はてなキーワード: 不経済とは
横だけど、
あんただってそのとき着てる服や髪型で好意持ったり持たなかったり、興味出たり出なかったりするだろ。
それと同じ話でしかないじゃん。
男も女も無数に居るのに、ぽっちゃり好きな男が痩せた女を好きになって「太ってくれ」なんて言い出すのはすごい不経済じゃね?
最初からぽっちゃりした女を好きになるほうが合理的かつ自然なわけで。
つまり、肉付きのいい女を好きな男のクラスタが居たとして、
彼等は"痩せてる女"である元増田を最初から眼中に入れない。顔や性格がアリでもね。
「いや待てよ、付き合ってからこいつを太らせれば」なんて、
そんな改造限界まで考えて好意をもたないっしょ。
それより現時点で肉付きのいい女に惹かれていくわな。
どうでもいいけどそれ絶対健康に悪いぞ。
中国行って「男は仕事、女は家庭」なんて言ったら大爆笑されるよ。
「専業主婦」という言葉が向こうじゃ日本の象徴だからね。まったくもって向こうじゃあり得ない。
それと全体の傾向と個々人の分類は別よ。
男は背が高い、女は背が低い。そりゃそうだ。統計取ればね。
でも君より背が高い女なんて腐るほどいるだろうに。
ただある種の効率の問題として、例えば男用の服を大きめに作っておいて、女用の服を小さめに作っておいて、それを大量生産すれば多くの男にフィットし、多くの女にもフィットするというのはある。その影で小さい男にはぶかぶかで、大きい女にはキツキツになる。
「個々人にフィットするものを作ろうとするとコストがかかりすぎるので各1種類しか作りたくない」という場合には有効な分類だ。
しかしこのときの平均から離れている人たちというのはけっこういるんだ。身長をサンプルに取れば、男女の平均の差というのはそんなに違いはない。そして上限と下限のばらつきはかなり広い。
さらに性別フィルターだけでなく人種民族フィルターを追加すると状況がだいぶ変わってくる。日本人男よりもオランダ人女の方が平均身長が遥かに高いのだ。サンプリング次第で結果が変わってしまうのが性別フィルターの弱み。つまりそれは男女差というものが、あるにはあるもののそれほどすごくかけ離れているわけではないことを現している。
地球の男の平均身長が3メートルで、女が2センチくらいで、しかもそれぞれ平均からのばらつきが少ないということであれば、日本人の男が2メートル70センチ平均、オランダ人の女が3センチだとして、人種民族フィルターをかけても性別フィルターが有効なままになる。ところがそんな風にはなってない。それほど平均値が近く、またばらつきが大きいのだ。
だからこういうのは学歴フィルターみたいなもんで、いいところのほうがいい人材率がある程度高く、そうでないところはいい人材率が低いとすれば、個々人のばらつきにはこの際目をつぶって、採用時のコストがかからないやり方で選別するためにこのフィルターを採用しよう、という。コスト的には間違いじゃない。ただそれをそのフィルターで分けられた各グループの構成員全員に当てはまる特徴だと思うと大間違い。
つまり、個々で見た方が(「個々で見る」というのはかけるフィルターの数を増やし、フィルター一つ一つの得点失点の割合を減らして総合点で見るという行為)おおざっぱに見る(フィルターの数を減らす)よりも不経済であるという場合には増田の言っていることが正しいというだけなので、そういうケースが世の中にはけっこうあるにしろ、結局は「ケースバイケース」としか言えないのであった。
☆
大事な人との死別はよほど特殊な生き方をしてきた人でなければ通る道だろう。
人が死ぬと葬式をして墓に入る。
それに対して少しばかり思うところがあるので殴り書く。
葬式は誰しもがそれを必要としているわけではない
葬式は生者が死者との決別をするために行うもの。
世間体だけの為にやるとしたらそれは余りにもばかげている話。
霊なんて今時大真面目に考えてる人間なんて殆どいない。
経をありがたがる人間は老人のみ。
100万単位で金が飛ぶ。
葬式をしなければ10万程度かそれ以下で済む。
墓は本当に必要か
墓とは生者が生者の心の中の死者と語らう場所である
形見等で代用することは出来ないのか。
そもそもモノや場所にとどめる必要があるのか。
墓とは死者が眠る場所である
あなたは墓に入りたいか
死んで思い出してもらえないと悲しむ意識は死んだときには既に無い。
仮にあったとしても放逐されている墓は日本中に溢れている。
めんどくさくなったから終わり。
死者が生者の足をひっぱるってどうなの。
死んでからも足をひっぱられるのはごめんだ。
仮に生者が必要だと思って葬式やら墓を用意するのであれば必要な人が用意すれば良い。
しかし必要がないと思える人間にそれを強要するのはどうなんだろう。
そういう惰性に流されるのは物凄く嫌。
飲み会の一杯目はビールだ!って言い張られるのと何一つ変わらんのだよ。
好きにさせろ。
なんというか、納得できる腐女子論が少ないのは、腐女子にもいろいろいるっていう根本的なことがわかってないからだと思う。
やおいとBLはまったく違うし、「腐女子」がライフスタイルである女性と、「腐女子」であることが趣味である女性とは、スタンスが全く違う。
ベン図にするとかぶってることが多いから、その違いが捨象されてしまうんだろうけど、本当は全く別個に語るべきカテゴリにいる人たちをいっしょに論じているから訳がわからないことになる。
根拠のない脳内妄想による腐女子論をネットにぶち上げることは全く構わないし、それをすることは日本人に普遍的に与えられている権利なのだからむしろ自由にすべきなのだけれども、もし今から腐女子論を書こうとしている人がいたら、できればいま自分が書こうとしている腐女子はどの腐女子なのかってことを文頭で明らかにしてほしい。
そうしたらきっと返ってくる反論も的を射たものになって、結果として有効な議論になるんじゃないかなあ。
そもそもカテゴライズが間違ってんだよっていう反論を延々受け続けるのは不経済だし、論者が望むことでもないよね。
まあ、フィールドワークをしていない文化人類学者の論文がふつう鼻にも掛けられないのと同じで、ある文化について書くならその文化をよく知っておくことは当然。
民主党は少子化対策と銘打って大規模なばら撒き(年換算5兆円以上)をするようだけど、そもそも少子化すると何がまずいというのか。おそらく労働力不足といいたいのだろうけど、安価な労働力を移民政策とかで引っ張ってくるよりは産業ロボットの拡充による代替を目指すのがいい。もちろんメンテナンスなど運用コストもかかるので過渡期はむしろ不経済になるだろうけど、新しい産業のタネにもなりえる。
フランス人も期待している http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2009/07/blog-post.html
昨今の環境指向のおかげでハイブリッドカー&電気自動車の開発が進んでいるのは追い風になる。これら環境対応車を実用的にするためにはモーターや二次電池の性能向上が必須であり、その技術はそのままロボット産業へ転用できるからだ。
ロボットの運用先を飲食店業や介護の現場へムリヤリにでも広めていって需要を生み出すことが政府のやるべきことなのではないかと思う。それこそ公共事業として。環境対応のクルマといえども、長期的には先細りの市場であり、その先をどうするかを見据えて税金の使い道を考える必要がある。
いわずもがな日本は産業ロボットに関しては相当の世界シェアを誇っているわけだが、そこにはキリスト教的な道徳観により欧米が参入しにくいということも絡んできている。これは日本にとっては明らかなアドバンテージであり、こういったところを狙って新しい産業を興さない限り国際競争力の向上は望めないのではないか。
G8にオブザーバーとして招かれた中国が、SDRの貿易通貨化を主張するという話である。
SDR(special drawing rights)は、ユーロ、円、ポンド、ドルの4通貨による通貨バスケットと言える。
この合成通貨であるSDRを、実在する貨幣と同様に使えるようにしようというのが、米ドルを基軸通貨から追い落とす中国の次の狙いとなっている。中国は、SDR建てのIMF債を購入することで、IMFの帳簿上にバッファーを作り、外貨準備機構へと切り替えようとしているのである。
SDRが最初につくられた時は、金兌換であった。金の生産量と経済の発展とのアンバランスから、金兌換が不可能になった時点で、国際的な不換紙幣制度を作ることは、不可能となっていた。というのも、不換紙幣制度を支えるのは税収であり、国民を持たないIMFのような国際機関が不換紙幣を発行しても、その裏づけが存在しないのである。
複数の不換紙幣を合成したSDRにおいても、同じ事が言える。IMF債には金利がつけられないのである。もし、金利をつけるのであれば、SDR建てでの貿易決済に対して、一定の比率で手数料を徴収し、それを金利に充当するという手段が必要になる。その手数料を支払ってでも、SDR建てで決済したいという動機がなければ成立しない話なのであるが、中国は、米ドルを基軸通貨の地位から引きずり落とすという目的があり、アメリカの金融機関から貿易決済の実務を取り上げる為に、SDR建てでの貿易決済が実現する事が重要となっている。今の所、SDRはユーロ、円、ポンド、ドルの4通貨による合成通貨であるが、ここに人民元を加えるというのが、次の狙いとなる。
IMFが国際決済機能を持つ金融機関となるというのが最初の前提となるのだが、この決済機能は、国家間の資金移動においてIMFを一枚噛ませて、しかも余分な手数料を支払うという話になる。
通貨とは、一般受容性によって通貨足りえている。人は、通貨を欲しがるのではなく、それを使う事によって入手できるモノを欲するのである。SDR払いでモノを売ってくれる人がいなければ、SDRを幾ら持っていても何の役にも立たない。
SDRが通貨として機能するとしても、需要の少ない通貨は2way-priceのスプレッドが広がりやすく、流通性にかけるばかりか、交換時のレートが悪くなり、不経済となる。
商売には、買い手が強い時期と売り手が強い時期とがある。買い手が強い時期ならば、SDR建てだろうが人民元建てだろうが、どんな通貨でも取り引きを強要できるが、売り手が強い時期には、売り手が指定する国家の通貨でなければ、取り引きが出来なくなる。
米ドルが基軸通貨足りえたのは、ドルポンプとしての日本が存在したからであるが、SDRが基軸通貨になるには、どこの国家がポンプとなるのであろうか。
中国がそれを目指しているのは理解しているが、山塞品と不良品ばかりの中国製工業製品が世界中の人々の物欲を刺激する商品になるとは、考えにくい。それに、それが出来るのであれば、人民元を基軸通貨にしようとするであろう。
SDRの貿易決済通貨化は、米ドルやユーロで大火傷した経験から始まっているのであろうが、その海外資産も、元をたどれば、グローバリゼーションによって、アメリカや欧州に輸出できるようになって手に入れた利益である。
買い手と売り手の力関係を、権力によって管理・強制するというのが共産主義であり、買い手も売り手も努力しなくなり、人々は管理・強制する側になる為だけに努力するようになり、物質文明が衰退するのが共産主義の欠点である。
外部から技術が安価に供与されるという状況が無い限り、共産主義は長続きしないのだが、いったい、中国は、どこからパクり続けるつもりなのだろうか。
グローバリゼーションの終結を告げるG8で、グローバリゼーションの継続と貿易の国家管理、外貨取り引きへの定率課税を訴える中国の空気の読めなさは、清朝時代から変わっていないようである。
G8にオブザーバーとして招かれた中国が、SDRの貿易通貨化を主張するという話である。
SDR(special drawing rights)は、ユーロ、円、ポンド、ドルの4通貨による通貨バスケットと言える。
この合成通貨であるSDRを、実在する貨幣と同様に使えるようにしようというのが、米ドルを基軸通貨から追い落とす中国の次の狙いとなっている。中国は、SDR建てのIMF債を購入することで、IMFの帳簿上にバッファーを作り、外貨準備機構へと切り替えようとしているのである。
SDRが最初につくられた時は、金兌換であった。金の生産量と経済の発展とのアンバランスから、金兌換が不可能になった時点で、国際的な不換紙幣制度を作ることは、不可能となっていた。というのも、不換紙幣制度を支えるのは税収であり、国民を持たないIMFのような国際機関が不換紙幣を発行しても、その裏づけが存在しないのである。
複数の不換紙幣を合成したSDRにおいても、同じ事が言える。IMF債には金利がつけられないのである。もし、金利をつけるのであれば、SDR建てでの貿易決済に対して、一定の比率で手数料を徴収し、それを金利に充当するという手段が必要になる。その手数料を支払ってでも、SDR建てで決済したいという動機がなければ成立しない話なのであるが、中国は、米ドルを基軸通貨の地位から引きずり落とすという目的があり、アメリカの金融機関から貿易決済の実務を取り上げる為に、SDR建てでの貿易決済が実現する事が重要となっている。今の所、SDRはユーロ、円、ポンド、ドルの4通貨による合成通貨であるが、ここに人民元を加えるというのが、次の狙いとなる。
IMFが国際決済機能を持つ金融機関となるというのが最初の前提となるのだが、この決済機能は、国家間の資金移動においてIMFを一枚噛ませて、しかも余分な手数料を支払うという話になる。
通貨とは、一般受容性によって通貨足りえている。人は、通貨を欲しがるのではなく、それを使う事によって入手できるモノを欲するのである。SDR払いでモノを売ってくれる人がいなければ、SDRを幾ら持っていても何の役にも立たない。
SDRが通貨として機能するとしても、需要の少ない通貨は2way-priceのスプレッドが広がりやすく、流通性にかけるばかりか、交換時のレートが悪くなり、不経済となる。
商売には、買い手が強い時期と売り手が強い時期とがある。買い手が強い時期ならば、SDR建てだろうが人民元建てだろうが、どんな通貨でも取り引きを強要できるが、売り手が強い時期には、売り手が指定する国家の通貨でなければ、取り引きが出来なくなる。
米ドルが基軸通貨足りえたのは、ドルポンプとしての日本が存在したからであるが、SDRが基軸通貨になるには、どこの国家がポンプとなるのであろうか。
中国がそれを目指しているのは理解しているが、山塞品と不良品ばかりの中国製工業製品が世界中の人々の物欲を刺激する商品になるとは、考えにくい。それに、それが出来るのであれば、人民元を基軸通貨にしようとするであろう。
SDRの貿易決済通貨化は、米ドルやユーロで大火傷した経験から始まっているのであろうが、その海外資産も、元をたどれば、グローバリゼーションによって、アメリカや欧州に輸出できるようになって手に入れた利益である。
買い手と売り手の力関係を、権力によって管理・強制するというのが共産主義であり、買い手も売り手も努力しなくなり、人々は管理・強制する側になる為だけに努力するようになり、物質文明が衰退するのが共産主義の欠点である。
外部から技術が安価に供与されるという状況が無い限り、共産主義は長続きしないのだが、いったい、中国は、どこからパクり続けるつもりなのだろうか。
グローバリゼーションの終結を告げるG8で、グローバリゼーションの継続と貿易の国家管理、外貨取り引きへの定率課税を訴える中国の空気の読めなさは、清朝時代から変わっていないようである。
日立コンサルティングという会社がある。日立製作所100%出資の戦略子会社という位置づけだ。戦略子会社の定義は、しかしながら、おそらく一般化できる類のものではないと思う。日立コンサルティングのそれは、投資案件も積極的にこなすという意味である。投資案件なので、今後の継続案件獲得を目指した赤字受注もいとわない、と言えばわかりやすいだろうか。
かつて、IT系公共事業の「1円入札」が問題になった。日立製作所も、他ならぬそのプレイヤーの重要な一角を占めていた。1円入札とは、言うまでもなく、今後の継続取引を確保するための戦略だ。いったんシステムを構築した上で自社仕様に「ロックイン」してしまえば、あとは保守運用などの要件を別口で、かつ随意契約で獲得し続けることができるという、ベンダにとっては実にありがたいエコシステムがあった。
そうした投資案件は、日立製作所をはじめとする巨大コングロマリットにとってはまさに「お家芸」であった。そのお家芸の矢面にいきなり立たされることになったのが日立コンサルティングである。
日立コンサルティングの設立にあたっては、現・製作所社長の古川氏が直々に音頭を取ったことがよく知られている。元ベリングポイント会長のポール与那嶺氏を招聘、トップに据えた。この時点で、日立製作所とベリングポイントの間に過去どういうビジネス関係があったかを推し量ることは可能かもしれない。とはいえ、それは皆さんにお任せする。
