はてなキーワード: 実相とは
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戦史叢書
防衛研修所戦史室(現・防衛省防衛研究所)が編纂した太平洋戦争及び日中戦争(大東亜戦争)に関する公刊戦史。
開戦経緯、戦争指導、個々の作戦等について、各種文書、口述記録並びに外国の公刊戦史等を元として、記述するもの。
1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂・発刊。
大本営関係34巻 · 陸軍戦史37巻 · 海軍戦史21巻 · 陸軍航空戦史9巻 · 年表1巻の全102巻で構成。
戦略レベル以上の分析や史料批判に欠ける。旧軍に所属していた元軍人が書いているため、身内に係る批判がされにくい。陸海軍の対立が編纂事業にまで及ぶ。捕虜の取り扱いや占領地行政に係る記述が無いか少ない。索引が無い。誤りが多い等の問題点が見られるようだ。
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日本陸軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項について記述。官制について記述。
扱う期間は慶応3年(1867年)~昭和20年(1945年)8月15日。
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明治元年(1868年)から昭和15年(1940年)5月までの約70年間に亘る陸軍中央部施策中、大東亜戦争関連事項につきその大綱を概説して記述。国防上の政策、軍令機関等の制定改廃、帝国国防方針の制定改定等について記述。
扱う期間は明治元年(1868年)~昭和15年(1940年)5月。
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主として大正6~7年(1917~1918年)頃から昭和12年(1937年)頃までの約20年間に亘る陸軍軍需動員の計画準備について記述。徴発制度・法令・官制・計画等について記述。実施面については、戦史叢書第33巻『陸軍軍需動員<2>実施編』に詳述。
扱う期間は大正6~7年(1917~1918年)から昭和12年(1937年)。
大本営陸軍部の立場から大東亜戦争(日中戦争・太平洋戦争)に至った政戦略の経緯や戦争指導について記述。主として「大本営政府連絡会議」及び「御前会議」の運営及び開催に伴う陸海軍及び外交当局の動きについて記述。
扱う期間は昭和6年(1931年)~昭和16年(1941年)8月30日。
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日本海軍創設から「大東亜戦争」開戦までにおける海軍中央部の施策 、開戦から終戦までの大本営海軍部・連合艦隊の戦争指導および作戦指導の概要を記述。
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日本海軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項を重点的に概述。
扱う期間は昭和16年(1941年)11月~昭和20年(1945年)8月15日。
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昭和17年(1942年)6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦及びその前後の海軍作戦について記述。本作戦は、戦争全般のターニングポイントとみなされている重要な戦役(戦闘)であり、本作戦の失敗(敗北)以降、開戦から常に先手を取り続けていた日本海軍は、守勢に回ることとなった。なお、本作戦は、アリューシャン列島西部要地攻略作戦と一体の作戦として計画及び実行されたものであり、戦史叢書第029巻『北東方面海軍作戦』を関係して参照することが望ましい。
扱う期間は昭和17年(1942年)1月~昭和17年(1942年)6月。
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外地(特に南方占領地)からの海上輸送は、戦争中の国力維持に対し極めて強い影響を与える。戦争敗因の一大要因として、わが海上輸送力の減退に基づく国力喪失が挙げられており、それらの実相並びに諸対策の実態を明らかにするためにも、これらの関連分野全般に亘っての総合的研究叙述が必要とされるところである。
扱う期間は明治40年(1907年)4月~昭和20年(1945年)8月。
