ともかく1年前、私たち楽観主義者は、現実に比べてデータが悪い数値を示している口実を探していました。いまはその逆です。悲観主義者たちが、データは誤った印象を与えていると主張しようとしています。ですが、その主張を通すのはどんどん難しくなっています。
——EBCの中期インフレ率目標は2%で、2025年のインフレ率は2.2%と予測されています。中央銀行の幹部たちはどこまで本気でこの0.2%にこだわると思われますか。
先のことについては、不確実なことが多いように思います。こうした予測は一貫して間違ってきました。インフレについては楽観しすぎで、雇用については悲観しすぎる傾向にあります。2.2%の予測を真に受けるべきかどうかというと、私はそうは思いません。自然利子率については明らかに不透明な部分が多いものです。
米国の場合、労働市場のデータや実体経済の状況を考えると、インフレ率が下がったことにそれほど驚きません。私が驚くのは、現在の金利で、いま以上の景気減速に至っていないことです。
インフレ率2%にこだわるべきか
——経済はこれまでのところ、うまく持ちこたえています。でも、この流れが行き過ぎるのを懸念されませんか。
インフレ率を2%に戻すには、いまより高い失業率が必要かもしれません。でも2%に戻すことは、そんなに重要でしょうか。セントラルバンカーたちは、「2%に戻せなければ自分たちの信頼に傷がつく」と思っています。たぶんそれは正しいでしょう。そして彼らはこうも信じています。「自分たちの信頼性はとても重要だ」と。でもたぶんそれは正しくありません。
重要なのは、「実体経済」であって「市場」ではありません。インフレとの闘いの上で「中央銀行の信頼性」が重要な要素だというセントラルバンカーたちの考えを立証するデータは実際、存在しません。
もちろん彼らの行動は経済に大きな影響を及ぼします。けれども「市場の彼らに対する信頼性が鍵を握る」とする信念は、彼らが思う以上に正当化できないものです。もし、あなたが中央銀行の総裁なら、あなたの一語一句に注目する金融関係者と一日中、話すことになるでしょう。けれども価格や賃金を決めるのはウォールストリートでも、ロンドンのシティでもフランクフルトでもありません。その意味でも、中央銀行の信頼性がどれほど重要かは、私には確信が持てません。
——彼らが、何百万件もの住宅ローンに影響が及ぶ金利を設定しても?
変動金利型住宅ローンの問題は、欧州では一種の歴史的なアクシデントなのではないかと思います。米国の住宅ローンの大半が15年か20年の固定金利である事実は、(金利の変化の)間接的な影響を防ぐのに役立っています。
——日欧米の中央銀行の総裁たちはポルトガルのシトラで開催されたフォーラムで、賃金上昇について警告しました。企業利益をめぐって何が起きているのでしょう。
「企業利益」のほうが「賃金」より伸びています。このため「賃金上昇」がインフレを直接牽引しているわけではありません。「企業利益」と「賃金」の伸び率の差のすべてではないにしろ、その一部は、市場支配力による搾取を反映しています。この状況を生み出した要因の1つは「強欲」でしょう。でも主な要因ではないと思います。
また賃金があまりに急速に上昇している場合、インフレを抑制することはできません。このような場合、欧州中央銀行(ECB)のラガルド総裁が賃金に注目するのは正しいと思います。賃金は、経済の過熱具合を監視する1つの指標だからです。そして賃金の急上昇は、ユーロ圏の経済が依然として過熱していることを示しています。
——国際的な機関は各国政府にインセンティブの廃止を呼びかけています。財政面ではどうすべきなのでしょう。
欧州の状況についてはわかりませんが、米国では、インセンティブは事実上すべて廃止されました。別の時代の、別の政治状況下であれば、いまこそ一時的な増税で需要を抑制するときでしょう。でもそのようなことは、起きません。
——増税ですか?
