はてなキーワード: チームメートとは
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。かつて自主トレもともにした弟子だけに、痛烈な〝喝〟も送った。
悩める大砲候補への〝セカンドオピニオン〟だった。「(リチャードが)打てないのは技術面。みんなメンタル面って言ってますけど、技術ですよ。メンタルじゃない」。昨季は2軍で本塁打王を獲得するも、1軍では打率1割1分5厘。1試合で4三振を喫する時もあるなど、周囲からはメンタル面の指摘も多かった。それでも、山川は技術に焦点を置いた。例として挙げたのは、2軍での打率だった。
山川は1軍で通算786試合に出場し、打率2割5分6厘、2軍では通算264試合で打率3割1分2厘。ホームランバッターでは優先度が低くなりがちな打率も一定の成績を残してきた。1軍に上がれば、投手のレベルの上がり、2軍での成績通りの結果は期待できない。山川は「2軍の時は1軍上がるためにやる。打って上がるためには3割が絶対と勝手に思っていた」と語った。
一方、19本塁打で4年連続の本塁打王を獲得したリチャードの昨季の2軍打率は2割2分5厘。「1軍で打てないのは2軍で打てないからです。2軍であの成績で打っているとはならないと思う。リチャードが(2軍で)3割3分くらい打っていたら、もう少し我慢して使うと思いますよ」と言い切る。
11日午後の自由練習では、室内練習場でともに打撃練習。伝えたのは山川が「生命線」と語る軸足の使い方だった。その上でリチャードの課題として、ある癖を指摘した。「選びすぎです、ボールを。打率を上げる方法は、簡単に言えば好球必打だと思います。でもそれは、机の上の話なんですよ。打者というのはいけると思ったボールはいかないと。いけると思っているスポットが少なすぎます」
甘い球を捉えることは絶対条件である。その一方で、捉えようとする球に考えを巡らせすぎて、振ればヒットゾーンになる球も見逃している。弟子の現状を分析した上で、失敗を恐れず、思い切って振り抜く覚悟を山川は求めていた。
チームメートとなり、小さなことも指摘できるようになった。オフにはともに休日返上する予定もある。「あのままじゃ打てはしない」。愛弟子に厳しく接しつつ、成長を願ってやまない姿があった。
大阪桐蔭の選手が指名漏れているのが話題になっていた。自分も身長188センチで150キロを投げ、日本代表でも無失点投球だった川原までが指名漏れしたのは驚いた。最近、大阪桐蔭の選手が指名漏れしたり評価が低くなっている、個人的に考える理由。
2000年代にプロのスター選手を複数輩出したが、2010年代以降の卒業生で、1軍で常時出場しているのは森友哉ただ一人。過去の横浜高校やPL学園と比べても顕著であり、大阪桐蔭の環境で育つとプロの壁に当たる一般的な理由があるのではないか、とスカウトは見切っている。個人的には、初球から何も考えずマン振りする、完全に日本のガラパゴス高性能金属バットに最適化した打撃スタイルは全面的に見直すべきだと思う。
そもそも高校での活躍は、周りのチームメートに恵まれていることもあるので、その実力が2割引きで評価されてしまう。無名校を一人で県大会準優勝に導いた投手と、大阪桐蔭の複数いる投手の一人だったら、前者の評価がどうしても高くなる。野手の評価も同様。
実はこれが一番大きいように思う。六大学野球ので高い成績を残しているスター選手が指名漏れ、ということが毎年恒例行事になっているが、これも似たような問題がある。そもそもスカウトは「無名だが素材のいい選手」に目をつけて濃い関係を作る傾向がある。目をつけられた選手も、その高校や大学の指導者も、たいした実績もない自分たちに注目してくれるので感激し、「ぜひお願いします」と頭を下げる。スカウトもそれに応えようと、会議でその選手を全力で激推しする。もし大当たりしたら、そのスカウトの評価も非常に高くなる。他方、甲子園常連校や名門大学の有名選手は、学校がガードしていたりスカウトの出入りが激しいこともあり、そうした濃い関係をつくりにくい。スカウトが推して指名して当たったとしても、既に有名な選手なのでスカウトの功績とはみなされにくい。結果として、何年に一度の逸材とか、その年の目玉選手というレベルでなければ、スカウトが激推しする「中央では無名だが素材のいい選手」を指名リストに入れる。
個人的には六大学野球をよく見るが、リーグ戦でろくに結果を残していない立教の荘司が1位競合で、17勝している慶応の増居が指名漏れというのは、ちょっと納得できないところがある。
1984年に35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。
1986年には打率.363を記録したが、この年は阪神のランディ・バースが日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者を獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。
1988年、ヤクルトスワローズとの開幕戦で巨人の選手では東京ドーム第1号となるホームランを打つ。しばらくは不振の原辰徳に代わり4番を任されるなど好調を維持していたが、6月13日の阪神タイガース戦で久保康生から指に死球を受けて骨折してしまったことで、残りのシーズンを棒に振った。チームの最終戦の10月4日の横浜大洋ホエールズ戦には、尊敬する王貞治監督のラストゲームを見届ける為にベンチ入りしていたが、試合には出場しなかった。
1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し[注 1]、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制であったため規定打席数は試合数×3.1の403打席数であった)に到達した時点で打率4割を超えていた。最終的な打率は.378まで下がり[2]、4割打者誕生はならなかったが、首位打者を獲得した。96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功の89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人の球団歴代最高打率である。首位打者に加え、.449で最高出塁率の二冠のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。