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昭和20年(1945年)1月~8月にかけての大本営陸軍部の作戦指導及び戦争指導の経緯を記述。
扱う期間は昭和20年(1945年)1月20日~昭和20年(1945年)8月15日。
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どうしようもなく追い詰められてる人間にこの言葉で迫るのはまじでやめろ。まあ俺は追い詰められてる人代表ではないから、他の人はどうかは知らんけれど。少なくとも俺はこの言葉を言われただけで、「ああ、こいつとは分かり合えない」と断絶を感じる。こいつに何を言っても無駄だと思ってしまう。
それは周りの人間からしたら、その人がどうしたいのかがわからないから出てくる言葉なのはわかるけどさ。追い詰められてる人間は何がしたいかなんてわからんわけよ。わかってたら追い詰められてたりしないからさ。
で、なんでそこまで追い詰められてるかを説明しなきゃ、どれだけ辛いかを周りの人間に理解してもらえないんだが、この説明自体が難しい。単純でわかりやすいきっかけがあれば説明もしやすいし理解もされやすいだろうさ。でも些細なことでも、長い間の積み重ねで心が折れることがある。それを「ちゃんと言ってくれないとわからない」なんて言われても、こっちだってどう説明しようかわからんし、そもそも心がくじけてしんどいところをどう説明すればいいのよって思う。
でさ、この間心療内科に行ったんだけど、行ったことを後悔したわけさ。ああ、結局理解されないんだなって。
そこでも結局何がしたいのって聞かれるわけだが、そんなの一言で説明できるかよ。うまく説明できるほど口が達者でもないし、口が達者ならここまで追い込まれてねえし。
でもさ、心療内科行ってみて得たこともある。俺が欲しかったのは寄り添ってくれる人なんだと思う。現状分析してアドバイスしたり解決策を提示してくれるような人はいらないわけ。もうこれ以上何もやりたくないのに、さらにあれをやりなさい、これをやりなさい、今のままじゃだめだとか、そういう追加のタスクを投げられても、すでに抱えきれない状態なんだ。死ぬよ。
俺自身は追い詰められてるけど、振り返ってみると逆の立場で「それはこうすればいいじゃん」とかアドバイスしてたことがあったし。そのアドバイス、相手は馬鹿だなぁ、そんなこともわからないのか、俺ってできる男、みたいな気持ちでアドバイスしてなかっただろうか。今の自分が強く思ってる「そんなのいらない」ということを俺自身がやってるわけさ。
「こうすればいいじゃん」ていう解決策はさ、追い詰められてる人間にだってわかるさ。わかってない場合もあるけど。でもそれを行動に移す気力がないわけよ。追い詰められてる状態の人間にさらにがんばれって言ってるもんだよ、それ。がんばれないからつらがってるわけじゃん。その状態が理解されないから追い込まれるわけじゃん。
だいたい「そんなのこれやるだけじゃん」と簡単そうにアドバイスをするやつは、現状を知らないから言えるだけというのを理解して欲しい。同じ立場・状況に置かれてその現状を実感した上でのアドバイスなら聞いてやれなくもないけど、そんなこちらの状況をまるで知りもせずにする上から目線アドバイスなんて、さらなるストレスでしかない。気分としては安全地帯から石投げられてる気分よね。
介護問題で悩んでる人に、それはもう施設に入れるしかないじゃんとかアドバイスするのは簡単だろうさ。でも、その施設に入るまでの間は何も変わらないわけよ。あんたが面倒見てくれるわけ? 違うよね。
老人が運転してた車で若い人が命を失う。免許を返納させろ、それをしなかった家族も同罪だなんて、無責任に言ってる奴ら。それだって現状を見てないわけよ。免許を返納したあと、その老人の世話を周りの家族が見なきゃいけなくなる。それどうすんのって視点が欠けてる。返納させればいいじゃんって言ったあなた、あなたが面倒見てくれるんですか? タクシー使えばいいじゃんって? そのお金はどこから出てくるのよ。タクシーくるまでの間、どうすればいいのよ。口でいうだけなら簡単なんだよ、それちゃんと実行できるの? 正論のつもりで言ってるのかもしれんが、それめちゃくちゃ無責任な発言だぞ。
・・・ああ、ちなみに。俺は介護で追い詰められてるから、老人に若者や子供の命が奪われる現状が憎くて憎くて仕方がないよ。老人なんて等しくこの世から消滅してしまえと思ってるよ。老人の肩を持つ気はさらさらない。自分のばばあ憎しから拡大して、世の中の老人全部が憎悪の対象だよ。
ただ、老人なんてみんな死滅してしまえと思うのと同じように、現状をよく知りもしないくせにアドバイスのような、その実相手を追い込めるだけでしかない呪詛をばらまく奴らも同じようにこの世から消滅してしまえと思ってる。
