとめにするところから始める。
80年代末にティム・バナーズ=リーの発明したHTMLというメディアは、その後『HTML 1.0』(1993年)『HTML+』(1994年)『HTML 2.0』(1995年)などの仕様で次第にそのスタイルを確立していき、マーク・アンドリーセンが一大産業として発展させた後、『HTML 3.0』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
ブラウザ戦争前のHTMLは、これ1本だけ読めば良い。このHTMLに、戦前のHTMLの全ての要素(属性)が詰まっている。このHTMLを見れば、HTMLのインターネットの王者としての風格、スターという存在の大きさ、作者以上にブラウザが重視される「産業」としての側面、お尻Pから終了タグ省略可へ・文字情報から画像付きへと移り変わった技術革新の変遷など、戦前のHTML史やWeb業界のありようが全て分かるのだ。
このHTMLの魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『HTML 3.0』の魅力を知るには、まずは読んでもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも読めば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『HTML 3.0』を見て驚かされるのは、現在のHTMLと比べても全く遜色ないところである。破棄されてから14年の時が経過しているが、現代人の読解にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえばHTMLというものは、今から14年前、つまりこの『HTML 3.0』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『HTML 3.0』は、HTMLという標準が到達しようとした一つの極みである。それゆえ、HTML史というものは、『HTML 3.0』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られたHTMLで、『HTML 3.0』の影響を免れたものはないからである。
iモードが世界のHTML史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに小さなものである。日本人というのは、「日本の技術が世界に影響を与えた」というと、なぜか鼻高々と聞いてしまうところがある。「日本はガラパゴス」という言葉は聞いたことがあっても、「それって日本人が過小評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかしiモードは、真に日本のHTML史を塗り替えたサービスの一つである。特に、このサービスの後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
iモードは、ドコモのメインストリームだったポケットベルが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたPHS流行後すぐの時期、そんなポケットベルに取って代わって、日本で最も輝いていた携帯サービスであった。それゆえ、広末に見蕩れた世界のHTMLファンたちは、iモードのWebサイトを見ることによって、失われかけていたWeb制作の魅力を再発見することにもなったのである。
iモードは、没落したHDMLに変わってモバイルWebの命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。海外のモバイル陣営が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を切り捨て、日本の後代へと引き継いだ重要なリレー第一走者としての役割を、HTML史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取った日本の若きWebデザイナーたちが、2000年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、モバイルWebは鮮やかな発展を遂げる。だから、もしiモードが存在しなければ、HTMLの様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんなiモードHTMLのバージョンはいくつもあるのだが、中でも特に多くのHTMLファンを――取り分け日本の若きWebデザイナーたちを魅了したのが、この『Compact HTML』である。この仕様の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたW3C Noteであろう。HTML史において、これほど拡張多く適当なディテールで構成されたNoteは他にない。そのためこのNoteは、これ以降無数に手本とされ、真似され、拡張されることとなるのである。
正字正仮名の影響を受けた日本の若き日記書きたち――言うなれば「CSSコミュニティ」――が頭角を現す直前のW3Cで、HTML史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の仕様が誕生する。
この時期、情報技術の進歩によって、HTMLにもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った国際化、全く違ったアクセシビリティ体験を生み出すことに成功したのが、この仕様『HTML 4.0』を勧告したWorld Wide Web Consortiumである。
『HTML 4.0』は、HTML史において最も革新的な仕様の一つとなった。この仕様に初めて触れた当時のWebデザイナーたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのないマークアップがくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しいHTML体験を、そこで味わうことになったからである。
W3Cの果たした一番の功績は、テクノロジーとHTMLを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えばそこでは、「スタイルシート」という新しい技術のデザインと、それでレイアウトされたページが閲覧者に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しいHTML体験を生み出すことができたのである。
この仕様『HTML 4.0』には、そうしたテクノロジーとHTMLとの融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、HTMLはここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「CSSコミュニティ」がWeb日記業界に論争をもたらすのは、2000年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、1947年生まれの非政府組織で、IECとも協力した生粋の工業標準化団体であった国際標準化機構が、この仕様『ISO/IEC 15445:2000 (ISO-HTML)』によって成功を収めたことである。
