つの突き合わせてガーガー言わない日本人の習慣にもマッチしとるわ。
これから問題が起きるとすればステルスマーケティングのカス企業ね。
楽しければそれでいい、そんなのよりも
そんな恋愛があった方が男として成長すると思う。
良い人と巡り合えるといいね。
次行け!次!
でも、注意して欲しいのは
相手の過去に一途じゃないことがあったり
相手の一途が自分の一途具合と違ったり、
そんなことはあるかもしれん。
誇りを持っていいと思うけど、相手にそういうの色々求めたらダメだ。
殺しちゃった場合、
増田は逮捕されてワイドショーや裁判で二人の細かい事情を他人の前でこれでもかと掘り返されるわ、
刑期中には自らの行いを振り返る機会がたくさん訪れるわで
今よりもっと忘れられなくなるだけだと思う。
もうこれって「忘れられない」ってレベルじゃないよね。
パイパンにしてるだけで可愛さアップするよねー
というよりかは、我々の人生たかだか数十年において観測しきれる範囲なんてたかが知れてるわけで、
有限であろうと無限であろうと起きた問題に対して一次的、あるいは処理しきれる最大限の範囲で因果関係を認めて、処理すればいいのでは。
その結果人が死んだとしてもね。
優れたSFはいつも現実のデフォルメなんだって思う。つまり、現実の日常のある部分を取り出して、先鋭化して、戯画化して
そうしてできた空想の産物が、むしろ日常の異常性を自然に僕たちに理解させる。空想だから、リアルなんだ。そういうのがいいSFってもんだ。
『たった一つの冴えたやり方』は泣けるってことで有名なSFだ。でも僕はその本題より、むしろディテールの部分に感動した。
やった!これでようやく宇宙に行ける!16歳の誕生日に両親からプレゼントされた小型スペースクーペを改造し、連邦基地のチェックもすり抜けて、そばかす娘コーティーはあこがれの星空へ飛びたった。
イーアは彼らの星で、ドロンという非常に愚鈍な生き物の脳に寄生する。イーアは彼らに「罰」と「報酬」を与え、ドロンの行動をコントロールする…。
まあ一見すれば、SF的な突拍子もない設定だなって思うけど。よく考えれば、つまり、なんていうかな、これって僕たちじゃない?ってこと。それに気づく。気づきが大事だ。
僕たちは「体」からあらゆる信号を受け取る。痛みは「罰」だ。痛みを受けるようなことをしてはいけないのだと僕たちは僕たちの「体」に教育される。
快楽は「報酬」だ。セックスに快楽が伴わなければ、とうに僕らとの僕らの体は滅んでいるだろう。
まとめれば「精神が体を支配しているのではなく、むしろ逆なのだ」みたいな陳腐な結論に至るんだけど、それを自然に気づかせる力がSFにはあり、その気づきの瞬間を僕は愛してやまない。
あらすじとしては
主人公の夫が事故にあった。助かる見込みがないので夫のクローンを作り、その体に脳を移植することになった。しかしクローンを作るのにはちょっと時間がかかる。その間夫の脳を保存しなくてはいけないのだが、夫の元の体は殆ど機能していないので、これを維持するには莫大なお金がかかる。主人公はその経済的な事情から、夫の脳を自分の「子宮」に保存することにきめた。
まあこんな感じだったか。間違ってるかもしれない。大事なのは、「他人の脳を子宮で保存すること」この一点だ。
これは、随分ショッキングな想定だと思う。ショッキングであることは大事だ。だって、気持ち悪いでしょ。いくら愛する夫だからって、他人の、脳を、自分の腹に埋め込むなんて。ぶっちゃけキモイ。
でもさでもさ、それは大変素直な感想だけど、でも、考えてみてよ、これって僕たちじゃん。というか、彼女たちじゃない?
女の人は妊娠する。それって極自然で、すばらしいことなんだけど、でも「他人の脳を子宮で保存してる」のは上のことと変わりない。さっきショッキングであることは大事だといった。ショッキングであることがショッキングなんだ。だって、いえないよ。妊娠が気持ち悪いなんて。でも、でも、なんてったってそれは同じことで、だから、やっぱり気持ち悪いんだ。
これに「気づいた」とき俺はなんて非道徳的なんだろうて衝撃と、こんなものを書いたイーガンに尊敬を覚えた。僕の解釈が正しいとは思わないというか、多分間違ってる。つまりよくない解釈なんだけど、でもイーガンすげえって思った。
http://lifehack2ch.livedoor.biz/archives/51295189.html
今すぐ欲しい。
5年前の恋愛のショックをさっさと消し去りたい。
一方的に振られて、一方的に連絡も拒絶されてて、
こっちがアクション取る気もないのにふと思い出して、心に影を落としてくる。
なんでまだ引きずるかなあ。
「待ち伏せして首を絞めて殺す」ぐらいしないと忘れられないんじゃないんだろうか。
因果応報とは言うものの、あの人の不幸になる過程はあまりにも酷すぎた。
あんなに沢山の人に囲まれて、あんなに幸せな家庭を築きあげて、あんなに美しかったのに。
どうして勝手に不幸になってしまったんだよ。私が叩き落すつもりで生きてきたのに。
もう良いんだ、私は誰も憎まずに生きていける。
……なんて思うわけ無いやんけ。
大変なんだなぁ。
あの高校の先生達にいっつも疑問を持ってたのは、やはり当たってたのか。それと同時に、そうせざる得ない環境ができているのは、なんともしょうがない。
時間がないを言い訳にする人は、仕事も時間がないを言い訳にして、やりたくない仕事はやらない傾向が強いです。
時間がないから書類を出さない。時間がないから片付けない。時間がないから会議に出ない。などなど。
次の担任を持つなり、残った生徒に尽力するなりするだけ。
俺は自分の生活を優先しましたが、それでもまだ8-21時勤務、土日も休みなしの状態から抜け出せないのは、自分の生活をある程度確保したうえで、多少は生徒を優先しているからです。
毎日13時間も生徒のために使う必要はない、と思うかもしれませんが、一日3~4時間の授業と、雑務の時間、部活の時間を除いたら、生徒のために使ってる時間なんて、一日一時間程度です。
もちろん、大多数の生徒は、教師がいなくともなんとかなります。
ですが中には、児童相談所に行くほどではないけれど、家庭でトラブルを抱えていて、誰にも相談できない生徒など、様々なトラブルを抱えた生徒もいます。
そういう生徒にとっては、教師じゃなくとも、身近に相談できる人間がいることが、どれほど日々の生活を楽にするでしょう。そして、他に身近に相談できる大人がいなかったら、教師を志すような人間なら誰でも「自分が聞いてあげよう」と思うでしょう。
少なくとも私は、そういう時間を削る人間を、魅力的だとは思いません。
もちろん、あなたの彼女のように、「忙しさ」を理由に、最低限こなすべきことを放棄している人間も、教師としてダメだと思います。
ただ、彼女を弁護するならば、担任教員というのは、仕事をしないと本気で彼らの将来に関わってきますから。
担任が仕事をしなければ、高校生なら、卒業できません。大学受験できません。下手すればその後の人生が大きく変わるでしょう。
話がそれますが、私は、教師が聖職だとも、教師が偉いとも思っていません。
ただ、生徒たちと同じ場で暮らす大人の一人に過ぎません。
そんな人間が、生徒たちに何か教えられるとしたら、専門教科の他は、「いかに人間的に魅力か」で決まるでしょう。
少なくとも、自分の人生を楽しんでいない、他者(生徒の存在も含めて)に依存しているような人間は、私は魅力的だと思いません。