なんとかなるだろ〜
覚醒素材周回は有るやん。旗足りない
何も矛盾などないが?よく考えてみようよ
①「怖い・キショい」という感情
これらは分けて扱うべき別々のことであるということ
①が正ならば②も当然!としてそこの跳躍に慎重さを欠く
怖いキショいでやっちまっていいなら朝鮮人だって虐殺していいことになる
①の表明までは批判だが
②への志向を咎められて「ただの批判」「批判を拒絶された」は責任逃れ
それはつまり極めて怪しい
ならば「キショい」の方が100倍マシ
「倫理」「ライン」などと言い換えたがる人はあまり用意議論者ではない
当該各人は「なぜ自分が言い換えたくなるのか」を観察すべき
一回都会に住んでみないと地方の良さは実感できないのかな。
基本料金の差を考えれば実店舗が地元に無くても地方から通販したほうが安く済む。
ハロハロとソフトクリームだけはミニストップまで行かないと食べれないかもしれないけど、そんなに食べたいなら休みの日にでも都会に出てくればいいと思う。
私には小雨の薄暗い昼の天気がイメージされるのですが、人によっては朝であり、また違う人によっては夜でしょう。
昨今、YouTuberの台頭で、あらゆる表現は「正解」の読み解き方がある、といった見方が広まっているようです。
(エヴァンゲリオンや、君たちはどう生きるかで、皆さんが考察していますね。)
こういった「正解」を求める姿勢は、「作者の気持ちを答えなさい」のようで、それはそれで面白いのですが、
そもそも文章や映像、音楽といったメディアは、メディアにした時点で、作者の頭の中から情報が抜け落ちているのです。
作者の頭の中
↓
↓
↓
↓
読者・視聴者の頭の中
という流れを経ます。
俳句は圧縮率がとても高いメディアなので、読者は自身で様々な情報を補いつつデコード・展開をしないといけないわけです。
だから、「古池や 蛙飛び込む 水の音」が昼なのか夜なのかは、読者が補う必要があるわけですね。
俳句に限らず、普通の文章もそれなりに圧縮されているのだから、作者の頭の中と読者・視聴者の頭の中を同じにすることは不可能なわけです。
色々言いましたが、私は、「もにょる」には、「間違った言葉選びをしたくないから、もにょる、のような汎用性の高い(圧縮率が高い)言葉にしておこう」という印象を受けます。
せっかく圧縮率の高い言葉を使ってくれているのだから、作者の感情は、読者が自由に補えばいいのではないでしょうか?
作者の頭の中を完璧に再現する必要があるのは、契約書や法律の文章、エヴァンゲリオンくらいじゃないでしょうか?
インプットはよりよいものだけにすべきだ、SNSの文章は上等じゃない、といった理由のようです。
「もにょる」が入った文章は、村上春樹に言わせれば、下等なものでしょう。
「もにょる」にイラついている人は、実は下等な文章・下等な人間にイラついているのではないでしょうか?
もしそうであれば「もにょる」が入った文章を読まず、こんなネットの場末の文章も読まず、上等な文章だけで人生を彩ってみてはいかがでしょうか?