このHTMLは、単にJIS的に標準化しただけではなく、文化的な意味においても、フラットでリニアな構造の力を広く世界に知らしめることとなった。この仕様の成功によって、世界の人々は、レベル付けされた見出しの魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて見出しのレベル分けが世界のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように使う状況を育んでいくのである。
またこの仕様は、CSSコミュニティそのものにも大きな影響を与えた。この仕様の成功に刺激を受けた才能ある若きコミュニティ住人たちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名サイトを生み出していくからである。
それらが相まって、やがてCSSコミュニティは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『ISO-HTML』なのだ。
『HTML 4.0』で繁栄の足がかりを築いたW3Cは、この仕様『XHTML 1.0』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたメタ言語も、W3C勧告のの一つであり、また『HTML 4.0』を作ったSGMLの改良でもあった、Extensible Markup Languageであった。
この勧告は、史上最も商業的に成功した仕様となる。そのためこれ以降、この勧告にならって商業的バズワードを盛り込んだ仕様が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きな商業的話題を集めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの意見は、やがて再びW3Cに還元され、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この仕様がきっかけとなってW3Cにもたらされた意見は、HTMLという言語を変革させていくことになるのだが、それに伴って、HTMLそのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬW3Cの手によってなされた。ここで『XHTML 1.0』の成功によって手にしたメンバーをもとに創設した文書マークアップの開発集団「HTML Working Group」が、より魅力的な拡張性を追求していく中で、やがてM12n(モジュール化)という技術の開発に至るのである。するとそれが、これまでのHTMLを一変させたのだ。
M12nは、HTMLに魅力的かつ効果的な特殊語彙を、DTDでしかも複雑怪奇にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に世界から見捨てられていった。そのため今では、M12nの使われているHTMLを探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『XHTML 1.0』がWeb業界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
2000年代以降、繁栄を謳歌したW3Cは、しかしその栄華の大きさゆえ、00年代中盤に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な仕様はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が5年は続いた00年代の後半になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代のHTML WGメンバーたちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代のHTML WGメンバーとは、マイクロソフトやモジラ・ファンデーション、オペラらに代表される「ブラウザベンダ」と、無関係な編集者たちであった。
彼らに共通するのは、文書構造に不必要なものなら全て――とるに足らないガジェット的なものまで含めて――残らず切り離そうとする「オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだったHTMLの些末な要素にスポットを当て、それを別仕様に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った草案を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として00年代の後半に登場したのが、XHTML2 Working Groupだ。
XHTML2 WGは、特に99年に最後の草案が作られたこの仕様『XHTML 2.0』によって、オタク的なHTMLの楽しみ方が、一部のマニアだけにとどまり、それ以外の多くの人たちには受け入れられないことを証明してみせた。この失敗が、デ・ファクト的な新生HTML WGにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けたWeb WorkersやDOM Level 3 Eventsといった、次世代のWeb標準たちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、第二次ブラウザ戦争の集大成ともいえるこの仕様である。
『HTML5』は、HTML史においては『HTML 3.0』と同じような意味を持つ。つまり、それまでのHTMLの要素が全て詰まっているのだ。この仕様を見れば、それ以前のHTMLの歴史というものが全部分かる。
『HTML5』には、HTMLのあらゆる要素が詰まっている。ここには、『HTML 3.0』のような歴史的な仕様としての「総合性」があり、『Compact HTML』のような「実装の実在さ」がある。『HTML 4.0』のような「マルチメディアとアクセシビリティの融合」があり、『ISO-HTML』のように「セクション構造の魅力を全世界に知らしめ」た。また、『XHTML 1.0』のように「バズワード的に成功」したのはもちろん、『XHTML 2.0』が別仕様に押し出した「オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこのHTMLは、『HTML 3.0』と全く同じ意味合いを持っているのだ。HTML史というものは、『HTML5』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られるHTMLで、『HTML5』の影響を免れるものはないであろうからである。
