2011年12月27日の日記

2011-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20111227154936

その結果、「順序があってないから」という理由で一律に×を付ける行為は「確認した」とは言わない。

もちろん元々の発端のケースでは本当に一律に×を付けたのかは不明だし、その順番で書いた意味をきちんと子供に確認して、掛け算の意味小学校的なルールのことではない)を理解してないことを確認した上で×としたなら何も問題ないと思う。

「この漫画が酷い!2011」ってなんで無いんだろう

なめくじ長屋みたいなカルトエロ劇画特化サイトじゃなくてですね、

もう少しメジャー世界寄りで、「今年酷かった漫画」「ほんとにダメ漫画」みたいなのを見たいんですよね。

そんなネガティブなもん欲しけりゃ自分で書けって言われるかもしれないけど

最近あんまり網羅的に漫画読んでないから書けないの。


今年もアホみたいに漫画読んでて

しかも暇が余ってるブロガーさんとか居たら、

書いてくれないかなあ「この漫画が酷い!2011」。

今年のワンピースはかなり上位に入るよね。

http://anond.hatelabo.jp/20111227152328

その確認をテストでしてるんじゃん。

「正しい理解」かどうかをさ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227151822

教師は「確認」して「指導」するべきであって、確認するべきは「指導要領のルールに従っているか」ではなく「正しく理解しているかであるということ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227151150

から、生徒の理解は間違いないと、教師は信じなさいって事でしょ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227150607

からそれは正しく指導すれば割り算なんか知らなくても「直感」で理解できることだろって言ってるわけだ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227145958

小学二年生がそのゲンミツな単位を式の欄に書いててくれたら、教師も楽だろうね。

http://anond.hatelabo.jp/20111227145627

はぁ・・・

そりゃまぁ、正しい理解の結果は正しいだろうね。

http://anond.hatelabo.jp/20111227145529

まだ分かってないな…。

抽象化した式」とやらにも単位は厳密にある。

3[個/皿]*5[皿]=15[個]

だ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227143515

抽象化してしまった式で単位を問うのは本来バカバカしいが、小学二年生から単位を考えるのは大切だよ。

でも、単位抽象化されているから、数の順序が入れ替わったとしても、理解が正しければ問題ないよ。

その理解を教師はエスパーして、○を付けろって話なんですね。

http://anond.hatelabo.jp/20111227145125

まぁ「オブジェクト指向」くらいでもいいかも。

モナドを理解してないプログラマはクソ」とかそういうレベルでないことは確か。

http://anond.hatelabo.jp/20111227143918

うんまぁ、「fizzbuzz」と同レベルと思われてる時点で、教師は大変だわ。

あんな給料じゃ安い。

http://anond.hatelabo.jp/20111227132557

前の増田だが。

なんとなく理解を書いてみると。

文章問題から「1皿に3個」「5皿」という個別事象独立して認識できる事

が「感覚」で(その認識のための前提知識を得ている事は自明とする)

その上でその「感覚」が抽象化され記述されたものが、式であると。

なるほど。

上記の感覚によって、「3個ずつ5皿だから15個」と感じ、抽象化したら「3×5=15」になるし、

感覚が「5皿に3個ずつだから15個」と感じるケースは、抽象化したら「5×3=15」になると。

そして、その感覚は当然のように「3個ずつ5皿だから15個」と「5皿に3個ずつだから15個」は同じことだと認識しているから、

「3×5=15」と「5×3=15」は同じこと。

感覚が、そういう物であるとするなら、なるほどある程度の意味は通る。

http://anond.hatelabo.jp/20111227141546

それができない教師はクソだって話だよね。

教師は大変だよね。

はてな風に言うと「fizzbuzzが書けないプログラマはクソ」ってレベルじゃね?

