名前を隠して楽しく日記。
女性がどんな身体だろうが、わざわざ好き好んで男とセックスをしない限りけして妊娠しないという事実を透明化して
🐊「オッ…オレに聞かんでくれえッ‼️‼️‼️」
この2店に集約されると思う。
どちらも改良は出来るはずである。
テレビ広告のように見ている人を楽しませる、心地よくさせる、商品や企業そのもののイメージを良くする、そういうふうな広告を作れば回避できる。
かつて日本のCM制作業界がアメリカのテレビCMはレベルが低いと見下していたことがあったが、WEB広告はその思想が米国発の極めて合理性のみを追求している構造からすべてのCMにゆとりがない。
🐊「オレもそうだ」
🐊「ひ弱なつまらん生き物だと思ってた・・」
🐊「人間は強い・・!そして優しい生き物だ!」
🐊「ともに力を合わせ喜びと悲しみを分かちあうことができるんだ」
🐊「オッ…オレに聞かんでくれえッ‼️‼️」
🐊「オッ…オレに聞かんでくれえッ‼️」
ダッフンダ
映画『スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家、三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないからである。
もっとも説得力がない人物像は、主人公のスオミである。何故スオミは結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求の狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷のヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。
本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しかし脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である。
なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミの人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプが文学史やフィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかしスオミのような人物のステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。
この映画と比較すると、ドラマ『地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウスの青柳隆史は何故港区の土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中の場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。
個人的には、フィクションには説得力が重要と考える。フィクションなのだから、エキセントリックな有名文学者や超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃや超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。
糖尿の人って尿だけでなく脇も甘いの?
飽きられたんだよ。