以上、これさえ読めばHTMLを包括的・体系的にとらえることができる7本の仕様を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、歴史的に重要な仕様は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「素数の分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた仕様は、いずれも「読むことによって他の仕様にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『HTML 3.0』を読んだならば、ブラウザ戦争前夜の独自HTML拡張に自然と興味がいくだろうし、『Compact HTML』を読んだなら、iモードのそれ以外のバージョンのHTMLも見たくなるだろう。CSSコミュニティについてもそれは言えるし、『ISO-HTML』を読んだなら、このHTMLを流行らす土壌ともなった「フラットでリニアな構造」というムーブメントにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『XHTML 1.0』はXMLオタクになるきっかけになるだろうし、『XHTML 2.0』はその他の「オタク的なXML EventsやXForms」の仕様も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『HTML5』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこのHTMLは、完成度があまりにも高いために、これを見た後に他のHTMLを読むと、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの仕様を読むことによって、HTMLをさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの仕様を読むことによって、HTMLを包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな助けとなるはずだ。
上に挙げた仕様への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「HTMLを体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
高校時代に読んだこのサイトによって、「リソースとは何か」ということを、ぼくはを知った。
「HTMLはSGMLの応用だ」ということが、このサイトを読むことでよく分かる。何気なく見ていた省略記法でも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
世界がCSSコミュニティの何に驚かされたかといえば、それはやっぱり精緻に書き込まれた正字正仮名にだ。ノジタンの日記には、HTMLの本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くの日記で多くのコミュニティ住人に、言及されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、とほほ氏がHTMLというジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた感想のいくつかは、このサイトに書かれていたばけらさんとの「スタイルシート論争」を参考にしたものなのだ。
これらのサイトを読めば、どんなHTMLが素晴らしく、どんなHTMLがそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あのCSSコミュニティ住人の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
主観で決め付ける
人格批判はしてないよ。
その人の立場になってみないと分からないのに、想像でその人を批判するのは上から目線と考えている。
先はそんなに長くないって健常者でも事故で死ぬことあるの知ってるの?
事実に対して仮定を持ち出す
勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
交通事故でなくなろうが、病気でなくなろうが、遺族年金が支給されるかどうかの観点でいえば
ほとんど変わらないのは事実
http://www.utms.or.jp/japanese/condi/jiko.html
によれば、
20年間で死んだ交通事故者の数は、軽く見積もっても約10万人、多ければ約20万人
20年間の間に交通事故以外の事故や病気で無くなる可能性も考慮すれば、極論化しているとは思わない。
障害を持っていても普通に生きられるようにするっていうのがまともな先進国ではないのですか。
主観で決め付ける
資料を示さず持論が支持されていると思わせる
自分に有利な将来像を予想する
資料が欲しかったら
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/18879202.pdf
でも見てください。
いかに他の先進国と比べて、障害者支出が低いか書かれているから。
欧米3カ国に居住したけど、こんなめちゃくちゃなこと言う人初めて会ったよ
資料を示さず持論が支持されていると思わせる
これは、自分の経験を述べただけで、持論を支持されているとも思わせてもないし。
税金をたくさん納めないと発言権はないとは思っていない。
だってこれは
http://anond.hatelabo.jp/20091126095304の
を受けて答えただけで、「発言権がない」なんてことそもそも書いてないし。
こんな増田に一生懸命付き合って、わかりやすく噛み砕いて綴っている増田もいるが、無理だよ、こいつには理解できんよ。だって理解する気が無い。揚げ足とって詭弁で論破して勝利宣言することが目的なんだから。
そんなことより天気もいいし、みんなで校庭でサッカーしようぜ!!
勝利宣言しているのはあんたでしょ。
・主観で決め付ける
・事実に対して仮定を持ち出す
・勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
~以前の発言より~
・主観で決め付ける
・資料を示さず持論が支持されていると思わせる
・自分に有利な将来像を予想する
欧米3カ国に居住したけど、こんなめちゃくちゃなこと言う人初めて会ったよ
・資料を示さず持論が支持されていると思わせる
税金をたくさん納めないと発言権はないとは思っていない。
・自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。
ごめん面倒だからこれ以上は発言を遡らないが。増田の発言を詭弁のガイドラインに当て嵌めると、いかにうすっぺらいかがよくわかるww語尾に疑問系が多用され、嘲笑を滲ませた文章は、ヒステリックな性格が窺えるねぇwwwねぇ何でそんなに必死なの?何でそんなに沸点低いの???wwwwwwwwww
こんな増田に一生懸命付き合って、わかりやすく噛み砕いて綴っている増田もいるが、無理だよ、こいつには理解できんよ。だって理解する気が無い。揚げ足とって詭弁で論破して勝利宣言することが目的なんだから。
そんなことより天気もいいし、みんなで校庭でサッカーしようぜ!!
自分だったらどうかなぁと想像しつつ書いているんですけれども、
それが上から目線だってことなの?
