「政治行為」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 政治行為とは

2023-11-04

anond:20231104174129

褒めないと何が良かったのか分からんやろ

政治家国民からフィードバックが欲しいから褒めるのは必要やで

これは民主主義一般論

日本存在するキモい組織的な党アゲとか政治家アゲはただのヤラセなので嫌悪感を抱くのもわかるが、むしろこれらは国民自主的個人的政治行為をろくにしないから目立ってしまってると言うべき

2021-11-01

現代政治運動における嘲笑効果戦略

政治運動において敵対者への嘲笑時代地域を超えて普遍的である

SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。

だがその効用は明らかとは言い難い。

嘲笑することは一見敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。

一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体忌避して場を立ち去るか。

とくに、最後効果、つまり政治自体忌避させる原因を、政治運動における嘲笑帰結する分析もある。

支持を拡大するという目的マイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。



社会学において支配関係類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動上層部運動員に与える精神報酬ひとつだとしていた。

選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬必要である

しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。

それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。

この描像だと、嘲笑あくま精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。

政治家トップダウンで操る戦術オプションとして扱われている。



現代的な心理学の描像だと、嘲笑もっと政治に直結したものだとみなされる。

そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。

人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。

自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。

期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。

だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?

社会的な正常さを決めるのは、群れの政治力学だ。人間原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダー強者による完全な序列制でもない。

たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。

しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。

場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。

このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である



無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。

特定政党政治家言論人が嘲笑行動を種々の政治目的扇動する場合もありうる。

そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。

もちろん、この無意識なかに個人政治信条も含まれている。

ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。



嘲笑多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。

集団的に行われる嘲笑は、味方には精神報酬をあたえ、仲間関係確認し、支持を固めて動員する効果がある。

また、怒って反応する敵対者あぶり出し、敵として認定することもできる。

日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。

そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。

これによって、多数派勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。


さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である

という非常に単純な戦略しか導かれないように思われる。

だが現実には、少数派が集団的他人嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?

まず、自分多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。

社会調査などの客観的指標でなく、周囲の人間意見を重視してしまバイアスは容易には逃れがたい。

次に、感情を抑えてまでマクロ合理的政治行動を行うほどのインセンティブ個人にはない。

感情進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去環境適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。

これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。



が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。

その味方は自身多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。

嘲笑追従しないことは、対象孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。

よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派敵対者日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。



この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。

SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象対応する戦略を考案する必要があるだろう。

2021-10-28

anond:20211028080916

これもまたかなり的を外している。

ポリティカル・コレクトネスは単純な市場多数決ではない。

ポリティカル・コレクトネスの描像では、そもそも大衆は、「政治的正しさ」への賛否以前に、正しいか、正しくないかを判定できないのだ。

民主主義においては大衆主権行使者であり、社会運営者だ。

単純な政治行為だけでなく、市場を介しては意思決定を消費選好によって、また言論市場に対しては言明を直接反映できるはずである

それなのに、女性差別はなぜ蔓延っているのか。女性を含めた人類は生まれつき、女性差別者ばかりだからか。

もしそうだとしたら未来永劫女性差別はなくならないことになる。

そもそも一般差別存在するのは、大衆がそれを少なくとも黙認しているからではないか

それが積極的賛同ならば、差別の解消は不可能だ。


そうではなく、そもそも大衆は何が差別かを判定できないのがすべての原因である、と考える。

差別とはなにか、何が「善」で何が「悪」かすら理解できていない。その訓練を受けていないからだ。

教育にも限界がある。そもそも大衆自発的にそういった訓練を受けない。現状変更の見込みはない。

そこで、メディア芸術、その他の様々な、大衆が日々目にする言説を直接変更するべきである

とは言え単純な教育では意味がない。従うはずがないからだ。

よって変更の仕方を、「善」と「悪」基準理解できない大衆にも直感的に判定できるようにする必要がある。

美的感覚物語上の扱いの良し悪し、その他、すべて非言語的に、複雑な論理構造抜きに理解できる水準が望ましい。

これを繰り返すことで、多数決原理の結果が「正しく」なるように誘導する。

それこそが、大衆の「政治的正しさ」を善導する、ポリティカル・コレクトネス役割なのだ

2021-08-26

anond:20210826204040

本人は喜悦大を気に入ってるみたいでよくねぇか?