別にさ、俺の状況知ってるわけでもないやつに、なにかアドバイスしてほしいなんて欠片も思ってねぇよ。ただ話を聞いてくれよ。
とりあえず現時点で、同じ境遇に置かれてる家族と傷のなめあいして心を紛らわせてなんとか耐えてるよ。紛らわせたところで俺を追い詰めるものが消えてなくなるわけじゃない。本当にクソみたいな世の中だ。
ああ、気がついたら呪詛が出るな。すまんすまん。
まあこれで何が言いたいかって言うとさ、追い詰められてる人間、疲れてる人間にさ、「お前はどうしたいんだ、どうしてほしいんだ」って聞くときはさ、ちゃんと本人に寄り添ってからにしてやってほしいってこと。
本人がどうしたいのかってところはさ、すげえ大事な部分だし、それを聞かないと周りも何もできないんだけどさ。それを聞き出すのが第一声なのは、少なくとも俺はめちゃくちゃ傷つく。ああ、こいつには時間がないんだなって思うもん。そんな単刀直入にすぐ説明できるようなもんじゃないし、そもそも自分でもわかってないのに、開口一番それってことは、お前の相手してる暇ねえんだよってことなんだなって思うもん。ああ、こいつには理解されないんだなってその時点で無力感感じるね。
追い詰められた人間が自ら助けを求めに行くのって、めちゃめちゃハードル高いの。そんなのが簡単にできるのであればそんなに追い詰められてないだろうしね。
それでも助けを求めに来たときは、まずアドバイスじゃなくて話を聞いてやってくれ。溜まりに溜まったものが渦巻いてて、本人はどこからどう話したらいいかよくわかんない状態だからさ、急かさず、ただそばにいるだけでいいさ。お前の話はしなくていいよ。ただ本人のそばで、うんうんって聞いてやってくれ。それだけでだいぶ救われる。
絶対に、そのプロセスを飛ばしてアドバイスなんかしないでくれ。ああ、やっぱり何を言っても無駄なんだ、伝わらないんだって絶望感しか残んねえから。
何がしたいのか、どうしたいのか、ってのはとても大事なこと。追い詰められてる本人には見えてないもんだからね。だからどこかのタイミングでそれを切り出さざるを得ない。でもそれは、どっちかっていうと、追い詰められてる人と一緒に見つけるくらいのスタンスでやってほしいのよね。まあそれができりゃ誰も困らないんだけどね。
追い詰められてる人に対してもなんか書いとくかね。
とりあえず、貯め込むのだけは良くない。絶対に良くない。これだけは間違いない。だからどこかに吐き出すのだ。吐き出す際、王様の耳はロバの耳方式が良い。返信を期待しないところに吐き出すのが一番だ。何も解決しないけど、溜め込んだものを吐き出すのは大事だ。
増田に書くのもいいし、怪文書としてマスコミに送りつけるとかでもいいんじゃない、知らんけど。誰に見せるでもなく、紙に書き出すとかもありよ。吐き出せ吐き出せ。
そんなことしたって何も解決しないけどさ。少なくとも頭の中でぐるぐるぐるぐる悪い感情がループしてるのからは気が紛れると思う。
誰かに助けを求めようとする人は偉大だ。追い込まれてる状態なのに、拒絶されるかもしれない・理解されないかもしれないという恐怖を抱えながらも、助けを求めに行ける君はすごい。俺は尊敬するね。
君はどうかはしらんが、俺はようやくわかったよ。アドバイスがほしいんじゃなくて、現状を理解してもらいたいってのが俺のしてほしいことだってね。だから理解されないかもしれないけど、助けを求めに行動をすることにも意味はあるとは思うよ。そのせいでさらに傷つくことになるかもしれないけど、そこから見えてくることもあるかもしれない。
まあ悩みの大本がさっさと消えてなくなってくれるのが一番なんだがね。
そもそもコミュニティもコミュニティに境界があるってのもどっちも幻想でしょ。世界には人間個人しか居なくて、それをクラスタ単位で見るってのは、認識能力に限界がある知性体のオートカテゴライズ機能ってだけだよ。その証拠にTwittterに「キモオタ死ね」って書いたらその矢はWebぱうわで拡大されて(潜在的には)自分以外の全人類(Twitter参加者だから言い過ぎか)に配達されてしまう。自分以外の全員(か、まあ、少なくとも興味ある数千人に)「「「「「「「「「「お前こそ死ねブス!」」」」」」」」」」と言い返されちゃうゾってのが話の実相だ。
結局理非をわきまえて、誤解を受けないように謙虚に発言するってのは、トーンポリシングでもアカデミズムでもヘタレでもなんでもなくて、世界に対して「わたしは暴力とは距離を起きますよ」「わたしから殴らない代わりに殴り合いには参加したくありません」っていう自己紹介なんだよね。
それをしないで暴力ウェルカムな言動してたらそりゃバトルになるわここはファイトクラブなんだから。それを自己責任って言うならまあそうだけど、仕方ないだろ。やっぱ教育は大事だっていういつものオチでしかない。
