はてなキーワード: おゆうぎ会とは
まず、ツーオンアイスが打ち切られた。
その頃、ウィッチウォッチでは「ニコが幼稚園のおゆうぎ会に向けて側転をする話」をやっていた。
ウィッチウォッチの方の物語はまあネタバレにならないように言うと、モイちゃんがガッツポーズを決めるシーンを通して俺はスポーツモノの面白さを強く感じていた。
スポーツモノの面白さは、成長や挑戦を祝福されることにあるのだと。
ツーオンアイスはペアの絆は描けてたし、観客から応援や称賛される光景は描いていた。
でも、氷上にいない誰かが成功を祝福する姿を果たして描けていたのかという疑問がある。
祝福なんだ。
仲間たちは称賛はしてくれたけど、それは同じスポーツで凄い結果を出した奴への尊敬であって、目の前に起きた成功を軌跡とさえ捉えて目を輝かせるようなものではなかったのではないか?
氷上にいた二人はお互いを称え合っていたし、シンクロする自分たちに奇跡を感じていただろう。
当事者という壁を超えて伝わる強烈なエネルギーを読者へと届けるにはその表現では足りないんだ。
SLAM DUNKを傑作たらしめる屋台骨とも言われる「今年の山王はいいぞ」おじさんのような存在が足りてないんだ。
見るものに感動を与える何かがあることを読者の元に届けるための中継地点となってくれるキャラクターが必要だったんだよ。
ツーオンアイスは感動を二人の間で閉じ込めることで強いエネルギーを生み出そうという意思があったのかも知れないが、結局それは読者には届かなかったんだ。
近くて遠い場所で、その姿を見守り祝福し、本人たちよりも強い気持ちで、本人たちとは違うベクトルで感動してくれる誰かが必要だったんじゃないのかな?
ツーだけじゃ駄目なんだ。
もしかしたらいっしょにおゆうぎ会したり遠足とか行ってたかもしれない。
大阪の吹田に昔あった幼稚園で、今は銀行だか駐車場になっている。
俺は親の転勤の都合で年少年中だけしか行ってないから幼稚園のアルバムとかないし、同級生の名前も先生の名前も何も覚えてないけど。
古い木造の建物とか、親が自転車で送り迎えしてくれたりとか引っ越しするから幼稚園で最後の挨拶したりとか、近所の公園に散歩して、帰ってくる時に女の子に泣かされて自分の泣き顔がお店の窓ガラスに映って見えたり、お箸を持つ手はみんな右利きだって先生に教えてもらったのに、食事中、向かい合って反対の子がみんな箸を左に持ってる(彼らは本当は右手で持ってるけど俺から見れば左だから左)と思って慌てたり、庭に置いたプールでみんなで遊んでるのに俺だけ水が怖いから、先生に「水に入って10数えたら出ていいよ」って言われて本当にその通りにしてすぐプールから出たりとか、結構断片的には色々覚えてる。
そこはベッドタウンであることだけが取り柄のしがない町であった。
しいて特産品を挙げるのならのなら、現代の価値基準で言えば圧倒的な勝ち組家庭がモーレツに嵐を呼びがちな国民的アニメぐらいである。
私はそんな都心に近いことだけが拠り所のそこで、そのアニメの主人公たちからは1回りぐらい下の家庭に産まれた。
十二分な中流であった。
私を産んだ時に既に母は40を超えていて、父はそこから更に2歳ほど年を取っていた。
両親の性格は今で言えば大人の発達障害、その血をかけあわせて出産適齢期を過ぎた母体から世界に飛び出した私は、当然のように見えざる発達障害を抱えていた。
物心ついた頃、テレビで見た自閉症特集で「自分はこれをギリギリ回避しただけなのだ」と子供心に嫌というほど感じたものだ。
発達障害からくる情緒不安定、また生まれつきの運動音痴とリズム感の無さが幼少期の私を苦しめた。
せめて産まれたのが3月でなければ……。
持って産まれた才能と産まれた時期によって本能レベルの優劣を植え付けられた幼稚園時代、思い出せる記憶はおゆうぎ会で失敗した結果泣き出して最後には小便を漏らしたことだけだ。
他の記憶はどうでもいいものと辛いものしかないので忘れてしまったが、一番辛い記憶は忘れきることが出来ていない。
小学校に上がってからは、持ち前のコミュニケーション不全と癇癪持ちにより友人を作りかけては次々に失っていった。
ただ、両親が共働きの鍵っ子で、ゲームや玩具だけは持っていたため、それを目当てに厚かましい連中によく家を遊び場にされていたことを覚えている。
私にとって人と一緒に遊ぶことは食い物にされることだった。
結局彼らとの間に友情が芽生えることもなく、クラスで班分けがあると決まって彼らは本当の友人たちと群れあい、私は余り物のグループにいた。
同じグループにいる者たちは、今思えば全員が発達障害だったのだろう。
その顔つきは目がつり上がってこそいないが、うっすら自閉の色に染まっている。
スポーツは苦手だった。
ゲームも自分で遊んでも家をたまり場にしている連中よりうまく出来ないことにイライラしがちだった。
それで暗記が好きな子供だと勘違いされたのか、学校の教師は私に自信をつけさせようとよく電車や動物の名前を答えさせようとしたが、私は物についた名前に興味はなかった。
科学や論理に基づいてどういう事が起きているのかが好きだったのだ。
その理由は結局の所、生まれつき物覚えが悪い自分でも、名前を覚えなくても概念だったら分かるし、テストで出るときも穴埋めの周りにヒントが沢山あるので昔の偉人の名前なんかよりはずっと覚えやすいと感じたからだろう。
私の中にただ一つ人より出来ると感じられるものがいつの間にか産まれていた。
そんな私を見て、両親は中学受験を勧めた。
勉強が好きだと思ったのだろう。
新しい環境で、勉強の好きな同級生と一緒になれば、自閉症じみた我が子にもちゃんとした友達が出来ると信じた両親は、私を塾に通わせることにした。
塾に通うことの条件として私は大嫌いだったスイミングスクールと習字教室を辞めることを提案した。