日立コンサルティングは、国内に拠点を置く数々のファームから熟練コンサルタントを呼び集め、人員規模的には順調な成長を見せた。しかしながら、与那嶺氏が籍を置いていたベリングポイントのような、熾烈な市場競争をくぐり抜いてきたプロフェッショナル・ファームの文化と、日立製作所のロックイン式お家芸のそれとは、そもそも相容れるものではなかった。
そんなとき、日立コンサルティングという組織の中でどういう化学反応が起きたか。それはいわば「易きに流れる」というものであった。元エントリに触れられているように、本来顧客に対する十分な説明(情報開示)を、しっかりとしたドキュメントとプレゼンテーションをもち行うというコンサルタントの強みは損なわれ、日立製作所式の高コスト・ソリューションの提案作業に明け暮れる日々が続くこととなった。
コンサルタントの中には、そうした流れに異を唱える者ももちろんいた。自分は日立グループの豊富なリソースを自在に組み合わせた業界最強のソリューションを提供できるという期待を持ちここに入ってきたのに、ソリューションやコンサルティング部隊をそれぞれ抱える日立製作所をはじめとするグループ企業各社との調整に常に腐心せねばならない不経済はどうにかならないものかと疑問を持つ者もいた。
しかしながら、日立ブランドという、日本有数のコングロマリットの代弁者へと既に身をやつしていた上級コンサルタントは、もはやグループの、あるいは自己の地位を守るための理想をぶつ存在でしかなかった。
こうして日立コンサルティングという会社は、良くも悪くも、日立というブランドを背負う御用聞き役を担い、そしてその役割に失望したコンサルタントたちは、続々とそこを離れることとなった。
なんか「カゴにみかんを盛り合わせる」しか出来ないと思われるのも癪なので
いくつかレシピをご開帳
1) 生卵を醤油でまぜる
2) じゃこをごま油で軽く煎る
3) ネギを刻む
4) ご飯に123の順番で載せる
( ゜Д゜)うまー
コツは卵と醤油をちょっと高級品(6個200円とか)にすること
ほうれん草のおひたしも添えれば栄養バランスも良いし満腹できる。
1) トマトピューレ(1缶500g)を水で2倍に薄める
2) コンソメと塩を投入
3) 点火
4) 鶏の胸肉(500g)を一口サイズに切る
軽く切った肉を水にくぐらせる
5) アスパラ数本を1/6に切る
8) しばらく煮る
9) 肉に火が通ったら、タイム、バジル、粗挽き胡椒を適量振りかけて完成
10) 付け合わせにフランスパンを用意する
スープにパンをひたしながら食うと( ゜Д゜)うまー
コツは水にミネラルウォーターを使うこと、水道水だと風味が失われる。
後、パン切り庖丁はちゃんと買っておけ
1) 角煮用ブロック(500g)を準備
2) 塩水にくぐらせる
3) 塩をすり込む、お好みでニンニクペーストもすり込んで良い
4) ターサイを適当に切る
5) 鍋にターサイを敷いて、その上に肉を置いて、蓋をする
6) 点火
7) 火が通ったら胡椒をかけて完成
( ゜Д゜)うまー
ターサイの代わりに青梗菜でも良い
野菜に油がしみすぎると嫌な人は野菜と肉を少し離した方がよいかも
圧力鍋があるとうまく作りやすい
鶏肉でもできる。鶏皮をバーナーであぶると本格的になる
品数を増やすと材料のあまりが発生しやすくなって不経済だし
個別の品に行き届かなくなるので味が落ちる。冷めやすいしね
あっという間に反応がついてびっくり。↑を書いた者です。簡単にお返事。
「愛とは最初からそこにあるものじゃなくて、二人の関係性の中で育てていくもの」
非モテでない多くの人達は「真実の愛とは?」とか「本当に惚れるとは何だ?」とか、そんな事最初から沢山並べて葛藤してるんじゃなくて、きっかけは男女とも「なんとなく」だったりするんですよ。
増田氏は不純に思うかも知れないけど、彼らはそこからスタートして関係性を構築していくんです。
仕事で言うなら最初から天職というものが存在しなくて、やってみてはじめて仕事に夢中になれるのと同じです。「好きを仕事に」じゃなくて初めてから仕事を好きになるんです。http://anond.hatelabo.jp/20080714214053
私は「好きを仕事に」を実現した人間なのであまりそのたとえをよく理解しているとは言い難いのですが、そこまで簡単に割り切れる人は割り切ったらいいんじゃないですか。結構みんなが気軽に付き合ってるのは実感として知ってるし。単に、私は割り切れない、そういってるだけです。器用なみんながうらやましいけど、そんなに器用になれないんですよ。
抽象論並べて葛藤してるんじゃないんですよ。私が長い間特定の相手に惹き付けられて離れられないというのは現実なんです。それを諦めて適当に誰かと付き合おうったってできるはずがない。というか、無理にでもそうしてみようかと思ったけどどうしてもできなかった。結果的にはそんなことをしたらみんながつらい思いをしたと思うからそれでよかったと思ってますけど。
非モテ問題でややこしくて面倒なのは、これを論じる自称非モテの男性って決まって
・自分がモテないのは自分の持って生まれたハンデキャップのせいである。
生まれながらに優位なポジションの奴らと互角にやり合えというのはあまりに不平等だ=恋愛ゲームに参加したくない。
・3次元の女性には魅力が無い、非効率的だ、不経済だ=モテたいと思わない、と言う。
・恋愛してる奴ら(できる奴ら)はズルい!したくてもできない奴らがいるんだぞ!と言う。
・せっかく恋愛できる立場にありながら誠実な恋愛をしない連中、誠実な結婚生活を歩まずに子供を痛めるような連中を徹底的に許せない。
とかetcetc、言ってる事メチャクチャでブレブレなんだもん。
それを同時に主張してる人なんて私は見たことありませんが。
非モテ問題でややこしくて面倒なのは、これを論じる自称非モテの男性って決まって
・自分がモテないのは自分の持って生まれたハンデキャップのせいである。
生まれながらに優位なポジションの奴らと互角にやり合えというのはあまりに不平等だ=恋愛ゲームに参加したくない。
・3次元の女性には魅力が無い、非効率的だ、不経済だ=モテたいと思わない、と言う。
・恋愛してる奴ら(できる奴ら)はズルい!したくてもできない奴らがいるんだぞ!と言う。
・せっかく恋愛できる立場にありながら誠実な恋愛をしない連中、誠実な結婚生活を歩まずに子供を痛めるような連中を徹底的に許せない。
とかetcetc、言ってる事メチャクチャでブレブレなんだもん。
結局どうありたいのか判らない。結局自分はモテたいの?モテたくないの?
ちやほやされたいの?放っといて欲しいの?
ぶっちゃけ自称非モテでそれを人前で堂々とクネクネできる人は、その辺の答えをしっかり持ち合わせていないように思える。
結局自分がうまく言ってない理由は他人にあって欲しい、他人はみんな俺以上に愚かであって欲しい。俺だけが冴えない人なんてあたし認めない。
その程度の気持ちしかなくて、手当たり次第に適当に場当たりで正しいようにウダウダ言ってるから、トータルで見るとメチャクチャになってる。
ように思う。
それならばUSBワンセグチューナーを7つぐらいセットして、全チャンネル録画するような小さなレコーダーを作ればいい。その中から見たいものだけ、携帯などにムーブできれば十分だろう。そもそもデジタル放送の12セグ全部をそのまま録ろうとするから、やれHDDが1テラだ2テラだと必要になるのだ。これをH.264にエンコードして小さくしようにも、エンコーダが7つ必要となり、HDDをたくさん搭載するより不経済である。
ワンセグなら1時間番組が約170Mバイト程度である。これを1日20時間、7チャンネル1週間録画しても、170Gバイトぐらいだ。PC周辺機器でも十分対応できるレベルだだろう。
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0806/09/news018.html
170Gで全チャンネル1週間分というのは惹かれるナー。
自分で作ろうとしたらエンコーダーが数千円にならないとなかなか組めないけど。
http://en.wikipedia.org/wiki/ASUS_Eee_PC から
(公式サイト:http://eeepc.asus.com ※ポータルなのか妙に重くて要JS?)
(追記15:35 4Gモデル分解レポート"ASUS Eee PC Exclusive Inside Look!")
これはNECがいつ即死してもおかしくない、そんな緊張感のあるプロダクトだ。
PCは既に5年前にエンドユーザでの端末能力として飽和している。今となっては内部バスに比べりゃ糸電話に見えるイーサネットの帯域ごしのプロセッシングでも情報交換と整理が大半を占める事務業務やファミリーユースには支障がない。
選び放題のウェブサービスによってWindowsすら必須ではなくなりつつあり、所有データのストレージさえローカルにある必要もなくなってハードだけでなくソフトウェアまでも含め、全てが規模の経済に飲み込まれようとしている。
時代の変化は想像よりもずっと早く、コモディティアプライアンスのステージを飛び越え、手帳やバッグのように個別化の不経済を許容する高付加価値の逃げ道も絶たれ、紙と同様の「書ければ何でもいい」素材へ移行しつつあるのだ。
ここでサポートセンタを大連に移して日本人フリーターを使い捨てにしても、新入社員の初任給を20年間抑えつづけても、若手だけ年金制度を変更しても、追いつかない。
もう日本の“パソコン”メーカーに残された選択肢は国内大統合によってASUSに対抗できるだけのボリュームを確保しさらに効率よく安いものを作るか、ASUSから買い付け設置を請け負う小売になるか、あるいは事業部を10人に減らして資産を投資・運用に回すかしかないだろう。
その昔HTMLソースはエレガントであるべきでそのためには手打ち以外にないという職人派が居ましたね。
理由はいろいろいわれましたが結局は経済的な問題のためです。ドキュメントを表示するクライアントマシンのリソースとそのデータを取得する通信回線の帯域がとても少なく貴重であり、そのために通信量が少なくなるように簡潔なデータで再現にマシンの負担が無いように無駄なドキュメント要素の無い「エレガント」なソースが求められました。
さらに当時Webのコードを書くのは物好きでしかなく、金になりませんでしたので労働単価が安く、コードを人間様が調整するほうが安く済んだのです。
そして今目の前にあるのは有り余るマシンリソースとP2P以外に使い切れないような通信帯域。はっきり言って見た目が同じならいいです。(適当すぎて原因特定もできないトラブルが頻出して手間が増えるのは問題だけど)あまり気にするのは偏執であり、不経済です。
データの再利用も機械がデータを整理するべきで忙しい人間様を煩わせてはいけません。つまりそれはSEOもデータの分析が商売であるGoogle側が頑張るべきことでこちらがやることではないということです。
一部のエンタープライズなサイトではCSS等駆使したキレイな構造化による効率化はクリティカルに効くでしょうが、現実アドホックに組んでるその他圧倒的なページは数十ページ程度で局所的に最適化していてもシステムメリットは出ず、その規模ではむしろ抽象化上昇でオーバーヘッドの増加となるでしょう。
とはいえSEOで見積書の行数が稼げるならなにかと手間が増えた方が商売になるというものでもありまして、まあ良い時代になったのですよとごまかすのも処世と。
「2chのまとめサイトで、価値がないと判断されて省略されるようなレス」を書き続けてるようなもんだ。
…なんで公開し続けるのかな?だって誰からも自分ののコメントは期待されてないってことじゃない?読んだひとを感心させることもないコメント。気づいてるかわかんないけど、WikiPedia的なWisdom of crowdsなんて、あんなの一部の能力が高い人たちの知恵が集合してるから凄いのであって、mixi上のくだらない日記みたいな、誰からも何とも思われないはてブコメントみたいな、そんなものはそもそもwisdomとは言わない。それこそただの便所の落書きであって、チラシの裏にでも書いておけばいい。少なくとも全世界に発信する必要はない。
どうせ公開するなら、他の人にとって読み応えがあるようなことを書くって気にはならないのかな。気の利いた言葉が浮かばなくても、自分で独自に記事を探してこなくても、たとえば単なる「人気エントリーの内容説明」をひたすら淡々と続けるブックマーカーだって、大抵が30人以上のお気に入りを獲得してる。
はてブの使い方を俺が指示するつもりはないけど、2chと全く同じように扱う必要もないんだから、愚痴っぽいひとりごとは人前にさらさず自分だけで管理してほしい。ひとかけらのポジティブな提案も無いネガティブなコメントは、正直な印象を言えば、社会的不経済というか、害悪に近い。自分ひとりが知らない誰かの気分を滅入らせることと、社会全体が良くなっていくこと、結果的に自分の状態もよくしていくこと、このへんのつながりを想像できないのは単なる無能にすぎない。せめて、方向性を統一してほしい。
しまった、放置してフォローするの忘れてた。
「釣りでした」から始めるつもりで書こうと思ってた追記の内容もほとんど伊藤直也氏に書かれてしまった。ひとことで言えば「上記は本心でない」ということになります。
唯一本心に近かったのがWisdom of Crowdsについての記述ですが、ブックマークコメントをうけて少し調べてみたところ、定義の上で自分に誤解があったようです。私が主張したかたのはGoogleの言う「人類の叡智」に似た概念の部分で、「エスタブリッシュ層」が「web2.0」的な感性を受け入れたときの利益についてでした。
トラックバックにはまだ目を通していませんが、長らく不快感を与えうる情況で当エントリーを放置してしまったことについてお詫び申し上げます。