https://twitter.com/tm2501/status/345376345456525312
を参照
評価が下がったら、どうなるかって考えたら、どうって事無いよな。
自分の考えた日本国って妄想スケッチがあまりに増田のオリジナルストーリーすぎるから
同人誌でももとネタのストーリーとぜんぜん関係ない上にオリジナルキャラクタ混ぜてみたとかになったらがっくりだろ
そういうのが好きなヤツもいるだろうけどさ
友人と議論とかいっといて一方的に自分が考えた妄想日本を語っただけ
政治とか官僚とか単語だして説明らしきものを始めてみるが自分の感想ばかり
現象や情勢をなんとなく書いてみてはいるがひとつでも印紙はられた公書が元の情報があるか
だいたい増田に書いてる時点でまともじゃないって自分でもわかってるだろ
そこで議論して高説たれてやったわという相手 いきなりわけの分からない妄想語りを聞かされてバカにされて日本代表のバカっていわれてる虐待された友人の様がいただけないって話だろ
だから、普通に分別ある大人は、鬱病になりそうな職場はとっとと辞めるんだけど。
誰もが鬱病になる可能性っていうが、例えば家族がらみとか、恋愛でNTRされたとか託卵されたとかレベルでもなきゃならねぇよ。
俺も適用障害になりかけた事あったが、上手く上のルートを通して回避した。別に症状が出る事もなく今も普通に社会人だ。
職で鬱っていうのは、鬱回避の方法が思いつかなかったり、辞めるという選択肢を選べない、あるいは発達障害とか、とにかく大人としての能力が欠如してる人間がなるもんじゃないかね。
職場がITだから、鬱になった人間は山ほど見てるが、みんな自己管理能力が甘すぎて、周りから「それじゃ鬱になる」と注意されても何の柵も打たなかった。なるべくしてなっていった連中ばかりだよ。
その席で気づいたことなんだけど、うまい、まずいにうるさい人というか、いろんなうまいものを知ってる人をみたら、みんな独身だった。当然だけど、高齢の独身者ほど味にうるさい。飲み会の料理にうまい、まずいを言っていた。「えー、おいしいですよー」というと、どこどこのこれはもっとこうでうまい、とか。なるほどねー、と。
そんなことをいろいろ思った。あ、わたしは既婚者です。何食ってもうまいよ。理由は聞くな。
子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
はじめに言っておくと全面的に同意する。
ずっと自分も考えてきたことだった。
そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代を体現しているように感じる。
なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。
http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265
この人は比較的最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。
あとシオランは有名だよね。
話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。
快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。
話は簡単である。
現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である。
というか“社会は存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。
こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生は運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり「自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである。
しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。
もちろん、生まれたことである。
まずはこれがひとつ。
(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけである。しかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性・能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。
これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。
①個人化
③生活の具体性の消滅
最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間・時間を縮めることに専念してきたといえる。
少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。
あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。
「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。
ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである。
つまり「私」にも何ら内実は伴わない。
自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間や経験は、多くの現代人には得がたいものになった。
やがて人々は「私」にウンザリし始めた。
思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?
このテーマは近年になって伊藤計劃『ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道の所業の発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこの小説であった。
夢をあきらめる口実が欲しくて業界に入った。
たくさん蹴られて、自分には向かないと自覚して細々と生きるつもりだった。
業界の他の人や同期は熱気に溢れたすごい人物ばかりだ。
今は辞めさせられる口実が欲しくて働いている。
この業界に居続けることが辛い。
業界に憧れて、それでも運悪く入れなかった人たちには申し訳がない。
それでも自分はクビになりたい。
普段Perlを書いているんだけど、言語機能として欲しい機能がライブラリ任せだったりしていろいろしんどい。
何かいいプログラミング言語はないかなーと思っているんだけど、なかなか自分の好みとピタリとくるものがない。まぁ好みにピタリとくるものなんかプログラミング言語に限らずないんだろうけど。
なので夢想してたのを垂れ流してみる。最近OOPディスのエントリとかあったので話題作りになれば。
Web系のエンジニアなのでWebサービス作ることが前提で、範囲広げすぎるとまとまらないので今回はLLを想定してる。
だいたい PHP, Perl, Python, Ruby, JavaScript あたりをイメージしながら、さらにこんな機能があればいいなーと思って書いたよ。
認知症の初期症状で性格が急に攻撃的になったりするという話を聞いた事があるけど、
脳ドックをうけて異常がないならその線はないのだろうなあ
難しいね…
穏やかな性格だったのが、突然怒り出すようになった。
家族の足音がうるさい、ドアを音を立ててしめた等の些細なことで激昂する。
そして、他人の悪口を決して言わない人だったのが
暇さえあれば悪口を言うようになった。
病院でも少し待たされただけで受付のお姉さんに怒鳴りつけたりする。
脳がやられているのではないか、と思い
1年前にうまく言いくるめて脳ドッグを受けさせたが異常なし。
血圧があがりすぎたらしい。
幸いにもその日のうちに帰れたが、念のためにもう一度脳ドッグを受診した。
それもやはり異常なし。
今は、家にいるときはテレビのリモコンを手放さずテレビの前から動かない。
他の家族がしゃべりだすと
「おぉーこのラーメンうまそうだなぁ」
「こんな温泉行ってみたいなぁ」
などと、大きな声で遮るようにテレビと会話をはじめる。
食事も自分の分が食べ終わると、他の人の皿に箸を突っ込むようになった。
まるで子供のようだ、と思う。
以前と違う奇怪な行動をすべてメモして、父のかかりつけの病院に相談に行った。
「私はあなたのお父さんを昔から知っているけど、あの人は昔から変わりものだった。
今の行動は、何か病気というわけではなく単に老化してきてるだけでしょう。
誰でも老化すると、その人の本質的な部分が露呈してくるものですよ」
と言っただけだった。
本当にそうなのか?と思う。