大変だったなとは思うが、残念ながらこの国では大部分の企業で男が「子供の○○のため定時上がりを…休暇を…」と申し出ると白い目で見られる。ヘタするとそれを切っ掛けに職を追われる。
内閣府だかの調査によれば男の育休制度の利用率は一桁%台前半とのことだが、子供なんて嫁に任せておけばいいだろうという前時代的な考え方のアホ管理職が淘汰されない限り解決することは永遠にないと思う。
メイロマが世界で通用してないなんて、Twitterのフォロワー見れば分かること。ガイジン(というか、常に英語やら何やらで発信してる)のフォロワーなんて殆どいない。
これが全てのような気がする。
現地の友達の話とか凄く少ない。どうやって生きてるんだろう?
外国目線の日本叱り芸としていわば先輩にあたる大橋巨泉だって、アメリカ人ジャーナリストのジャック・レイノルズを出演させたりして、ちゃんと存在感を出していただろうに。
そろそろ桜台とかにしとけよ
財産相続なんて無くして、遺産は全部回収して、子どもはみんな同じ条件で養育されるべき、ってのはひとつの考え方だと思う。
ただ、自分の子どもに(他人よりも)幸せになってほしい、自分の築いた富を子どもに受け継いでほしい、っていう気持ちは多くの人が持ってるので、実現は難しいと思う。
スペック 夫・私(妻)ともに正社員、子ども一人。子どもは1歳から保育園に通っていた。
・保育園の送り迎え→毎日私。当然早出残業はできなかった。夫は当然だと思っていた様子。
・熱が出ましたと連絡が来る→私が仕事をどうにかやりくりしてお迎え。
・病気で登園できそうにない→私が仕事をどうにかやりくりして有給取得。
・保護者会とか→全部私。
…等々、挙げたらキリがない。
とにかくすべてが私の担当だった。
母親としてすべきことをするのは当然だと思う。
それについての不満はない。子どもと私の2人暮らしならストレスはなかっただろう。
私は睡眠もろくに取れず、常に仕事のやり繰りを考えねばならず、子どもが病気になれば通院看病でつきっきり。たまに子どもを置いて出かける用事が生じた時にはいつも事前調整が必要だった。(出かけてもいい?大丈夫?卑屈なこと極まりない)しかも調整ができなければ、どんなに大事な用事があっても諦めざるを得ない。
なのに、夫は残業、飲み会、趣味の集まりがあれば、いつも自分の思い通りに時間を使っていた。
共働きなのだから夫婦で役割分担を協議すればよかったのだろうが、休日に子どもと遊んでやってるオレすごいと思い込んでいる夫は十分役割分担しているつもりだった&仕事のやり繰りなんか無理だとハナから分担するつもりはなかったので、話し合いにならなかった。
私は子どもがひとり分の食事を食べられるようになるまで、外食時に自分が食べたいもの、温かいものを食べたことがない。子どもが食べられるものを頼み、食べさせ、食べきれなかった残りを食べていたからだ。そんな時でも常に夫は、自分の食べたいメニュー(アツアツホカホカ)を食べていた。
妻がすべてを担当することに何ら疑問を持たない夫は許せない。
勃起と萎えるのを繰り返すと、気づいたら先っちょの皮にちんげがはさまりまくって痛いことあるんだけど、手入れした方がいいのかなぁ
俺はWebをウェッブって書くヤツが嫌い
100年ぐらい前にもマルクスって人が同じようなこと言い始めて、
http://anond.hatelabo.jp/20131125035938
自分も海外某地域⇔日本で遠距離をしていた。国際遠距離は、移住した側と残った側でかなり違うと思う。自分は残った側だからあくまで残った側の意見として聞いて欲しいんだけれど…。
移住した側は毎日刺激に溢れていて、ふとしたときに寂しくなる(のだと思う)。残った側は、いつもの日常からパートナーがいなくなった日々を過ごす。すると、相手にコンタクトをとるべきタイミングがあまりわからない。というか、正直メール一本にしても何を書いたらよいかわからない。自分が過ごしている毎日は、パートナーが知っている毎日で、別段これといって話題にするようなことが見当たらない。だから、刺激に溢れる、移住した側からコンタクトをとってあげて欲しいと思う。移住した側から「こんな街だよ、こんな人と出会ったよ」という内容を送ってあげれば、残った側も話題に対応する形でコミュニケーションがとれると思うんだ。
あとは、これは双方に。久々のメールで、相手に伝えたいと思う内容が伝えきれていないと思っても送信ボタンを押すべきだと思う。何か送ろうか…と思ってメールを書いてみても、何か伝えきれていない感があることがある。そうして送らずに保存するメールがたまっていく。とりあえず、いっぺんに伝えきれなくても、ある程度は適当に自分の文章に見切りをつけて送るべきだと思う。遠距離になる前、一回一回のデートがそうであったように、一度のやりとりで全てを伝えきれるわけではないと思うよ。
長いし、何を言ってるのかもわかりにくいので、間違ってたらすまんよ。
相続は仕組みの問題であって、偶然や正義の問題ではないと思う。
※もちろん仕組みが間違っている場合は、議論をつくし改善するのが良い。
とにかく、読みづらい(嫌味じゃなしに)
赤ちゃん取り違えの件を簡単に説明すると、1953年にほぼ同時に生まれた赤ちゃんを、病院側が取り違えてしまい、一方は裕福な家庭に育ち、現在では不動産会社を経営するようになった。一方は貧しい家庭に育ち現在まで大変な苦労をしてきたという話です。そこで人生を狂わされたとして、貧しい家庭で育った男性らは、病院側に約2億5000万円の損害賠償を求め、裁判所は病院側の過失を認め約3800万円の支払いを命じた、ということです。
これが取り違えることなく育っていたら、一方は楽に、一方は大変に人生を過ごすことになるだろう、と思われます。そこに起きる違いは、損する人と得する人が入れ替わるということだけです。重要な点は家庭環境が違うと、現状の制度下ではその後の人生が大きく違ってくるということと、そういった重要なことが全く偶然に決定されるということです。中世に生まれるか現代に生まれるか、障害者に生まれるか健常者に生まれるか、あるいは人の子として生まれるか、野良猫の子に生まれるかも偶然に決まります。今回の件では病院は赤ちゃんを取り違えないだろう、という期待があったため、病院側の「過失」を認め、損害賠償の支払いを裁判所が命じました。
ここで疑問に思ったことがありました。なぜ偶然に決まるものを、絶対的なものとして、現状を追認するのかと。法律的な話ではなくて単純な疑問です。訴えた男性らの大元の主張として、人生が狂わされたというのは、(偶然決まった)本来の裕福な家庭に育っていれば、こんなに苦労することはなかったという解釈ができます。つまり偶然決まる生まれつきの待遇の差を当然だと思っているんです。僕にとってこれはなんだかふわふわしています。取らぬタヌキの皮算用というか。例えるなら、私は買えば宝くじに当たるはずだったのだから、当たらなかったのは、他の誰かに当たったからであり、それはおかしいので、当たった人は私に取り分を分けるべきである、といった主張を聞いているような感じです。
大変な努力をされて成功する人もいるでしょうが、その時代、その家庭環境など無数の偶然がその人を形づくっています。決して自分だけでやってきたとおごらないで欲しいのです。
人間にはできることと、できないことがありますが、偶然きまる境遇の差を、相続という形で再生産することは、人間にとって改善する余地のないことではありません。権利を持つ人が生きている間に、何をするかはもちろん自由ですが、権利者が死んだ後、人間としてあらゆる権利を喪失した、「何か」から財産を相続することはとても正義とは思えません。
こんなのをブコメで褒めてる奴らが大量にいるんだけどさ
“ずーしーほっきー”に決定 - NHK 北海道 NEWS WEB
どうみても気持ち悪いだけだから。
まあインパクトはあるかもな。でも北斗市に行こうと思わないどころか北斗市の名前すら一年後には忘れてる。
この絵はちっとも北斗市のイメージと結びついていない。この絵からイメージするのは「税金を無駄遣いする全国どこにでもある残念な地方自治体」であって北斗市じゃない。
これに限らずゆるキャラは全般的にそう。
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