ていうか突き詰めればその直感はある意味まごう事なき真実で、結局人間の行動が脳という物理的なモノによって発生している以上、ゲームのキャラクターとの差はそのメモリやフラグの量や絡み方の違いでしか無い、とは言えます
ただ、ゲームのキャラクターにした所で、例えば初代ときメモの詩織なんて、単純に好感度を上げるだけではダメで、そこには数百手に及ぶある程度精密なフラグやパラメータ管理が必要なわけで
ゲームキャラですらそうなんだから、その数千、数万杯の情報量を持つ人間が、例え凡骨であったとしてもそんなに単純なわけがなく
実際、貴方は今までの知り合いをロジカルに軽くあしらったように見えて、その実相手は全員そんな事見抜いた上で、貴方に合わせ、その事実を隠しているだけかも知れませんよ
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
PKOを指揮管轄するのは統幕*1なのに、そこと上下ではなく並列組織である陸自をピンポイント指定してジャーナリスト氏は公文書開示請求を行った。
当然ながら日報は統幕が管理保管していたから、陸自は回覧されてきたものに目を通した後に破棄していたために、その通り破棄したと回答した。
全文公開された日報を見れば分かるように大量のページがあるものであり、日報だけにそれが次から次へとやってくる。しかも機密情報満載。正式な保管部署以外は、読み終われば、電子媒体なら削除、紙なら溶解だろう。
防衛省全体としては統幕で保管されきちんと情報保全しているのだから探せば出てきて当たり前で、河野太郎氏の指摘もあり、ジャーナリスト氏は陸自に開示請求をしていたがそれを超えて統幕というか防衛省全体としてはあることを公表した。
またさらにその公表の後に、業務に使うのかあるいはただの規則違反か、陸幕でも回ってきた日報を削除せずに個人的に残している人がいたことも明らかになった。個人が保管していただけのものなので行政文書に当たらないと
考えたのもあろうが、何より日報としては既に正式な統幕のものを公表していたから、特に何の発表もしなかった。そして後になってそのことも公表した。
これらが何故か資料隠し扱いをされてしまう。防衛省でなく陸自に対して情報公開請求をしてきたからそれに従った対応をしただけなのに。もし統幕と陸自が上下の組織ならそれでも出てきた可能性はあるが、組織図を見れば
分かるように上下ではないのだから、陸自に請求するというズレたことをすれば当初のような対応が規則通りということになる。防衛省とはいえお役所、決めごと通りにしか動けない。むしろ今回は裁量的に動き過ぎなくらい。
*1 http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2014/pdf/26020202.pdf
恒例(笑)の「痛いニュース」より、こんな記事がまたはてブで上がっていた。
痛いニュース(ノ∀`) : 貧困の“実相” 「毎日毎日おなかがすいて、敗戦時と同じ状況」…年金22万でも家賃13万円 - ライブドアブログ
これでふと思い出したのが(そんなに関連性はないのだが)、ある知り合いのお爺さん。私は孫のような年齢だから、そこまで話したことがなかったが、私の父と仲がよかった。
裕福な家庭に生まれ、ずっと一等地に暮らしていたが、今で言う「老後破産」的状況に陥り、晩年はバイトで食いつないでいた。人前では気丈に振る舞っていたが、独身で、親戚との関係が悪く身寄りがおらず、相当困窮していたという話を後々聞いている。
それでも彼は、もっと家賃・物価の安い場所に、という判断ができなかった。プライドもあったろうし、そもそも人間の本性として、いままでの生活のレベルを下げる、というのは相当の意志が必要だ。生活水準がその人の人としての価値や尊厳に直結している、というのは多かれ少なかれ多くの人が考えてしまうことだ。経済学的には、収入の減少にあわせて自分の生活も抵抗なく変えられる人と、そうでない人がおり、この人は完全に後者の方だったのだろう。
ある日彼は早朝バイトへの通勤途中、踏切で電車にはねられ亡くなった。彼は足が悪かった。警察は渡りきることができず「事故」に至ったと結論づけたようだ。(「自殺」と判断され、身寄りのない当人に賠償請求が課せられるのはあまりに酷だという配慮もあったかもしれない。)しかし私が噂に聞いた話では、目撃者がおり、それによると、彼は線路の真ん中で立ち止まり、その場でへたり込んでしまったのだという。
真相はどうあれ、人として生きる、しかも尊厳を抱いて生きる、というのは如何に難しいことか。彼が自らの尊厳を守ろうと、意識的にか無意識的にか、線路の上に立ったのだとしたら、それはあまりにも悲しい「尊厳死」だ。そしてきっと、全国でそんなような「尊厳死」のケースはあるのだろう。今20代の私も、我が行く末、そしてこの社会の行く末を思うと胸が苦しい。