はてなキーワード: 政治行為とは
政治運動において敵対者への嘲笑は時代や地域を超えて普遍的である。
SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。
だがその効用は明らかとは言い難い。
嘲笑することは一見、敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。
一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体を忌避して場を立ち去るか。
とくに、最後の効果、つまり政治自体を忌避させる原因を、政治運動における嘲笑に帰結する分析もある。
支持を拡大するという目的にマイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。
社会学において支配関係を類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動の上層部が運動員に与える精神的報酬のひとつだとしていた。
選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬が必要である。
しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。
それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。
この描像だと、嘲笑はあくまで精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。
政治家がトップダウンで操る戦術のオプションとして扱われている。
現代的な心理学の描像だと、嘲笑はもっと政治に直結したものだとみなされる。
そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。
人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。
自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。
期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。
だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?
社会的な正常さを決めるのは、群れの政治的力学だ。人間の原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダーや強者による完全な序列制でもない。
たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。
しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。
場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。
このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である。
無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。
特定の政党や政治家、言論人が嘲笑行動を種々の政治目的で扇動する場合もありうる。
そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。
ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。
嘲笑は多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。
集団的に行われる嘲笑は、味方には精神的報酬をあたえ、仲間関係を確認し、支持を固めて動員する効果がある。
また、怒って反応する敵対者をあぶり出し、敵として認定することもできる。
日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。
そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。
これによって、多数派の勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。
さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である
だが現実には、少数派が集団的に他人を嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?
まず、自分が多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。
社会調査などの客観的な指標でなく、周囲の人間の意見を重視してしまうバイアスは容易には逃れがたい。
次に、感情を抑えてまでマクロに合理的な政治行動を行うほどのインセンティブは個人にはない。
感情が進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去の環境に適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。
これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。
が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。
その味方は自身を多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。
嘲笑に追従しないことは、対象を孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。
よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派の敵対者や日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。
この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。
SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象に対応する戦略を考案する必要があるだろう。
これもまたかなり的を外している。
ポリティカル・コレクトネスは単純な市場多数決ではない。
ポリティカル・コレクトネスの描像では、そもそも大衆は、「政治的正しさ」への賛否以前に、正しいか、正しくないかを判定できないのだ。
民主主義においては大衆は主権の行使者であり、社会の運営者だ。
単純な政治行為だけでなく、市場を介しては意思決定を消費選好によって、また言論市場に対しては言明を直接反映できるはずである。
それなのに、女性差別はなぜ蔓延っているのか。女性を含めた人類は生まれつき、女性差別者ばかりだからか。
もしそうだとしたら未来永劫女性差別はなくならないことになる。
そもそも一般に差別が存在するのは、大衆がそれを少なくとも黙認しているからではないか。
そうではなく、そもそも大衆は何が差別かを判定できないのがすべての原因である、と考える。
差別とはなにか、何が「善」で何が「悪」かすら理解できていない。その訓練を受けていないからだ。
教育にも限界がある。そもそも大衆は自発的にそういった訓練を受けない。現状変更の見込みはない。
そこで、メディア、芸術、その他の様々な、大衆が日々目にする言説を直接変更するべきである。
よって変更の仕方を、「善」と「悪」の基準を理解できない大衆にも直感的に判定できるようにする必要がある。
美的感覚、物語上の扱いの良し悪し、その他、すべて非言語的に、複雑な論理構造抜きに理解できる水準が望ましい。
本人は喜悦大を気に入ってるみたいでよくねぇか?
そりゃ、理由はかんたんだよ。早稲田はともかく慶應は「政治行為と金融行為を同一視」するから、ヤベーんだよ。本来、金融学と経済学は違うのに、経済学は「経世済民」という政治の道具に金融を使ってきたのだから、世界恐慌は起こってきたんだよ。それで、高橋先生は東大を2回卒業するという努力の果に、金融を「法学」と「政治学」を分離するというチャレンジをしてくれたのよ。西周や福沢諭吉が「経世済民」という誤訳をしたから、政治学の道具として「経済学部」なんて「分系が理系の真似をする疑似科学が興た」の。本当は、金融学はアクチュアリーといった数学の背景としたもので良いの。文系は「数学なんてする」ぐらいだったら、真面目に人を説得する学問に徹しろ。計量経済学なんて、理系の道具を社会学に応用する『文系』に存在価値があるわけねーだろ。本当は、経済学に数学はいりません。数学が必要な経済学は、理系学部に打ち負かされてください。
要はだな、高橋という人はレコンキスタをやっているわけ。熱烈的に。彼は金融というものが「法律」「社会学」「経済学」ではない独自のものであり、それは理数科の背景があって、然るべきだという信念があるのさ。
物議を醸すと思うのだが 悪意を持たずに聞いて欲しい。
本当に些細な違いで申し訳ないんだが、LGBTつまり同性婚の場合
正しく言うならば、籍を入れるというのが正しいのではないか?
何かというと、宗教儀式の事を指しているのか 法律的な肉親関係を結ぶことを言っているのか?明確ではない。
政教分離があるので 政治は宗教には立ち入れない。宗教は政治には立ち入れない。
よって、政治家は特定の宗教儀式についてコメントを差し込む権利がない。
他方 宗教家は籍を入れるという特定の政治行為にコメントを差し込む権利がない。
多くの日本人が勘違いをしているが、教会で結婚式を上げるのは、特定の宗教の宗教儀式である。
他方、ホテルでドレスを着てパーティをやるのは個人の自由である。
木野下ですね。
共産党なのはあれですが、建設反対に賛同してる議員は軒並みこの件に触れていないので、
教育委員会という物の存在が、行政から切り離され、中立的な立場にあるもののはずなのですが。
でも、そうなってしまってるからどうしようもない。というのは違うと思いますが。
子どものために公正無私の気持ちで取り組んでるつもりでいるだろお前?
増田に取り上げた意見は、多くの参加者からのものを抜粋しただけで、
私の意見ではないですね。最初にも述べましたが、私は小学校建設に賛成の立場ではありません。
どうにも辻褄の会わない今回の経緯と決定に疑問を感じているだけです。
別に小学校がどうこうじゃなくても、今後もこのような事が起こりうる可能性は多いにありますし
っつか政治から切り離された教育ってどんな形のものをソーゾーしてんだお前?
まあお前が実際言いたいことは、
根本的な思い違いはしていないと思いますが、行政は子供の利益だけを考えるわけではないですよね。
住民全体の福祉や市そのものの利であったり、全般的な視点で捉えて動くものだと思います。
一方、教育委員会は、教育と子供の視点で物事を考えるべきです。