チラシの裏にでも書いてろよ
ChatGPTにお願いした。
「ベット」→「ベッド」
「ベット」は誤りで、正しくは「ベッド」。
「やむおえず」→「やむを得ず」
「やむおえず」は誤りで、正しくは「やむを得ず」。
「近ずいて」→「近づいて」
「近ずいて」は誤りで、正しくは「近づいて」。
「ふいんき」は誤りで、「ふんいき」が正しい。
「断りずらくて」→「断りづらくて」
「ずらい」ではなく「づらい」が正しい表現です。
「ニュ」は誤りで、正しくは「ミュ」。
「少しづつ」→「少しずつ」
「づつ」ではなく「ずつ」が正しい表現です。
「皆んな」→「みんな」
「皆んな」は誤りで、正しくは「みんな」。
昨日人間ドックに行ってきたんだけど、CT検査でベッドに寝かされたんだ。
そしたらさ、イヤホン付けられて、永遠にうるさい曲聞かされたんだ。
うるさくて我慢できなくて、やむを得ず外したらさ、医者が近づいてきて怒るんだよ。
だから嫌と言える雰囲気じゃなくて、断りづらくて、仕方なくまたイヤホンを付けたんだ。
まあ少しずつ慣れてなんとか終えられたけどな。
文章を書くこと自体はめんどくさくない。むしろ喜んでおこなう。
しかしおもしろい小説というものは、人間のリアルな気持ちが反映されたものだ。誰がどこでどう考えてどう行動し、だからこうなった、なるほどぉと読者が納得するものだ。
冷静に考えればわかるのだが、小説というのは大抵1人が書く。1人の作者が書くものなのに、複数人登場する。この複数人にはそれぞれバックグラウンドがあるわけだ。これは作者とは異なる。
作者と異なる背景の人間がさまざまなことを言うからにはそれぞれの歴史を考えなければならない。これがまあ非常にめんどくさいのである。一人ひとりの歴史はめんどくさい。
まず俺は、その人間がどういう学校を卒業したかなどの経歴や、どういう人間関係を持っているかを組み立てる。だから今こうなっている、というものに説得力を与えるためだ。
これがめちゃくちゃ苦痛。だってそれは俺じゃない。俺はその人物に全然興味がないわけ。誰だよ。俺はお前が死のうがどうでもいいわけ。でもむりやり考える。
むりやり考えて、そいつがどういうことに興味があるかを自分でシミュレーションする。重要なのだが、俺はその興味にも興味がない。興味がないが調べる。調べてなるほどぉと感じる。
そいつがどういうことに興味があるかだけでなく、どういうことに興味が無いかも調べる。
たとえば読書に興味がない人物は読書に興味がないときほとんど無視をする。読書に興味がない人間は読書で得られる知識を知ってはならない。もし知っているときは、別の連なりがある。そこは説得力を持たせなければならない。たとえば親から教えてもらったとか。その親は教育的だった。だがではなぜ親は教育的なのに子がそうなのか。親は死んだからだ。何歳のときに?親が死んだといっても全員がそうなるわけではないのになぜその人物はそうなのか。親が死んだときどう感じていたのか。そのとき友達はいたのか。今もその友達とは続いているのか。友達の容姿はどうなのか。家から何分ぐらいのところにコンビニがあるのか。徒歩で行くのか。歩く頻度はどのくらいか。普段食べるものは何か。好きなものは何か。どういった人物に好感を抱くか。視力はどのぐらいか。空は好きか、自然は好きか。ジャンクフードは食べるのか。
また、人間関係がどうなっていて誰にどういう感情を抱き、他人をどう捉えているかを考察する。
別の登場人物に対してだけではない。人間をどのように感じているかを考察するわけだ。脳が疲れる。
誰かが勝手に言ってきてそれを聞く分にはいいが、自分で無から産み出したくない。
俺としては、小説はある舞台があってその舞台上で俺が導く運命に沿ってキャラが動いていってほしい。勝手なことをしないでほしいし、おもしろく終わらせたい。
だが、感情を豊かにしてそういうふうに登場人物同士を対話させると話が勝手な方に進んでいく。おいおい余計なことすんなってと考える。だが登場人物には歴史があってそういう性格になっているので運命の方に進まない。
運命の方に進ませるために別の登場人物を作り上げたり殺したりする。殺すにも理由が必要なのだが。
これは「嘘」みたいなものだ。嘘をつくために別の嘘を作り上げる形。フィクションがリアルのように成立するためには別のフィクションが必要となるのだ。
我の強いキャラは自由に動き出す。神である俺が勝手に指示してもよいのだが、そうすると物語が単調になる。「そうはならんやろ」ということが増える。そうするとおもしろくない。
この設定はすごく大事なもので、絶対公開はしない。公開すると秘術がバレるからだ。その秘術は読者に考察させるに留める。
読者はいろいろ考える。実はこうなんじゃないかとかああなんじゃないかとか。当たっていることもあれば外れていることもある。大抵は外れている。
そういうもんだから、俺の書く登場人物は魅力がある。まるで生きている人間のようになる。当たり前だ。めっちゃ調べたり考察しているのだから。
だが、だが、だが、そのために死ぬほど労力をさく。いろいろ推理したりする。
なんでこんなことをしているのかわからなくなる。どうでもいいわけ。そんなことすんなよって思う。だってその登場人物は俺じゃない。俺はそういうふうに考えない。
登場人物たちは、俺がめちゃくちゃ嫌悪することも平気でしたりする。俺が興味あることに全然興味を持たなかったり、俺が興味ないことにとことん興味を持ったり。キモすぎる。
なんでそんなふうに考える?それっておかしいよねって思うことも、登場人物は意にも介さない。そんな登場人物の気持ちをずっと考えていると、登場人物を殺したくなる。
腹いせに登場人物を殺そうとするも、そうすると物語がめちゃくちゃになる。なんだこれ。いや俺はおもしろい物語を読みたいんだって。
殺すのも難しいからそれも腹ただしい。殺すために新しい登場人物を考える。だるい。めんどくさい。こんなことして何になる?
働いた方がマシだろ。そしてこんなことしても稼げないのか。ありえないな。
小説なんてやめてやる。
腹の中にいる子供や精子と卵子、中国人の遺伝子を継ぐ他国民まで含めて中国人全員に、元寇に対する謝罪と賠償を要求する。絶対に許さない。全員死をもって詫びてほしい。
すでに壊れてるのにバカみたい
同じ高校の中で、四年制大学に進学する人と就職する人が混在している漫画作品をいくつか追って読んでいるのだけど、これは実際の高校においてもよくある話なの?
明示はしていなくても、この登場人物は東大を目指しているんだなとかそういうことがあったりするとなんとなく先生進路指導大変だなとか考えちゃう。
考えちゃうんだけど、よくある話なの?
一度見てるから
ここは期待しない方がいい
てかショックカノンの砲塔
こんなにカッコよかったのな!
大好きな形だわ
あと
は賛美歌と改めておもう
それであれこれを許せてしまう
後ナレーションね。許せる
「昔は熱くなかった」で取り上げられる1994年が冷夏だった話?