自分なら、他の人に世話されないと生きられないのは変えられないので
仕方がないとあきらめつつ、
でも普通の人みたいに生きられたらいいなーとは思うので、
出来る範囲で自己実現をしたいと思う、と考えた。
具体的に何を自己実現するの?
先はそんなに長くはない(20年とかではない)から、
自分がいなくなったあとのことだって考える。
だから、具体的に何を努力するの?
先はそんなに長くないって健常者でも事故で死ぬことあるの知ってるの?
小さいうちに残されることがほぼ確定の子供たちはどうするの?
だから、それはあなたが心配することじゃないでしょ。
元増田の記事によれば、公的扶助のかかるお荷物だっけ?を産むなといったあなたが
なんでそのお荷物の心配をしているの?
それが上から目線じゃないの?
「知能に障害を持っている子だけどみんなと同じ高校に通わせたいから特別簡単な入試にしろ」
痛いニュース(ノ∀`):理想のお姫さまを待ち続ける「童貞(シンデレラ男)」が増加傾向http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1338787.html
なんてエントリを見るにつけても腹立たしい。
いい加減あんたがたは認めるべきなんだ。
我々は既に「男子」なんかではない。
我々、
というのは「30前後~以下世代」とか「非イケメン」とか「オタク気味」とか
ネットやはてなにゴロゴロいる男を大雑把に想定してもらえばよいが、
我々はこの歳になるまでさまざまな形で去勢されてきた。
あんたがたも必ずどれかには参加してる筈だから知らねえとか他人事だとは言わせねえ。
・子供の頃には個性尊重だかなんだかの教育で"競争を蔑むこと"を教師から教えられ
・小学校高学年に上がればバブルが弾けて"学歴競争も年収競争も空しいぞ"と世の風潮に諭された。
・思春期には「イケメン以外は恋愛市場に上がるべからず」として
"万事色気を出さぬこと"を必須ライフハックとして女子から叩き込まれた。
・物理的な生活環境は変な廃棄物から擬似的な"女性ホルモン"を吸い込ませてくるし、
・メディアのお得意コンテンツ「家長として頑張るオジサンいじめ」は"父親になることの絶望"を刷り込んできたし
・フェミニズム流行りは「優しいことがなにより大事」「古い家父長オヤジになりたくなければ…ねえ?」てんで
"オスっぽい強引さなんぞは捨てるように"というお達しを回してきた。
締めに大学に上がったら時代も時代、仕事にも社会にも未来がねえことは薄々わかるし
結構な割合が正社員の席にすらありつけなくなっちまったまま今に至る。
どうだ。
金玉がぶら下がってれば男なわけではなく、環境が男を作るのだとすれば
我々が生来持っていたかもしれない”男らしさ”は成人するまでに全く育てられることが無かった。
自覚させられることなく、教えられることもなく、保護されることがなく、
訓練されることもなく、試す機会もなく、称揚されることもなかった。
タマのある男が生まれるチャンスがどこにある?
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
とは言っても、亡くした金玉の恨み言の為に書いてるんじゃあないんだ。
すでに金玉がないのが我々なので、この状態は快適最適だ。
そっちの都合で突然「ところであの金玉はどうした」「おなた達も男なんだから」と言い出す奴等なんだ。
タマの無いお前等が車や見得に消費をしないせいで経済が回らなくて困る!だの
タマの無いお前等が女やデートへの関心低いせいでうま味が減って困る!だの
つまり自分達のカネが減ったのが我々タマ無しのせいだと文句を言ってくる。
「知るか」と。
自分達の都合でせん馬だらけにしといて牡馬が必要になったら「オスがいないじゃないか!」と怒り出す。
我々に取ってみればこういうのが一番不愉快でやってられないんだ。
消費が少なくて環境には優しいし、社会からうるさい強権的な男が減ったのは女性に優しい。
喧嘩や粗暴犯罪や軋轢は減って、景気悪くてもインドアな低コスト趣味で大人しくやってけてる。
希望が減っても暴力デモや暴動を始めて社会を不安定にしたりもしない。
だがこういうことに対する感謝や評価は全く無い。
困った時だけ「おいタマを出せ」「あんた達だって男でしょ」と。
個人からメディアまで変なレッテル貼ったり挑発したり見下したりして
「更生」だか「発奮」だかさせようと頑張ってる奴等が居てうっとおしい。
馬鹿にされたらまんまと発奮したり勃起したりするような反応は男の特性だ。
頑張ってる奴等の魂胆を想像して薄笑いするだけだからいくらやってもムダだ。
去勢済みの我々は既にタマ無しとしてのデメリットを甘受してきたが
それと引き換えにタマ無しの快適さやメリットも発見し楽しんで長い。
「男の義務を果たせ」と言われたらカーッと怒って反発するが
「やーいタマ無し」と言われたら「オス、タマ無しです!」と元気に返事できる。
男気のカケラもなく女々しさ溢れる長文を書き終えてなんらの恥ずかしさも痛痒も無い。
ぬこ「にゃーにゃ(かしかし/なにがあったの? わかりにくいよー)」
こんなぬこがほしいだけなら一匹だけに餌与えていればいいよ。
いつも決まったときだったらぬこだってやってくるようになるよ。
子ぬこのときからなついていると嫌でも寄ってくるようになるし、
単に人なつっこいだけであるなら誰のそばにも寄ってくるし、
餌とかそういう一つのポジションしかないようなら体のいいように扱う。
単にぬこが誰かの事を気に入ってるなら、軽く呼んだだけで来るよ。
そう知ったんだ、さっき。 嘘じゃないよ。
いや、コンビニの募金箱とかアフリカの子供たちの話じゃないんだ。
もちろんそっちも50円足らずで何か力になれるのかもしれないけれど、それとは別の話。
さっき彼女から突然メール切られてちょっと不安にそれて、
最近暗いことばっか考えてたからすげー不安が襲ってきて、そしたら二年ぐらい前に薬飲んでたみたくなっちゃってそれd
あ!いやいや、パニック発作起こしたとかじゃないから安心してよ。ごめんね心配掛けて。本当ごめん。
でさあ、最近向こうからの連絡とか薄まってたから、ラブラブ絶頂期に比べたらやっぱ人間の心って冷める物なんだろうけど、
こう、二人で固めてきた大切なものがさらさらとこぼれて落ちてくみたいでなんかへこんできちゃってね……。
だからこんなもの書いちゃったんだ。 意識集中して、つらさから自力でそらすために。
http://anond.hatelabo.jp/20091108231732
……うん。
さっきはこんなもの見せびらかして、あからさまにわかりきった反応求めて、ごめんなさい。
めんどかったよね。やっぱ『大丈夫だよ!』とか言って欲しい顔ってうざいよね。本当気を付ける。反省する。心に刻みます。体じゃなくて。だからそういうのはやめたから。ごめん。
でもだけどさ、さっき……ついさっき、彼女から電話かかってきたんだ!
なんかすげーねむそうな声で『ごめん。ねちゃってた』って。ちょっとずっこけそうになったw
うん。わかってる。
こういうのって、僕が彼女を信じてないことがいけないんだよ。決まってる。
「人を信じるのなんてムダじゃん」ってそこの増田君がさっき言ってたけど、
(http://anond.hatelabo.jp/20091109015933)
やっぱ人は信じなきゃダメだって思ってるし。ていうか、そうとしか思えないんだ。増田君ごめん。できてないやつが『人を信じた方がいいよ』とか、いやみだよね。すみません。
でもさ、『あなたを信じません』って『あなたの未来をわたしのそれに含めません』つまり『あなたとかかわりたくありません』って全部イコールになっちゃう気がするんだ。
結局描くべき未来って死ぬことでしかないかもしれなくたって、さすがに自分の未来から全員追い出しちゃうことなんてできないよ。これは僕が弱いからかな。ごめんなさい。
……あ、話それてたw いやだからそんな暗い顔しなくていいって。そういうのは俺の担当にしときゃいいから。つけっぱなしで消すのめんどいラジオぐらいに聞き流しててよ。その方が僕だってしゃべりやすいし。って、気使わせちゃったかな。。
でさあ、その50円の話に戻すんだけど。アフリカじゃなくて。
その彼女、2分ぐらいで電話切ってありがとうおやすみってなったんだけどさ、
よくよく考えたら2分って通話料金的に40円とか50円ぐらいじゃん?
あ、あの子ドコモだから違うか……。 まあいいよそんなこと!
でね? あんなの書いてた時、僕は確実にぼろぼろに崩れかかってたんだけどさ、
あの子の電話ひとつで回復できたんだ。なんかこう、大丈夫になれたんだ。
あの子が40円とか50円……眠い中、苦労して掛けてきてくれたおかげだよ。
あ、眠い中苦労してってのは50円よりずっと尊いことだった。ごめんいまさら訂正していい?w まあ話自体はあんま変わんないけどね。
思うんだけどさ、こういう『人が人を救うかどうか』ってそんなドラマチックな話じゃなくて案外50円ぐらいのものなのかもしれないよね。
たぶん僕とかきみとかが「え?そんなことでいいの」ってちょっととまどうぐらいのこと。
きみがそれこそ、神社のお賽銭程度に誰かに電話かけたり席譲ったりしたのが、実は相手を根本的に救ってたりするかもしれないんだよ。
しかも、もしかしたらそこで50円払える人がたまたまきみだけしかいなかったかもしれないし、そしたらきみのその瞬間だけの存在理由みたいなのって「その人を救うこと」っていうかっこいいのになるかもじゃん。
なんつうか、それ考えたら、そういうちょっとの手間をやっぱこう払ってくれたらうれしいな……って思っちゃうんだ。
いやいや! 僕に、ってわけじゃないよ?w
僕はあの子しかり返事してくれる増田しかり、ブコメくれてる人なんかにすごくすごく救われたりしてるから、むしろ自分から何かしなきゃいけないなって思ってる方だよ。
たとえばこう……想像してみなよ、誰かが誰かを何の気なしに助けちゃってる世界。助けちゃえてる社会。
ペイフォワードみたいなルールじゃなくて、助けてることにも気づかないで救われる人がいるって状態。
これって、僕が築き上げる砂のお城なんかよりずっと夢の世界だと思うんだ。
ねえ、お願いだからさ、ちょっとでいいから。
めんどくさがらずに50円はらってみない? 二駅ぐらい立ってみない?
「あーあいつのメール返事かいてねーなあ」って、ちょっと返事だしてみない...?
もしかしたら、、、いや確率ひくいけど、それってすごく望まれてる求められてる行為なのかもしんないじゃん。
まあそりゃ理想論だし、きみがそうしたとこで社会がよくなるわけはないけど。
人を信じにくいってのも変わらないし。誰かが誰かを裏切る可能性も、ゼロにはなりえないし。
でもたとえばこう「人をむちゃくちゃにしたい」って殺意なんかがちょっとそれたり、
「俺必要とされてるの?」って不安になってたのがちょっとそれたり、
そのぐらいの気休めが、結果的にはすごい偉業になってたりするだろうし、
彼だって信じることが尊くなくなってるみたいなことが若干、確信揺らいだりするかもだし、
そしたらやっぱたまには人を信じてみていいかなーとか思えるかもしれないし、
実際『気持ちがちょっとそれた』程度で人や自分を殺さずに済んだ人はたくさんいるんだから!!
ごめん、舞いあがってワケわかんない話きかせちゃって。。
でもなんかこう、ちょっとうれしかった、って話がしたかったんだ。
特に、さっき反応くれたみんなには。ごめんね、さっきは心配かけちゃって。
って、こうやっていつもへこんだことばっか増田には書いちゃってるわけだし。
だから少しでも……そう、例えばこの50円程度にでも、
元気付けられたらいいなあって。恩返しができたらいいなあって。
都合よすぎたかな?
うん。他の増田君が、僕の身を案じて『お前もう寝ろよ!』って言ってくれてるし、そろそろ寝るよ。
彼とか、他の人とか、僕の書いたものに反応くれててうれしかった。
やっぱ書くのが好きだし、書いてたいってわかった。ありがとね、みんな。
きみもそろそろ寝た方がいいかもだよ? もう3時だし。
ってかこんな時間までつきあわせて……いや、つきあってくれてありがと。
あしたあさおきて、そしたら思い当たる誰かに50円ぐらいの手を貸してみたらどうかな??
手を貸す宛が思いつかなかったら、、、そうだなあ。コンビニの募金箱に入れてみたら?
アフリカの子たちが喜ぶかもね。って、最初言ってた通りだったかw
おやすみ。きょうはありがと。
またあえたらいいな。
どかーん!
はねられた自転車が宙を舞う。
同時にあいつは動いていた。らしい。同時?
