はてなキーワード: 俳句とは
恥ずかしがらず俳句を詠めばいいのに
ショルダーバッグにお水850リットルとローソンのねじりパンとカレーパンを携えいざ出陣
もうね
そらそうだわ一段毎に片足スクワットするようなもんだしな
数段上がるたびにモンハンのスタミナ切れハンターみたいにゼェゼェ止まんの
俺の横をご老人がスイスイ…でもないけどゆっくり追い抜いていくの
屈☆辱
でもまあなんとか山頂に辿り着いたの
先客が数グループ
見事にいい席取られてんの
淑女と家族持ちは景観いい席でキャッキャキャッキャと優雅なランチ
弱男の俺は隅のベンチでカレーパン
フッ
帰りは砂利でツルッツル
危なくてしゃーない
いっぺんスト2ベガの強下Kのスライディングみたいになりそうになって超ビビったの
小幅で足元確認しながらチマチマ降りてくの
その横を仕事デキそうなオッサンがスイスイ追い抜いて下山してくの
KUTSU☆JYOKU
お前ら低山とて靴はちゃんとしたもん履いて行けよ
あとリュックorナップザックにしとけ
山を舐めるなッッッ
そんな日曜午前であった
じゃあの☆
私には小雨の薄暗い昼の天気がイメージされるのですが、人によっては朝であり、また違う人によっては夜でしょう。
昨今、YouTuberの台頭で、あらゆる表現は「正解」の読み解き方がある、といった見方が広まっているようです。
(エヴァンゲリオンや、君たちはどう生きるかで、皆さんが考察していますね。)
こういった「正解」を求める姿勢は、「作者の気持ちを答えなさい」のようで、それはそれで面白いのですが、
そもそも文章や映像、音楽といったメディアは、メディアにした時点で、作者の頭の中から情報が抜け落ちているのです。
作者の頭の中
↓
↓
↓
↓
読者・視聴者の頭の中
という流れを経ます。
俳句は圧縮率がとても高いメディアなので、読者は自身で様々な情報を補いつつデコード・展開をしないといけないわけです。
だから、「古池や 蛙飛び込む 水の音」が昼なのか夜なのかは、読者が補う必要があるわけですね。
俳句に限らず、普通の文章もそれなりに圧縮されているのだから、作者の頭の中と読者・視聴者の頭の中を同じにすることは不可能なわけです。
色々言いましたが、私は、「もにょる」には、「間違った言葉選びをしたくないから、もにょる、のような汎用性の高い(圧縮率が高い)言葉にしておこう」という印象を受けます。
せっかく圧縮率の高い言葉を使ってくれているのだから、作者の感情は、読者が自由に補えばいいのではないでしょうか?
作者の頭の中を完璧に再現する必要があるのは、契約書や法律の文章、エヴァンゲリオンくらいじゃないでしょうか?
インプットはよりよいものだけにすべきだ、SNSの文章は上等じゃない、といった理由のようです。
「もにょる」が入った文章は、村上春樹に言わせれば、下等なものでしょう。
「もにょる」にイラついている人は、実は下等な文章・下等な人間にイラついているのではないでしょうか?
もしそうであれば「もにょる」が入った文章を読まず、こんなネットの場末の文章も読まず、上等な文章だけで人生を彩ってみてはいかがでしょうか?