実際に書けない奴も(驚くべきことに)いっぱいいる、という点も含めて。

社長が忙しい会社

ってのは会社として何かまずい状態になっていると解釈できる

http://anond.hatelabo.jp/20111227141546

元々の話は「8人に6本ずつ配る」についての順序の話であって、君の言う「入れ替え」なんて起こってない。

わざとなんだろうけど、話を逸らしてぐちゃぐちゃにすんのはやめてくれ。

http://anond.hatelabo.jp/20111227132557

1皿3個のりんごが5皿分あったら3*5で15個

5皿あって1皿3個ずつりんごを乗せたら5*3で15個

いやいや、そう書いちゃダメだろ。

5皿あって1皿3個ずつりんごを乗せたら「5*3」で15個

3皿あって1皿5個ずつりんごを乗せたら「5*3」で15個

こう書かなきゃ。

皿と個で入れ替わっていても、数の順序も関係ないんだよって話なんだからさ。

そんで、数の並びなんてどうでもいいんやでぇ、ってのを、小学二年生「同時に」教えるのだろ?

それができない教師はクソだって話だよね。

教師は大変だよね。

http://anond.hatelabo.jp/20111227134447

誤答に対してはもちろん個々に対応しますよー

盲目的に従っていると言われるとまさにその通りで謝るしかないのですが、

自分教員になるずっと前から教科書に載っている解法を

個人の判断で否定するのは、現実的にはとても難しいのです。

学級や学年を越えて大きな影響を与えることですから

多くの現職の教員(担任)は、この議論を見ながら

「それを自分に言われても……」とも感じていると思います

今の日本で、消極的自殺には縁がないと言える人がどれだけいるんだろう?

http://anond.hatelabo.jp/20111227120118

そんなことやったって不毛かつ非生産的

増田中学生の頃から何も成長してない証左になるけど。

http://anond.hatelabo.jp/20111227134447

先生たるもの子供の「直感」が正しい「直感」であるかどうかを見極めて指導するくらいのことはして下さい。

「深く考える」と「直感」は相反するものではありません。

それが出来ないからと言って矛盾無意味な複雑化のあるマニュアル盲目的に従うというのは教育者の態度ではないと思います

該当の単元をやってるうちは直感で立式して正しい答えを出せても、

深く考えず直感で立式することに慣れてしまうと

四則計算の文章題がランダムに出てくる学期末のまとめテストで多くの子が撃沈しま

から文章をよく読んで式を立てなさいと指導しています

http://anond.hatelabo.jp/20111227133714

私が経営者だったら誰も会社に来なくてもいい会社を作るけど、

そういうことは実際にやってみてから言いましょう。

せめて実行計画書くらいは無いと説得力皆無。

出勤前に弟や友人や恋人とそして日本について思ったこと

最近日本ってやっぱり狂っていると思った。

なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡り競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。

 

職場はもちろん、親、兄弟姉妹配偶者恋人、友人、あらゆる人間関係安心できる場所が少ない。

もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、

今の日本社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?

 

仕事でつまづくと職場の関係は悪化する。

あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。

実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。

裏で働いているのは利害関係論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。

でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。

しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。

いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分

そして、自分自分の友人や親兄弟恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?

あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。

兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。

だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。

 

社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?

誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」

という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?

そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」

と感じているとしたらしたらどうだろうか?

恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。

この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。

こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒正当化される。

とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、

少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。

 

今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。

社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。

「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。

だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。

そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない

「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。

でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間孤立しなければならないんだろうか?

目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?

実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?

 

僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。

大企業就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。

驚いたことに、留年してもう一度本命企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。

挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。

僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。

 

だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。

共に氷河期就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。

失業きっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。

そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。

彼の失業離婚に心を痛める人間世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいいかのような物言いをするようになってしまった。

 

氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。

今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。

僕の恋人負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。

人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、

ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。

 

綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。

なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するからから足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。

ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。

こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。

綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの

 

今日、二度目の就職活動を始めたという弟にメール使用と思う。

「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。

そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。

彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。

多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。

 

少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。

きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。

そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。

いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。

これだけ厳しい時代なんだから経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。

 

あーしかし、週末も出社かと思うと会社行きたくないなー

http://anond.hatelabo.jp/20101119051301

「出勤前に弟や友人や恋人とそして日本について思ったこと」

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん