はてなキーワード: 実相とは
ていうか突き詰めればその直感はある意味まごう事なき真実で、結局人間の行動が脳という物理的なモノによって発生している以上、ゲームのキャラクターとの差はそのメモリやフラグの量や絡み方の違いでしか無い、とは言えます
ただ、ゲームのキャラクターにした所で、例えば初代ときメモの詩織なんて、単純に好感度を上げるだけではダメで、そこには数百手に及ぶある程度精密なフラグやパラメータ管理が必要なわけで
ゲームキャラですらそうなんだから、その数千、数万杯の情報量を持つ人間が、例え凡骨であったとしてもそんなに単純なわけがなく
実際、貴方は今までの知り合いをロジカルに軽くあしらったように見えて、その実相手は全員そんな事見抜いた上で、貴方に合わせ、その事実を隠しているだけかも知れませんよ
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
PKOを指揮管轄するのは統幕*1なのに、そこと上下ではなく並列組織である陸自をピンポイント指定してジャーナリスト氏は公文書開示請求を行った。
当然ながら日報は統幕が管理保管していたから、陸自は回覧されてきたものに目を通した後に破棄していたために、その通り破棄したと回答した。
全文公開された日報を見れば分かるように大量のページがあるものであり、日報だけにそれが次から次へとやってくる。しかも機密情報満載。正式な保管部署以外は、読み終われば、電子媒体なら削除、紙なら溶解だろう。
防衛省全体としては統幕で保管されきちんと情報保全しているのだから探せば出てきて当たり前で、河野太郎氏の指摘もあり、ジャーナリスト氏は陸自に開示請求をしていたがそれを超えて統幕というか防衛省全体としてはあることを公表した。
またさらにその公表の後に、業務に使うのかあるいはただの規則違反か、陸幕でも回ってきた日報を削除せずに個人的に残している人がいたことも明らかになった。個人が保管していただけのものなので行政文書に当たらないと
考えたのもあろうが、何より日報としては既に正式な統幕のものを公表していたから、特に何の発表もしなかった。そして後になってそのことも公表した。
これらが何故か資料隠し扱いをされてしまう。防衛省でなく陸自に対して情報公開請求をしてきたからそれに従った対応をしただけなのに。もし統幕と陸自が上下の組織ならそれでも出てきた可能性はあるが、組織図を見れば
分かるように上下ではないのだから、陸自に請求するというズレたことをすれば当初のような対応が規則通りということになる。防衛省とはいえお役所、決めごと通りにしか動けない。むしろ今回は裁量的に動き過ぎなくらい。
*1 http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2014/pdf/26020202.pdf
恒例(笑)の「痛いニュース」より、こんな記事がまたはてブで上がっていた。
痛いニュース(ノ∀`) : 貧困の“実相” 「毎日毎日おなかがすいて、敗戦時と同じ状況」…年金22万でも家賃13万円 - ライブドアブログ
これでふと思い出したのが(そんなに関連性はないのだが)、ある知り合いのお爺さん。私は孫のような年齢だから、そこまで話したことがなかったが、私の父と仲がよかった。
裕福な家庭に生まれ、ずっと一等地に暮らしていたが、今で言う「老後破産」的状況に陥り、晩年はバイトで食いつないでいた。人前では気丈に振る舞っていたが、独身で、親戚との関係が悪く身寄りがおらず、相当困窮していたという話を後々聞いている。
それでも彼は、もっと家賃・物価の安い場所に、という判断ができなかった。プライドもあったろうし、そもそも人間の本性として、いままでの生活のレベルを下げる、というのは相当の意志が必要だ。生活水準がその人の人としての価値や尊厳に直結している、というのは多かれ少なかれ多くの人が考えてしまうことだ。経済学的には、収入の減少にあわせて自分の生活も抵抗なく変えられる人と、そうでない人がおり、この人は完全に後者の方だったのだろう。
ある日彼は早朝バイトへの通勤途中、踏切で電車にはねられ亡くなった。彼は足が悪かった。警察は渡りきることができず「事故」に至ったと結論づけたようだ。(「自殺」と判断され、身寄りのない当人に賠償請求が課せられるのはあまりに酷だという配慮もあったかもしれない。)しかし私が噂に聞いた話では、目撃者がおり、それによると、彼は線路の真ん中で立ち止まり、その場でへたり込んでしまったのだという。
真相はどうあれ、人として生きる、しかも尊厳を抱いて生きる、というのは如何に難しいことか。彼が自らの尊厳を守ろうと、意識的にか無意識的にか、線路の上に立ったのだとしたら、それはあまりにも悲しい「尊厳死」だ。そしてきっと、全国でそんなような「尊厳死」のケースはあるのだろう。今20代の私も、我が行く末、そしてこの社会の行く末を思うと胸が苦しい。