そりゃ、理由はかんたんだよ。早稲田はともかく慶應は「政治行為と金行為を同一視」するから、ヤベーんだよ。本来金融学と経済学は違うのに、経済学は「経世済民」という政治の道具に金融を使ってきたのだから世界恐慌は起こってきたんだよ。それで、高橋先生東大を2回卒業するという努力の果に、金融を「法学」と「政治学」を分離するというチャレンジをしてくれたのよ。西周福沢諭吉が「経世済民」という誤訳をしたから、政治学の道具として「経済学部」なんて「分系が理系の真似をする疑似科学が興た」の。本当は、金融学はアクチュアリーといった数学の背景としたもので良いの。文系は「数学なんてする」ぐらいだったら、真面目に人を説得する学問に徹しろ計量経済学なんて、理系の道具を社会学に応用する『文系』に存在価値があるわけねーだろ。本当は、経済学数学はいりません。数学必要経済学は、理系学部に打ち負かされてください。

要はだな、高橋という人はレコンキスタをやっているわけ。熱烈的に。彼は金融というものが「法律」「社会学」「経済学」ではない独自のものであり、それは理数科の背景があって、然るべきだという信念があるのさ。

2018-08-06

anond:20180806021759

言論の自由否定する言論」は確かに自由に出せばいいんじゃね? 漫画キャラに言わせるのでもなんでも自由でしょ

言論の自由否定する行政政治行為」はその実効から自由に行われてはいけないとされ、排除正当性が生まれ

強い言葉で煽るときちゃん推敲しような

2017-12-06

anond:20171206154217

あのお、ここでいう「特別立法」って「国事行為」の日程を定めただけなので政治行為とは定義し難いと思うんですけどぉ~

2015-05-25

物議を醸すと思うのだが 悪意を持たずに聞いて欲しい。

本当に些細な違いで申し訳ないんだが、LGBTまり同性婚場合

正しく言うならば、籍を入れるというのが正しいのではないか?

何かというと、宗教儀式の事を指しているのか 法律的な肉親関係を結ぶことを言っているのか?明確ではない。

政教分離があるので 政治宗教には立ち入れない。宗教政治には立ち入れない。

よって、政治家特定宗教儀式についてコメント差し込む権利がない。

他方 宗教家は籍を入れるという特定政治行為コメント差し込む権利がない。

 

多くの日本人勘違いをしているが、教会結婚式を上げるのは、特定宗教宗教儀式である

他方、ホテルドレスを着てパーティをやるのは個人の自由である

同性同士が籍を入れられるかどうかは、法律問題である

 

そこを混同すると 多くの人が迷惑を被るので どちらのことを言っているのかは明確にした方がいいと思う。

2015-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20150407211315

ただお前が引用してる木之本とかい議員共産系ってとこも胡散臭いけどな。

木野下ですね。

共産党なのはあれですが、建設反対に賛同してる議員は軒並みこの件に触れていないので、

触れているのが、非賛同議員しかいないんですよね。


それにお前さあ、教育政治なんて切り離されるどころか直結してるに決まってんだろ。

教育委員会という物の存在が、行政から切り離され、中立的立場にあるもののはずなのですが。

ただ、おっしゃるように、現実行政と直結なのだと思います

でも、そうなってしまってるからどうしようもない。というのは違うと思いますが。



お前は学校建設賛成の立場増田書いて告発してるけどさ、

お前のやってることそれモロ政治行為からな。

子どものために公正無私の気持ちで取り組んでるつもりでいるだろお前?

自分政治性に気付かずに突っ走ってっとそのうち周りから人が遠ざかっていくぜ。

増田に取り上げた意見は、多くの参加者からのもの抜粋しただけで、

私の意見ではないですね。最初にも述べましたが、私は小学校建設に賛成の立場ではありません。

どうにも辻褄の会わない今回の経緯と決定に疑問を感じているだけです。

別に小学校がどうこうじゃなくても、今後もこのような事が起こりうる可能性は多いにあります

それは問題だと思います


っつか政治から切り離された教育ってどんな形のものをソーゾーしてんだお前?

民間の塾だけで成り立つ社会か?

まあお前が実際言いたいことは、

政治家不透明利権っぽいしがらみで教育を混乱させるなってことなんだろうが、

タイトル根本的な思い違いしてるみたいだからそこは突っ込ませてもらうぞ。

根本的な思い違いはしていないと思いますが、行政子供利益だけを考えるわけではないですよね。

住民全体の福祉や市そのものの利であったり、全般的視点で捉えて動くものだと思います

一方、教育委員会は、教育子供視点物事を考えるべきです。

そのための機関ですから

しかし、現実市長議会の決定に諾々と従うのみの機関になっており、

独立したものの考え方と行動を行っていない。

それが問題だと思っていますが間違っているでしょうか。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん