はてなキーワード: エンゲルスとは
お子さんの疑問は真っ当で、問題は以下の2つに切り分けられると思う。
②従業員はなぜ何十年も働いても働かなくてもいいほど豊かになれないのか。
このテーマは150年も前にマルクスが悩んだテーマで、これを考える上で(その考えに賛同するかどうかはともかくとして)『資本論』に触れないわけにはいかない。マルクスとかいうとソ連とか共産党のイメージで、めちゃくちゃアレルギーある人が多いと思うけど、マルクスもそんなに間違いばっかり言っていたわけではないので、まぁ話だけでも聞いてくれ。
ということで、以下お節介ながら、この問題についてマルクスがどう言っているのか書いていく。
まず①の問題だけれども、その答えは「会社が金儲けを目的とする限り、その事業に終わりはない」ということになる。なぜなら、
からだ。つまり会社はいくら金を稼いでもそれをやめることはないし、その手段である事業もやめることはないということだ。
ではなぜ貨幣蓄蔵の欲望が無際限かの理由は2つあって、(ⅰ)ひとつは他の商品(車、電化製品、衣服、食料品などなど)に比べたときに現れる貨幣の特殊性にある。
想像してみてほしいのだけれど、これらの商品はいくら溜め込んだところで自分が使うにも持て余す(ベンツが百台あっても置き場所や維持費で大変)し、他の商品と交換するのにも限界がある(ベンツ百台を売りさばくにはそのためのお店や人員やらを用意しなくちゃいけなくて大変)。
しかし、貨幣についてはいくらあっても困らない(銀行に預ければ利子まで付いてくる!)し、他の商品といくらでも交換できてしまうのだ。
そして、(ⅱ)理由のもうひとつは、貨幣自体に社会的権力が固着していることにある。これはいちいち具体例を示さなくても分かると思う。
以上2つの理由から、会社は金儲けをやめないし、そのための手段である事業も可能な限り永久に続くことになる。
この問題についてはマルクスが資本論第1巻を全部費やしているテーマなので、とてもそれをまとめる能力も、専門家じゃない人にそれをわかりやすく伝える能力も俺にはないのだが、ポイントは2つある。
ひとつは、資本家(ここでは会社)は従業員を豊かにするために事業を行っているのではないということだ(それなら何のため?と思った人は上のマルクスの言葉を見よう!)。
そのため会社は利潤を上げるため、従業員に支払う給与をどんどん下げるインセンティブが働く。究極的には、従業員が一日中働いて、次の日また元気に出社するのに必要な額(つまり食費や睡眠をとるための費用)さえ支払えばいいという発想が生まれる。
「労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働することを妨げはしない。それゆえ、労働力の価値と、労働過程において労働力が増殖させる価値とは、2つのまったく違った量なのである。この違いこそ、資本家が労働力を買った時にすでに彼の念頭にあったものである」(『マルクス・エンゲルス全集』〔大月書店刊〕254頁)
つまり、給料が低く抑えられがちな以上、従業員はいくら働いたところで豊かになんかなりっこないわけだね。
もちろんこれには例外があって、最近話題になったカルビー会長の言葉(「従業員はただの道具ではない」「給料を増やし社員の待遇を良くするのは一番大事」)が思い浮かんだ人もいるかもしれない。マルクスはこういう良い資本家すらばっさり切り捨てるのだけど、問題が複雑になりすぎるのでここでは触れない。気になる人は『マルクス・エンゲルス全集』〔大月書店刊〕の353頁を読んでくれ。さらに興味のある人は、「モンドラゴン協同組合企業」でぐぐるとちょっと面白いかもしれない。
従業員がいくら働いても豊かになれない理由の2つ目は、従業員は通常、資本を持たない点にある。
つまり普通のその辺の人は金を稼ぐのに自分の労働力を売るしかなくて、そこから得られる給料も上に書いたように低くなりがち。そしてそこから生活費や子供の養育費を差っ引くと、もうほとんど手許に金は残らない。運よく給料が人より高かったり、奥さんが家計のやりくりのできる人で貯金が出来たとしても、それを増やす手段は資本家に比べれば全然ない。
中には株式投資をすればいいんじゃない?とか会社を興せばいいんじゃない?と思う人もいるかもしれないけれど、投資に成功する人が少ないことや、会社を興すにしても起業に多大なお金が必要(参入障壁)なことに思いを致せば、そう簡単じゃないことが分かると思う。
以上2つのポイント(もちろんマルクスは他にも色々言っているんだけど)から、従業員はいくら働いても豊かになれないし、働くことを止めることなんてできないんだね。
ちなみにトラバの中に、
というコメントがあったが、これもマルクス的には間違い。なぜなら、
だからだ。つまり、機械は資本家(ここでは会社)が利益を上げるためにしか使用されず、労働を軽減するために使用されるのではないということだ。歴史的事実としても、産業革命以来さんざん技術革新が進んできたのに、人が一切仕事をしなくて済むようにはならなかったでしょ?