取引は成立した。
それから私は受験勉強をそれなりに頑張り、それなりに手を抜き、結局暗記が得意でないことで躓き、志望校から2段階落ちる滑り止めの私立に入学した。
中学受験の勉強どころか学校の授業さえ本当に真面目にやっていれば受かれるような学校だったが、親戚や両親は私を賢いと褒めてくれた。
私だけが、自分がいかに努力しておらず、そもそも勉強自体も苦手なのかを思い知らされていた。
そして、同じく受験勉強をする塾の同級生を見ているうちに、自分が得意げにしていた「記憶力が足りない代わりとしての理解力」というも、実際は大したことがないことを嫌というほど分かっていた。
我が子を無事私立へと送り出したと胸を撫で下ろす両親とは裏腹に、私は自分という人間の程度を思い知らされた烙印としてその学校の制服へと袖を通した。
タイトルちぎれてるっぽくて変えたけど、
『「無理して学校行かなくてもいいんやで」と言うと「軽く言うけどよ!!俺の将来どうなるんだよ!!!!」と返ってくる場合があるが、本来ならその状況以前に対策すべきだったんだよ。なので休息フェイズに入るしかない。』
ですね。
ツイッターとかに書けばいいんだけどなんかツイッターで意見言うとなんか超怒られる場合あるからここで。
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夏休み明けが一番子供の自殺数が多いらしいということで、夏休み終了時期になるとツイッターで
「つらいなら無理して学校行かなくてもいいんだよ」「図書館等に避難していいんだよ」
といった発言が多く見られるようになりました。
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それに対して
「そう言うけど将来とか考えると簡単にいかねーんだよ!!他人ごとだと思いやがって!!」
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まぁわかんなくはないけど、
骨折してるし部活休めよと言ったら「練習休んだらプロになれねーだろ!!」っつって骨折した腕で投球練習してるようなもんなんだよな。
無理したところでより悪化するし、プロになるどころかその後の人生全体に悪影響及ぼすだけだし。
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思いつめちゃうと、
「夏休みの宿題をやってなくて自殺」「成績が伸び悩んで将来を不安視して自殺」してしまった子に対して他人事じゃなく思うかもだけど、
それは例えるなら、
「おゆうぎ会で主役を取れなくて幼稚園児が自殺」くらいの…なんというか… そんなんで死ぬなよ…みたいな感じなんだよな。
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お前はそうなる前に少しでも休息をとるべきだったけれど、そうは出来ずに頑張り過ぎてしまったね。
つーか学校って「学校行くのかったりーなー」とか思いつつもまぁまぁよろしくやっていくところであって、
「学校行きたくない…でもここで躓いたら将来が終わっちゃう…。もうやだ!!!!やだよおおおお!!!!」
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「学校行かなくてもいい」という言葉に、特に関心を示さなかったり、大変な子もいるんだろうなと思ったり、まぁ実際サボってるしwwwみたく思うのが健全(?)で、
「不登校になったら将来終わるに決まってんだから行くしかないんだよ!!」みたいなマジギレ&マジレスをしてしまったらそれは赤信号なんだよな。
あとはお前が自分自身の状況を認められるかどうかというだけで。
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「クラスメイトとかが普通に登校してるのになんで俺だけ…」みたいなみじめさや、
「『普通の人生』のレールから外れてしまった!!」みたいな絶望感もあるだろうけど、
【精神ギリギリだけどずっと頑張り続けて新卒で希望職種に就くも半年で精神崩壊してn年間ひきこもり&フルタイムで働けなくなって30代なのに年収150万いかない】
という未来を避けてほしいのが俺の願いなんだよな。
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A.将来のために学校を休めなくても、それで死んだら本末転倒だし、身体と精神ぶっ壊すと超だるいから休もう。
A.休めという助言に対し「じゃあ俺の将来の保障でもしてくれんのかよ!!」みたいな思考・発言そのものが心療内科案件(ソースは俺自身)
A.実際に将来うんぬんを考えると、多くの人の今後の人生に超大きく関わるのは「大学新卒カード」なので、
不登校だろうが、浪人・留年・就職浪人をしようとも、将来やりたいことがあるならそこまでに帳尻合わせるように今休め。
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とは言っても折角休んでも、「大学入る年齢までに治さなきゃいけないんだ」「新卒カード逃したら本当に人生終わりなんだ」
みたく考えちゃうのは良くないから、新卒カードが無くてもどうにかなる将来の夢・目標も候補として考えられればいいですね。
自分の夢や目標が無いなら、他の誰かの夢や目標の手助けが出来れば…… まぁそこまでいったら治ってるようなもんなのかな。
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休息時に自分の将来、夢や目標を考えてみて、破滅的なものしか浮かんでこないときはまだ休息が必要なサインなので覚えておいてほしい。