はい。米国では1967年と1968年にそのような増税が実施されました。リンドン・ジョンソン大統領が、インフレを抑える目的で一時的に所得税を上げました。いまでは考えられないことです。
——スペインでは7月の総選挙の際に、右派が減税を訴えていました。
そうですね、低税率は長期的には経済成長を刺激するという偉大なる“ゾンビ的思考”が存在します。欧州のすべての国は、米国よりずっと手厚い社会的セーフティーネットを備えています。これは概して良いことです。そうしたセーフティーネットが働く意欲を削いでいるようなことはありません。就労率は現在、高いですからね。
では現実的に見て、財政縮小はどうすれば実現するのかというと、支出はたいてい良いことのために使われています。増税は政治的にほとんど不可能です。ですから当面の間、すべては金融政策にかかっています。
——1970年代の世界的なインフレの危機のあと、米国では調整がおこなわれました。今回も同様の流れとなるのでしょうか。
米国のインフレ率は約9%から3%まで下がったものの、失業率はまったく上昇していません。ですから70年代のインフレのときとはぜんぜん違います。このため、このまま何もせずに乗り切れるのではないかと私は結構、楽観しています。この度のインフレを70年代のそれと重ねるのは無理があります。
いいえ、実際には米国ではその逆のことが起きました。インフレは貧しい人たちにより深刻な打撃を与えると誰もが考えるものです。でも実際には米国では、高所得者層より低所得者層の賃金の伸び率のほうが大幅に大きい状況が見られました。このため米国ではコロナ禍で格差がかなり縮小しました。1980年代以降、広がった賃金格差の4分の1くらいを回復できました。これは相当です。インフレ率を超える収入の伸びを経験したのは実際、賃金が最も低い労働者たちでした。
——でもスーパーで物価の上昇を一番、実感するのは低所得者では?
確かに、そうです。けれども、それはインフレが、食品価格やエネルギー価格に大きく反映される間のことです。食品もエネルギーも家計に占める割合が大きな品目ですからね。このため食品価格やエネルギー価格の上昇によるインフレが起きている場合、格差は拡大します。けれどもエネルギー価格は現在、ぐんと下がっています。また食品価格も米国では下がっています。
——人々は常に「問題は経済だよ」と言ってきました。でもスペインでは経済活動は活発化しており、雇用も増加していて、インフレ率も2%未満です。にもかかわらず、5月末の統一地方選挙で有権者は与党を評価しませんでした。私たちはいま、経済が最大の関心ごとではない、別の方向に向かっているのでしょうか。
そうかもしれません。米国では、昨年11月に中間選挙がありました。経済が極めて悪い状態にあったため、共和党が地滑り的な勝利を収めるだろうと誰もが思っていました。でもそうはなりませんでした。
スペインの世論調査がどのような傾向を示しているかは知りませんが、米国では妙なことが起きています。人に経済的にどんな調子かと尋ねると「結構いい感じだよ」と答えます。けれども国の経済はどうかと尋ねると、「ひどいね」と答えるのです。ですから本当に不思議なことが起きています。人々の実感は、経済的な現実とかなり乖離しているようなのです。
——スピーチのなかでソーシャルネットワークやメディアの影響力に言及されました。
米国には、さまざまな事柄についてポジティブあるいはネガティブな報道に触れたかを尋ねる調査があって、たとえば「雇用」に関してだと、こんな具合です——雇用ブームのなか、労働市場への新規参入者が月20万人から30万人いたにもかかわらず、多くの人が、見聞きしたニュースの大半は「悪いものだった」と答えたのです。その一因は情報操作です。米国には「フォックス・ニュース」があり、党派的なメディアもありますからね。
——その一方で「気候変動は存在しない」と主張するメディアがある。でもあなたがいらっしゃるスペイン北部はこの猛暑で……。
ええ。マドリードはもっと暑いんですよね。妻はテキサス出身なのですが、そこでは郵便配達員が倒れて、なかには亡くなった人もいます。とんでもない世の中です。
長期にわたる個人的な付き合いがあるポルトガルについてのほうが詳しいのですが……。でもスペインは比較的、良い状態にある国の1つだと思います。2010年代はじめの債務危機がいかに深刻だったかを思えば、経済は持ち直しました。なかにはかなり状況が悪化している国もあります。ドイツは、実際には人々が思っている以上に深刻な状態にあると思います。スペインはそれほどではありません。