以上長々と書いてきたけど、冒頭に書いたようにお子さんの疑問は至極真っ当で、これまで哲学者や経済学者が延々悩んできたテーマでもある。
上に書いてきた(というか俺が強引にまとめた)マルクスの主張については異論も色々あって、明らかに間違いだと分かっている点もあるのだけど、考えの取っ掛かりとしてはいいと思う(解決策も一応示されているしね)。
そこから最近話題になったピケティ『21世紀の資本』なんかを読むと考えがより深まると思う。
というわけで、こんな長い文章を読んでくれてありがとう!そういうもんだと割り切らず、がんばって考えて、お子さんによりよい将来を作ってやってくれ!
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/
もうはてブの常連だから改めて紹介するまでもないブログだけど、日本の経営者の搾取ぶりと、それを喜々として甘受する日本の労働者の社畜っぷりを徹底して批判しているブログ。
まず前提として、このブログの主張内容にほとんど誤りはない。荒っぽい口調ながら、安易な反論は全然通用しない。逆に、批判するのに緻密な理論なんか必要ないほど日本の労働シーンが歪んでしまっているのだとも言える。
ただ、ひとつブログの筆調に関して興味深いこと。
それは、スタンスが常に「諸外国に比べて日本は変」だってことだ。これはまったく揺らがない。
もともと、日本人のサービス残業癖も過剰な職場適応も、「あいつはあいつ、おれはおれ」と自分の労働観を貫けない横並び主義の影響が大だ。ここについては反論ないでしょう?
その結果の労働搾取に「日本も諸外国のようにならなければ」と横並び精神で立ち向かっている喜劇に、筆者は気付いているんだろうか。
それを考えると、世界的に労働者が搾取されていた時代に「どこでもこうだし」と諦めずに「万国の労働者よ団結せよ」と言えたマルクスエンゲルスはすごかったんだ。
とある人気エントリのぶくまに実在の著者、実在しない題名の本の紹介を書いた。
なんだろうね、この本。エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』という本を書いていたような気はするけど。指摘を受けたのにそれをスルーして「原」を「源」と直しただけで気づかなかったのはもちろん手元になかったからだし、内容から逆算して間違って覚えていたからだし、ついでにこのタイトルで指示しそこなった本、および著者の主張を有用であると思いつつ嫌っているという個人的感情による影響もあるけど、もっと深い理由があった。要するに元エントリに釣られたのを無理して感情をフラットにして自分が書くべきと思ったことを書いたので間違ったのだ。書くべき事があるとしたら、それはまず自分の無知を省みて、何も書かないという事であったはずだ。
なお正しくは『道徳の系譜』。みなさまには伏してお詫びしたい(←だからこれを最初に書かないのはどうしてかと)
教訓としては感情によっていくらでも操作可能な一介の自動機械ごときが人間の、ましてストア派のふりをするんじゃない、という事に尽きる。当該ぶくまはこの経緯を反映するかたちで修正してある。興味のある方は探して、星でも罵倒ぶくまでもつけてくれるとよいだろう。
死ね、むしろ壊れろ、つうか機能してないじゃん、俺
同感ですが
もと社会学徒としていちおう擁護しておくと、昔の日本の社会学(1970年代くらいまで)はそこまで無内容
ではなかった、と、元増田が批判の念頭に置かれているであろう宮台氏自身がどこかで言ってました。
まあ、エンゲルス、ウェーバー、デュルケーム、パレート、高田保馬、ブルデュー、ミルズ、あたりを読んで
おけばそれ以上フォローする必要もない、底の浅い学問だとは思っています。
そもそも社会学というのは(コントとか)理系のオチこぼれが「おれたちは理想社会を設計するぞ」と間違った
自信のもとにはじめた学問なので、しったかぶり病にかかっているのがデフォルトだし、学者の世界というのは
「やる意味ねー」と思っても「先人とは違うこと」をしないと生きていけないので、結果的にどうでもいいことを
http://anond.hatelabo.jp/20080226015115
Aさんの命日から2ヶ月ほど経ったある日。
今の家から電車で2時間。昔住んでいた家からは5km程の距離だ。
バブル期に分譲されたマンションだった。彼女の父親が羽振り良かった頃のものだろう。
家具は古いし内装を変えた気配もない。2人の娘がいた家だとは思えない。
父親の本棚には大月のマルクス・エンゲルス全集やその手の本がホコリを被って並んでいた。
彼女の遺影の前で手を合わせた。
49日を過ぎたが、まだ骨壺はそこにあった。
お墓をどうするのかまだ決まっていないという。
夫の墓に娘の骨を入れたくなさそう。複雑な家族環境がなんとなくうかがえる。
たぶん、もう一人の娘が片付いたら、夫と別れる気なんだろう
最初、母親は「娘のことは忘れてください」と何度も繰り返していた。
「ご迷惑おかけして申し訳ございません」と言うのだ。
気まずい雰囲気が流れる。
ただ、僕が学校での彼女の想い出を喋り始めると、やや空気は変わった。
やっぱり遺書めいた物は残していないらしい。
その理由を追い求めたくなるのは共通する。
知っている彼女と側面と別な姿を知りたいというのも同じだ。
最期の数ヶ月、「僕のために」通うことを承諾したのだという。
僕も、Aさんから結婚してくれと頼まれたことを伝えた。
お役に立てず申し訳ないというと、
母親は「あの子も、ラクになりたかったのでしょう」と答えた。
彼女の小さいときの写真を見せてもらった。高校の卒業アルバムも見た。
やはりいつも笑顔がない。なにか硬直した感じになっている。
笑うときもいつも引きつったような顔しかできなかったのを思い出す。
小学校高学年から大学生まで顔も髪型も何も変わらないというのも分かった。
プロポーズの言葉は「私の胸囲は小学六年生の平均だから」だったが、それは本当だった。
1時間ほどしたのでお暇しようとすると、玄関の音が鳴った。
父親が帰ってきたらしい。でも、まだ平日の3時前なのに早めの帰宅だ。
リストラされた団塊世代。きちんとした職に就いていないのだろうか
来客である僕に軽く会釈をした後、自分の部屋へ向かった。
来客が来ているのに何しているの、と口論をしているのが聞こえる。
どうもネットで株取引をしているらしい。
それから20分ほどして、羊羹とお茶が運ばれ、父親がやってきた。
「このたびは……」と切り出すが、会話は全く続かない。
命を絶った娘の遺影を前にして座る、男と父親。
話すべき言葉は何もない。
仕方がない。カバンの中から一つの封筒をとりだして見せた。
あるネットで彼女が自分の心境を書き殴った文章を印字してきたのだ。
それを伝えると、父親は封筒から紙を取り出し、食い入るように見つめ始めた。
それを見ながら、この人、顔も性格も娘とそっくりだなと実感した。
この父親も、子どもや社会とどう接すればいいのか分からなかったのだろう。
彼女が小さいときも、思春期になってもお互いの距離感を確認できなかった。
でも、なんとなくこのダメおやじの哀しみとジレンマも分かってしまった。
実は、もう一つ封筒を用意していた。
そっちにはAさんの両親に対する罵詈雑言も書かれていた。
でも、お互い、知らないこともあった方がいい。
来てくれてありがとうと繰り返した。
僕と同様、彼女の死をどう受け止めればいいのか分からなかった。
その気持ちを共有する人間を求めていたのだろう。
で、両親の気持ちも分かってしまった僕は行き詰まった。
Aさんの気持ちで考えれば考えるほど、絶望しか目の前にはない。
あの子に、もう他に生き残るための選択肢はなかったんだと痛感した。
崖っぷちに立った僕に見えるのは、ただ真っ白な霧だけだった。
その2週間後、僕はついに潰れてしまった