はてなキーワード: マーモセットとは
ふむふむ 好きとか嫌いといった感情の起伏を( ? )な価値基準で良しとしたり悪しとしたりするのはやめておけということだな
その結果は価値基準である( ? )が流動的だったり不安定だったり他人との共有や理解が簡単ではないからだろうな
無意味に足掻いて周囲を泡立てるのはたしかに何にしても見ていて心地の良いものではないな
たしかに端的にそうとしか表現の方法をもたない人間からはそういう意見がきているな 本当にとは真にダサいとか本当のデザインという基準からなのか
それは最初の( ? )ではないのか?
何理論において何学説において ダサいは本当ではない デザインが悪いは本当かどうか という言及に至るのか 本当にそうなのか とは?
「ダサい」といっているのは実際(本当・真に)は「ダサくない」ということになってしまうのか? それは( ? )に至ってしまう導入だよな・・・ 心配だ
「エッジがきいてない(風景と同調して取得したい一番大事な情報(金額)の認識に直接的でない)」とか
「デザインが悪い(肖像画の人物特徴として髪型や顔のパーツや衣服が印象に残りにくい)」だとしたら
( ? )のデザイン理論における真のカッコイイ本当のデザインはそこなど取るに足らない もっと大切な目標があるということなのだろうか
は? 良し悪しで語ってる・・・?
いや良し悪し は良いのだろう 良し悪しで好き嫌い だからな・・・
好きとも嫌いとも言ってないよな・・・
好きか嫌いかで それが良いか悪いかというのも 好きとも嫌いとも言ってないからな・・・
セーフだろう
その良し悪しで語ってる「良し」としているのは何なのだ?
とりあえず 優れている は解らないけれども 好きとも嫌いとも言ってはいない セーフだ
いや知らん わからん 目的が違いすぎて「ピグミーマーモセットはエゾシカとは違う」と言われても そうだ としか言えない・・・
「そうだ!」と言わせるためか そうなのか?
最新のサービスがそこにつまっているぞということか 前述をただ置き換えているだけだが お金は未来をひらく そうだ たしかにそうだ
お金がひらく未来と デザインの先進性とかけているのか それはまったく機能と視覚効果に関連はなく 無関係だが 大喜利的にはつながってる
その単純な理由がまったくわからん 逆説的につなぐことで「こんな簡単なこともわからないのか?」という文脈にしているのか?
工業デザインは機能性ありきなのでお札は四角くて紙だ それ以上のなにを求めるのだ単純に 理由として ということなのか?
たぶん古いファッションや演技の方法や工業製品の外装などは流行でないからダサイ(その時点において機能的に直観的でない)とは言えるそれか?
自動車が円盤の形をしているなどダサい(現在においては走行機能とおよそ関係ない形状をしている)とか
ロボットがもっさりしてダサい(およそ人の機能を果たすべき機械が人の形をしていない)など
「時間を経てダサイ」はある
しかしファッションは一巡りしてきたり 半世紀以上のおさがりがカッコよかったりもする
家電も機能とおよそ関係ない形状が「(ダサさが)かっこいい」場合もある 装飾としての無意味さが機能についているという点においてだ
工業製品もおおよそ機械プロセスはかわらないだろうけれども結局商品のバリューを高める「外装(無意味な部分)」の刷新である部分はあるので
機械の役割自体が劣化しない限りデザインの「一周まわってダサい」はそう多くはない気がするが・・・ それは素人考えからだろうな
なつかしいレトロなお札は「ダサくてデザインがいまいち」なのだろうな
聖徳太子の絵だったり500円札だったり 小判だったり和同開珎などはダサいのだろう あんなのお金として使うのは恥ずかしいな
・・・いや充分かもしれん ダサくないきがするが・・・ それは俺のデザインセンスが素人で一般人だから デザインを学んだものからいえばわかってないのだろうな
デザインを学ぶと好きか嫌いかで良し悪しを判断しないのだな なるほど
・・・いや一般人の知識がない人間でもそうでなくても それは一概にいえなくないか?
自分の生活をデザインしているという意味では一般人もデザイナな気がするが その良し悪しは好き嫌いで決めてる気がするが・・・
デザイナーもいかに嫌われようと醜いと蔑まされようとも ダサい悪いといわれようとも 良し悪しのために仕事をするのか・・・
タイトルの「好き嫌いを良し悪しで語るのはやめておけ」つまり良し悪しで好きや嫌いというのはちょっとまて というのは
もしかして「良し悪し」とは一見して一般人には理解しがたいが本当の( ? )や真の( ? )には意味や価値があり
それを知らずに直観的に「好き嫌い」というべきではない 嫌いといっているそれにも重要な機能がある ということなのだろうか・・・?
いやまて 良し悪し という機能的な価値ではなくて 個人の趣向の違いである好き嫌いで評価をしてる と言ってないか・・・?
個人の好きとか嫌いという感情は個人の生活デザインにおいて積極的に取り入れたいか 積極的に排除したいか それを基軸にしてるのでは?
それが良くないんだよな
実際ダサくて使いにくいものを作ることで そのデザインとしての効果が産まれうるってこともあるってことだよな?
たとえばダサくて恥ずかしいから現金もったら使いたくなくなる ついため込んでしまう 見たくもないからすぐ銀行にいれてしまう
それを意図してるとかいうデザイナーの思惑が あったりするってことだよな?
個人の感情としてダサイやとかデザインが悪いという感情の隆起は デザインされたものだ ということなのだろうか・・・
そうだな・・・
確かに個人が意見を代表者としてではなく発言する場合は全て個人の意見であり好き嫌いだよな・・・
あえてあなたは何の代表ですかと聞かないことには そりゃそうだよな・・・
個人が個人のライフデザインをするにあたっての監督は個人であるので 個人の用途においては 好き嫌いを表明しても そのデザインで機能的な良し悪しを語ってもよいのではないか・・・?
デザイナーはその個人の行動を誘導するために 貯めたり使うのをためらったりという動作をすることを予見してのデザインをしているわけなので 個人がそうするそう思うという感想を述べるのは
デザインどおりだったかどうかの答え合わせができる瞬間なのであったほうがよいのではないのか・・・?
デザイナーはもうすでに最初からそんなことはわかっているから答えなど合わせる必要もないし使用されてる現場をみる必要もないし 予見ができているので結果をしる必要さえないのか・・・?
おまえら操られてるぞ と
( ? )に入るのは 自分だった ダサいと批評して檻に入れていたのは 自分自身だと そういうことだったのか だったのか・・・?