皮膚疾患?なのか知らないけど、本当に肌色のリアル虹村兄弟の父親みたいな人を見かけた。
髪の毛薄かったせいもあって頭皮までびっちりブツブツができてた。
盆で帰省。父73歳。
OSはXP、IEのデフォルトのホームページはhao123。裏でもろもろのマルウェアが動いて、動作はめっちゃ遅い。ネットに繋いで、クレジットカードで楽天で買い物するのやめて。
彼に必要なのはシルバーさんじゃなくてかまってあげる人だ。普段誰にも相手にされない人間だから増田でブコメが増えて行くのを見てニヤニヤするハメになるんだ。だからどんだけ釣り針がデカくても釣られに行くぞ!うおおおおおおおおおおお!!
何故かブコメではじゃあISは美しいんですねとかいうバカ発言が支持されてて絶望した
なんで一般市民を狙ったテロと戦争の中での特攻を一緒にできるんだよ
本当、過去に命を賭して戦ったすべての兵士をバカにした発言だろこれ
正直これほど胸糞悪い発言も久しぶりだ
家族の為あるいは忠誠から玉砕覚悟で敵に突撃していくってのは、どこの国の価値観でも勇敢だし美しいよ
完全にヒューマニズムが失われてるだろ
正確には2重スリット実験の観測の部分。まったくの素人考えの疑問なんだけどさ。
観測すると異なる振る舞いが~、みたいな内容なんだけど。
そもそも結果を「観測しようとする」行為自体には干渉が起こらないってことになるのか?
足痛い
娘は小学低学年だけど、前作を本当に楽しんでいた。
スプラトゥーン2も非常に楽しみにしていて、誕生日の前借りで買ったくらいだ(プロコンはおまけという名のパパ欲)。
2ではなく前作の方。
何故かと聞くと「新しい方は息苦しいから息抜きにね」と言っていた。
思い当たる節がある。
スプラトゥーン2はやけにマップが狭くて高さがあって敵と対峙する心構えをする前に敵に遭遇するから疲れる。
娘はハートが強いから、買ってもらったスプラトゥーン2を楽しく遊ぼうとするだろう。
だけど、そこはかとない息苦しさを味わうのかと思うと、ちょっとつらくなった。
匿名だから自分の考えをそのまま書く。初めに言っておくが、あくまで自分の意見で、根拠はない。そう考える人もいるのかと捉えてもらえればと思う。
自分は職業柄というか職場柄?障碍者と関わる機会が多い。でも最近障碍者を守ることについて疑問を持ち始めたんだ。職場変えようと思ってる。
某番組では、毎回毎回障碍者を扱うコーナーがある。あれは「レッサーパンダの風太くんが立った!人間みたいで可愛いね!!」と似てるんだよな。自分とは違うと線引きした上の行為で、明らかに障碍者を下に見ている。
自分の幸せを噛みしめる機会というかもはや材料としている印象を受ける。同時に、障碍者は障害を抱えながらも頑張ってるんだよー!という印象操作ともいえる。そういった障碍者を神聖化しようとするはたらきが、より差別を助長する結果に繋がっているのではと思う。
だって平等だ人権だと騒ぎ立てる者がいるわけだが、このようなものを見せられたら「世間は障碍者を特別視している」と思われても仕方なくないか?普段は平等や人権を矛にして、都合が悪くなったら障害を盾に取る。それは卑怯ではないか。同じ土俵には立てないが立たせてくれと懇願しているのと同じだ。無理難題を突き付けられているのだ。
メディアは障碍者の味方だからだ。そしてメディアによって人間は死にかねないからだ。私はそういった社会全体の障碍者は守る存在!守らない奴は心ない人間のクズだ!というような風潮はよろしくないと考える。私たちにだって人権はあるはずだ。平等であるはずだ。
差別は人間としては正しくない行為なのかもしれない。けれど生き物としては至極当然の行為だと思う。そして、人間は人間である以前に生き物であるからだ。
そして、「守る」という行為はコミュニケーションの上に成り立つものだと思う。守る側が守に値すると思うから守る。それに対し、守られる側が良しとするなら「守る」は成立する。
もしそこで、守られる側が「そんなものは必要ない」と思っていれば、守るはただのエゴに成り下がる。
ただ盲目に障碍者は守るべき!と思う人には、守るということは他の何かを犠牲にする行為だということも念頭に置いてほしい。
守るたびに次々と高度なことを要求されては、この関係は長くは続かないのだ。
弱さを武器にした時点で、それは弱点ではなくなるのだ。
当事者の方々は、自分の子供が健常者だったとしたら、それでも今のように考え、行動できただろうか。できたとしても重さは違う。
つまり人間は自分から逃れることはできない。主観なしには生きられないんだよ。
迷走してきたから終わる。
餓鬼大将は度々ひどく意地の悪い事を言ったし、家の子を仲間外れにするように他の子供を誘導していた
他の子供の母親は仲間外れにするな!とすぐに怒りに行ったが、餓鬼大将の母親は近くで意地悪を言っていても無視だった
子供が丸くなって泣いているのを見るたびに、思うだけで人を殺せたら楽なのになと思った
先日久しぶりに餓鬼大将に会った
ザマァ
と思った自分に嫌な気分になった
8月12日16時半から戦後70年SPとして放送されたエピソード「わすれた森のヒナタ」が再放送される。
http://www.nhk.or.jp/anime/ojaru/tokuban03/index.html
まず前提としておじゃる丸という作品のもつ空気感の凄さを理解してほしいってのはあるんだけど、その平和な作品世界に「戦争」というテーマをぶち込んで、それでいてアンバランスになることなく、とてつもなく真面目に戦争というものを考えさせる、本当に異色の名エピソードに仕上がってるので、おじゃる丸という作品をちょっとでも見たことがある人はぜひ見てほしい
この世界では自分を含め様々なプレイヤーが入り乱れ自己意思で行動している(と思われている)
この世界には物理法則などのいくつかルールが存在するが、実は1つあまり知られてはいない法則がある。
この世の中には人生がうまくいく人間とうまくいかない人間がいる。金持ちや貧乏人、恋愛や仕事、趣味においてもそうだ。
このことについて、世の中では運がある運がないと表現される。
運については何も解明されていない分野であるが、私はある事実にたどり着いた。この世は複雑怪奇な乱数でできているのだ。
例えば宝くじ。宝くじには確率の高い当たる販売所が存在する。また何度も高額当選をする人間がいる。これはなぜだろう。
それは当たった人間によって幸運を招くお守りであったり、神社への参拝と表現される。
何度お参りをしたか、どんな位置の神社を参ってどこの販売所で買ったか、そういう一見無駄にも見えること。
それはゲームでいうフィールド歩数やコマンド入力中の無駄なキー入力、起動から何秒でのエンカウントのような乱数調整に当たるのだ。
これらは事実上、無駄な行動によって当たるという結果に近付けているのだ。
他にもある。
風水と呼ばれるもの。これもどこに何を置くか、どの方角に何を配置するかによって幾億千ある乱数によってできた未来の可能性を少しだけ絞っているのだ。
ルーチンワークと呼ばれるものもそうだ。五郎丸選手のポーズや前田健太の体操で一時期話題になったが、スポーツ選手は試合時だけでなく日常生活においてもルーチンワークで縛っている。
試合を練習に近づけることや験担ぎ等の意味が取り沙汰されていたが、本人たちがどこまで意識しているか分からないがこれも乱数調整なのだ。