2020-07-20

仕事って大変だよな

面白くない仕事をしている。


お金のために働くだけだと、毎日自分に言い聞かせてパソコンに向かう。

クリエイター業で働いて、顧客から依頼されたもの製造するだけの仕事

モチベーションは常に低空飛行で、2〜3年に1,2度興味ある分野の案件があったりするくらいだ。


思えば、社会は8割は面白くない仕事で回っているのかもしれない。

好きが仕事になるってかなり幸福に見えるかもしれないが好きなものの中にも嫌なコトって必ずあって、仕事にすると実際嫌いがほとんどで。

大人は大変なんだな、と嘆きながら生きている。


私の親は日本での学がなく、満足な読み書きもできず、1人は少ししか日本語を話せない。

したがって、就ける職が絞られる。実際父親派遣の工員をしていて、母はレーンでの作業員をしている。給料はびっくりするほど低い。

具体的にお互い手取り20万に届かないくらいだ。

残業による手当が命綱だ。


残業は、命を削って得るもので、母は毎日4時間ほど残業をしてやっと23,4万得られるらしい。体は、ボロボロだ。

(これは年老いてきた近年で、景気がマシだった頃は30万前後だったと聞いている。とはいえ、基本給は約5万下がった程度だと聞いている。)


私は幸いなことに奨学金専門学校へ進学できたが、入学金を自力で用意できず銀行に借りた。

就職活動の時は、親の給料以上必ず稼ぎ、好きなことで生きていくぞと輝いていた。

青かった。どこまでも青二才だった。


ほんとうに私はどこまでも幸運で、勉強ができて資格もあって、それなりのコミュニケーション能力と、底抜けの明るさが持ち味だったので一部上場企業就職先に選べた。


就活はあっさり終わった。ほぼほぼ人生楽勝モードだと思った。


問題はその後だった。

奨学金の返済で月に2万は搾取される。家賃光熱費ペット養育費...エトセトラエトセトラ給料は良かったが、高い物価と遊ぶ場合は必ず金をかける必要がある都会で心細かった。


会社残業代のない年俸制軍隊研修をなんとか乗り越え、胃痛を抱えながら配属先が決まった。優秀だ優秀だと持ち上げられ、しかし知らないことはたくさんあるので失敗すればそんなことも知らないでやっていたのか、と驚かれる。秒数億円が動くのシステム保守。1コマンドサーバを停止させてしまうような仕事だった。先輩6人に囲まれていたが年齢が一番近い人でも8歳ほど違った。

教育らしい教育は、同じ時期に入った中途の人がしてくれた。もちろん中途の人も仕事を絶賛覚え中だった。

能動的に学ばなければいけない、止まることは許されない、間違いも許されない、私は優秀だ、社内の情勢が見えてきたら、政治にも巻き込まれたりして不要人間関係の悩みも受けた。

デスクにいたくなくて、禁煙していたタバコを吸い始めた。


親元からかなり離れ都会で精神も削れる所まで削れ、土日は酒浸り、酒がないと眠れなくなっていた。23前後帰宅時は24hスーパーに寄って、枝豆ウィンナーと酒を買い、それが夕食だった。就寝前に風呂に入る時間はとらず、睡眠に充てた。

朝はギリギリまで寝て、10分で風呂に入りそのまま出社。

気がつけば、ドアノブに手を触れただけで泣き崩れるようになっていた。その日は会社を休んだ。

翌日、出社した。

会社にいたくなくて、立ち食いそば屋ギリギリまでご飯を食べた。そこに、同期がいた。残業代出ないのつらいよなーとか、またみんなで飲みにでも行きたいなーとか他愛無い会話をした。

私は、肌寒い時期に、冷たい蕎麦をすすっていた。


入社して半年以上、気がつけば11月。親から電話がきた。LINE通話じゃなく、電話だった。LINEは長いことスルーしていた。


しんどいなら、帰っておいで


優しくそう言われたあの日、泣きながらうなづくしかなかった。

その日は、ワインを1瓶開けた日曜日の午前中だった。

はっきりと覚えている。


1ヶ月後、年をまたぐ前には実家に帰っていた。


その時キラキラした自分はいなかった。


実家に帰って真っ先にしたことは、禁煙。その後、お酒を控えるようにした。

睡眠の質は驚くほど解決していった。

胃痛は、消えていた。


数ヶ月ほど休んで、地元再就職した。

この業種自体は好きだったし、早く働いて自分の金が欲しかった。

さな会社だった。ここも教育は行き届いていなかったが、自由はあった。

自分の思う最強のシステムを作ることが許されていたし、管理自分に全て任されていたので、やりたいことを全てやった。

案件は人数で割れないほどきていたし、毎週レベルシステム製造見積もり作成していた。忙しさは最初会社の8割くらいという感じだろうか。

私は全て乗り切った。小さな問題は起こしても大きな問題は何一つ起こさなかったどころか、火消役としてあちこち案件に引っ張りだこだった。


問題はそれを誰も評価してくれないことだった。同僚は自分評価していたが、それが上に伝わることはなかった。全然なかった。

あるいは、伝わっていたが無視されたのかもしれない。


私の額面給料は21万円だった。リーダをしていた人でさえ32万だった(給料明細を見せ合いっこした)

3人のメンバーを抱えてリーダーをするようになっていたし、新人教育も私だけが力を入れていた。全ての質問に根強く答え、新人の空いた時間にする課題を出したりもした。

会社PCの注文や備品管理、整理、不便な部分のヒアリング解決を何度も繰り返した。

社内環境改善と受注開発の案件、どちらもやっていた。


上に働きをアピールした。給料には反映されなかった。

ひどい低賃金で結局、3年弱働いてやめた。


こうして、晴れてフリーランスになったのだ。

付き合う会社仕事は選べるし、自分のペースで自分責任で、自分のやりたいことができる。評価お金で返ってくる。

私にはすごくあっていた。

幸にしてコネもいくつかあったし、コネコネを呼び、仕事には事欠かなかった。15〜20日程度働いて、月35万前後稼いでいた。


それでも、波はあるもので、いつも不安になっていた。

2年が過ぎた頃、主要取引先となっていた会社倒産した。

未払金80万。私は血の気が引く音が聞こえた。



いろいろを経て借金をせずになんとか過ごしたが、安定を欲して、

また正社員になろうと思った。


完全在宅で働けて、受注系の開発で、評価制度が分かりやす会社が良かった。


履歴書職務経歴書登録していたサイトから、全て叶った会社からオファーをもらった。

給料も良かった。具体的には、残業代が出るのが良かった。


残業は月に30時間ある月もあるが、お金が出るからやる気がすごかった。

残業を減らそうと色々なフローに案を出した。新参者がいろいろ言っているなと思われただろうが、ここら辺は上司への根回しやあんの提出の仕方でなんとかなった。

しかもこれが、評価をされた。入社して半年後の査定給料が上がった。3万も上がった。


開発業務自体は大して興味なかった分野が割り振られたが、会社フォローが手厚く、やりたくないがやり切れている謎だった。

ストレスはあるが胃痛がするほどではない。正常範囲なのか、自分が慣れてしまったのかはわからない。


やりたくない仕事だけど、金払いがいい。


この仕事なら、続けられる気がした。

何故だろうと不思議だった。

社会人5年目位程度の若造の言うことを真摯に聞いてくれるからだろうか。

上司が下の様子をしっかり把握しているからだろうか。

困っていることを部門全体で解決してくれようと動いてくれるからだろうか。

金払いがいいからだろうか。


からないけれど、基本的に社内に敵がいないことも大きかった。

仕事終わりや休みの日の精神はとても安らいでいた。少し愚痴を話しておしまいだった。


面白くないけど、しんどくない。

やりたくないことだけど、その中でやりたいことを見つけられる実施できる。


疲れたり、めんどくさい時だってあるけど、評価とその結果のお金で返ってくる。

私は今幸せなんだなと実感した。


全ての社会人が、こういう仕事をできればいいなと切に思う。

面白くなくたって、自分自分の周りの人の負荷になっていなければきっとそれでいいんだ。


面白くない仕事からこそお金をもらっているのかもしれない。

やりたくない仕事からこそお金をもらってやっているのかもしれない。


さあ、もうすぐ連休だ。

明日を生き抜け、やりたくないけど、仕事仕事

  • 全部読んでしまった。 いい文章書くね。 俺も頑張るか。

  • 自分に価値があると思わせてくれる会社はいい会社だね

    • >コマンドでサーバを停止させてしまうような仕事だった これが上場企業?w 上場しちゃいけない奴だろw まあ、私も今年になって独立した瞬間、コロナ騒ぎなので不安定になってし...

  • イイハナシダナー

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