-----
「このたびは、まことにご愁傷さまでございます。
思いもかけぬことで、ほんとうに残念で、さぞかしご落胆のことと・・・」
セミに負けないぐらい真琴はわんわん泣いていた。
見てられなかった。
「少し落ち着いた・・・」
泣き疲れた真琴がそうこぼした。
目はいつもの二重がかわいそうなことになってた。
まだ奇跡的に外傷が少ない故人のほうが見れたもんだった。
「もういこ」
暑さに我慢できなかったんだろうか、華子が不機嫌になってきている。
「おまえはいつもその調子なのな」
「私も気にしてるよ、だから戻すんじゃん」
他のやつに真琴は任せておいた。
事故が起こった急な坂をゆっくり登っていくと、いつも通りの青空と
夏のにおいがした。
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http://anond.hatelabo.jp/20091025152036
このエントリにでてくる人が、うつ病だったとは限らないけど、たぶんそういう病気だったんじゃないかと思って、書く。
命に関わる病気が悪化して死に向かうのを止められないように、自殺を止めることはできない。止めようとするのならば、原因となるうつ病を治療するしかない。
治療することよりも自殺防止を重視することは、患者に我慢を強いることだ。「他の者のために、自分自身を犠牲にしろ!」と言われているのと、同じだ。
生きてさえいれば、ほとんどのことはなんてどうにでもなるんだから。
その、どうにでもなるのは「いつ」なんだろう。いつまで苦しみ続けて生きていけばいいのだろう、楽になるのだろう。それはきっと「いつか」であって、本人には無間地獄のように思えるものなのでは。「それでもきっといつかそんな日が来るはず」といいたいだけなことは、よく分かっているのだけれど。
ただ、他人の痛みよりも自分の痛みを優先した。できればどちらも避けたいことだけれど、どうにもならなくて、自分を守った。誰だって、自分が一番大事だ。
そういうことだと思う。
ブコメにもあったけれど、患者に無理を強いるのではなく、患者を精神的にも経済的にも救うことで、自殺者を減らすことはできないんだろうか。そうすれば、家族を自殺で失う「遺された家族」も減る。
根本的な部分をどうにかしないと、どうにもならない段階になっている気がする。
ごくたまに、「生きたくても生きられない人もいるのに、自ら命を絶つなんて言語道断だ」と言う人もいるが、阿呆かと思う。もちろん、「生きたくても生きられない人」本人に言われるのならば、申し訳ないと心から思う。しかし、端からそうやって責め立てる人はなんなの?
じーさんがたの会合に顔をださなきゃいけなくて行ってきたんだけど、若いのが一人混じって酒でも入ろうものなら戦時中の話になる。
おれも90も後半のじーさんから聞いているので、知ってはいるのだけどあちこちの話しを聞くと新しく知ることも多い。
とりあえず書いてみる。@東京とかのお話。地方で参戦されたかたも居た。
・勝てっこないのは当時の市民にもわかっていた、戦争やろうと思ったのはバカだ
・対空砲を警戒して米軍はチャフ(のことだと思う)を蒔いていたが、そもそも対空砲なんてなかった
・冗談じゃなく竹やりをもたされた
・焼夷弾を消す訓練をさせられていたが、降って来たのは数万発だった
・みんな死んだ
・戦後は毎月500円分だけ切手が配られてその切手を貼ったお金だけが有効だった
・銀行は封鎖された
・みんな貧乏になった
・それでも私腹を肥やしたヤツはいた
・土地の所有を証明する書類は役場ごと焼けた
・銀座とかは無法者が土地を占拠した。土地が欲しいか命が欲しいか。
・自決した(しようとした)陸軍の指導者とかは侍だ、立派だなんて言うがとんでもない
・玉音放送がなければ本当に竹やりで戦うはめになった
・玉音放送を聞いたときの感想は、悔しさでも嬉しさでもなく「死なずに済んだ」だ
・軍隊にいたときは、敵船上陸が迫った前日には腹に爆弾まいて死ぬ準備をしていた。
・特攻志願時は縦一列にぴっちり並ばされて、志願するやつは前に進めといわれるが、うしろからどんどん押されるのですすまざるをえない。結局みんな志願したことになる。
・そもそも無理やりにつれて行かれるのだから、個人の意思とか関係ない。
・われわれもあと20年もしたらみんな死ぬ
・戦争を体験をした人がいなくなると、また同じことが繰り返されるかもしれない。
・戦争はやだね
なんか、現代の動きが当時の陸軍をみているようで心配なんだそうだ。
トップダウンでものごとを決めようとしたり、アメリカとは対等だとか言い出すところが気になってるみたい。
あ、あと、それとは話がずれるんだけど、昔しは町会が変わるほんの2~3キロで言葉が通じなかったんだって。
単語が違ってなに言っているかわからなかったそうだよ。
方言すぎるだろ。
ちょっとあまりにも強烈なアホを発見。
そんなもん、死ぬことが痛い・苦しい・なんか怖いからに決まってんだろ。
生きるも死ぬもどっちもつらいってステイトにはなんの矛盾も無いだろう?
「生きることに理由なんてない」ということであっていただろうか。
構わない。理由より先に生がある。
理由なんか無くても人は生まれて、死ぬまで生きるよ。当たり前だろ?
生きることに理由は要らない。と貴方は言った。
生死は等価では無いので、「ならば」には繋がらない。
貴方が最初に言ったところの死の理由は、死因とは別のものだったはずだ。
(中略)
それを言うならば、『生因』も同じように生まれてしまうではないか。
例えば、心臓が動いているからだ、というように。
今、俺の心臓が止まっているのは何故か?と尋ねれば、
さっき止められたからだ、と原因を言えるし、
なぜ止められなければならなかったのか?という理由にも辿りつく。
なぜ止められなければならなかったのか?形而上でも形而下でも理由に辿りつく。
だが、死ぬのに理由が必要なのは死体をこさえる為じゃない。これは前回書いた。
逆に、今、心臓が動いているのは、さっき動いていたからだろうか?
いや、そこには因果関係は無いだろう?
因果関係があるとするなら「さっきまで生きていたから、今も生きている」と言うことになってしまう。
これに理由はあるのか?これは貴方の生きる理由になるのか?
それなら、「生まれた」というだけで生きる理由になるんじゃないか?
つまり、死因は死ぬ理由に紐づいているが、
生因は生きる理由と結びつかない。生因は生きる為の仕組みどまりだ。
元増田です。
とりあえず最初に言いたかったことをもう一度まとめると。
何故生きているのか、という問いに対しては、生きていたいからだ、と答えることができる。(生きていたくないなら、もう既に貴方は死んでいる筈だからだ)
また、生きる、という言葉は経験する、という言葉と同義である。
つまり、何故生きているかと言えば、あらゆる物事を経験したいからだ、と言うことができる。
だから、もし貴方が「死にたい」と思ったとしても、
それは貴方が「死にたい」と思いたかったからなのだ。(貴方はそのように経験したかったのである)
あらゆる経験、苦痛すらも、生きている内には貴方が望んだことになるのである。
とまあこのように「全ては貴方が望んだことなのだ」と言いたかったのだが、ちゃんと伝わっていただろうか。
とりあえず私の言いたいことはこれだけだ。
ところで、貴方の言いたいことの根本は、「生きることに理由なんてない」ということであっていただろうか。
とりあえずそれが貴方の言いたいことである、ということを前提にして話を進めさせてもらう。
生きることに理由は要らない。と貴方は言った。
ならば同じように、死ぬことにも理由は要らない。そういう理屈だ。
だから、貴方の発言は矛盾していると私は言ったのだが、どうも納得して頂けなかったようだ。
ところで、貴方は死の理由について以下のような発言をしている。
死因が解明できない場合はあるが、死因が無いということは有り得ない。
貴方が最初に言ったところの死の理由は、死因とは別のものだったはずだ。
それなのに、先の発言では物理的な死因を死の理由として挙げている。
それを言うならば、『生因』も同じように生まれてしまうではないか。
例えば、心臓が動いているからだ、というように。
ここにおいて、生きている理由が生まれてしまうではないか。たとえ、それが心臓が停まったから死んだ、というのと同レベルの理由だとしてもだ。
私たちは普遍的な意味合いにおいて、生と死の理由が生じるか否かを話し合っていたのではないのか?
まずは貴方にその地平に立って頂かない限り、議論は始まらないのだけれど。
くっつくより別れるほうが難しいような感じで死ぬことを選ぶ(行動含)も意外とパワーというか気力がいると思う。本当にヤバい人より治りかけ状態の人の方が危ない・・・って聞くけど。
だけど死ぬのもめんどうだ〜ってCMであったじゃん。