はてなキーワード: ブロックとは
2週間くらい前の話。
隣駅にある保育園からの帰り道、保育園用のリュックと通勤カバンを提げ、前には約9キロの娘を抱え、「よいしょよいしょ」と地下鉄の階段をのぼりきって(けっこう重かった)、歩かせるために娘をおろしたら娘が転んで泣いた。それを見た通りすがりの見知らぬおばあさんに「悪いママね!ひどいね!」と怒られた。
その翌日の話。
私の見ていないところで娘がお皿を机の上から落として割った。その音に驚いた私が「わ!」と大きな声をあげたら、義母に「お皿落としただけで大声あげるなんて、悪いママだね、こんなことで大声あげるなんて!」と責められた。
この頃、夫の帰りが遅くて家事も育児も一人ですべて抱え込み、仕事も忙しかったが娘のお迎えのために毎日必死になって片付けた。
娘の体調が悪かったが会社は休めるわけなく、なんとか時間を作って小児科に連れて行ったり、とにかく自分なりに色々一生懸命だった。朝起きてから寝るまで疾走している気分だった。
忙しかったけど、娘のごはんは栄養を考えてきちんと手作りしているし、昼間に仕事で一緒に遊べない分、散歩がわりに通園時に手をつないで遠回りしたり、夕食後も娘と鬼ごっこしたりブロック遊びしたり、寝る時は添い寝して絵本を読んだり子守歌を歌ったり。
自分なりに、愛する娘を幸福にする「良い母」になろうと努力していた。
色々とせっぱつまっていた時期だったのもあって、他人に「悪い母」と言われたことに泣くほどショックを受けた。
いまだにこのことを思い出すと腹ただしい。
1歳の子供が歩いて転ぶのは当然じゃないか。それともあれか、転ぶと危険だから歩かせるなとでも言うのか。そんなんじゃ体力の無い子供に育つだろ。
大きな音に驚くのは当然じゃないか。それともあれか、大きな音でも驚かないのが「母親」か。お皿の割れる音にも動じないって、いくらなんでも鈍感すぎるだろ。
怒ったり泣いたり、その結果思ったのは、これから子供を育てていく上で、こういうことは何度もあるんだろうということ。
100のうちの1を見て、それで100を理解した気で口出してくる他人は、きっとたくさんいるってこと。
だから、いちいち怒ったり泣いたりしていても仕方ない。
自分でも「良い母」にとらわれすぎてると思う。
しかし、父子家庭で育った私にはドラマや映画や小説や育児書にでてくるような「良い母」しか知らない。
変な話だが、母親もウンチするのだろうか。母親もオナラするのだろうか。母親も鼻クソほじるのだろうか。
とはいえ、保育園のお迎えで娘の顔を見るとホッとするし、娘とのお風呂の時間は楽しいし、娘の柔らかなほっぺをプニプニするのは至福だし、歩くときに娘から手を伸ばしてきて手をつなぐと嬉しいし、とにかく、娘のこと大好きだ。宝だ。私の生きる意味だ。大好きというか愛しているのだ。
ようは、愛する娘のために何かすることは苦にならない。どんな努力も。
Python vs Ruby vs PHP vs Haskell プログラミング言語バトル part1
http://anond.hatelabo.jp/20120118220204
Rubyistってなんであんな小学校の図書室で毎日読書してそうな
顔面オジサン、オバサンばっかなの?
Scalaer: 鼻持ちならない、モヒカン
Lisper: マジキチ
Rubyist: ネクラ、オタク、キモメン、いじめられっこネクラチビメガネ、色黒、キモオタ、顔面オジサン、オバサン
Rubyのブロックが便利すぎて、Pythonをやめたくなった。
いちいちtemporaryな関数を作成してから目的の関数に渡していたのがばからしくなった。
リストやジェネレータ式の内包表記が便利過ぎて
どうせ廃れる。
609
>リストやジェネレータ式の内包表記が便利過ぎて
おれもそう信じてたけど、Rubyの、メソッド呼び出しを続けて書けるほうが便利だわ。
まるでjQueryみたい。といってもjQueryのほうが後発だけど。
たとえば「xsから0以上のものを選んで、その二乗の和を求める」場合
sum([ x*x for x in xs if x > 0 ])
これだと、後ろから読まないといけないんだよね。でも
xs.select{|x| x > 0}.map{|x| x*x }.sum
これなら頭からひとつずつ読めばいいから、わかりやすいし、考えたとおりに書きやすい。
まさにスクリプトって感じがする。
Python: [[x,y] for x in xs for y in xs]
Ruby: xs.map{|x| xs.map{|y| [x,y] } }.flatten(1)
いっぽうメソッドチェーンは
orz.sage().hage().hoge().hige() タイプの問題には向いている
つまり向いている方向がちがう
(まあHaskellなら hige . hoge . hage . sage と書くだけだというのは置いといて)
強い弱いということで言うと、問題を解くのに必要な一番能力が弱い
(限定された)道具を使うという考え方があるようだよ
ベタ再帰は強い(汎用的)、がそれゆえ読むのに注意を必要とする
foldrは再帰よりは弱いが、foldrで表現可能な問題のクラス(原始再帰)はかなり
広いので、mapやfilterで済むならもちろんそのほうが望ましい
ではこの問題は弱いmapやfilterを結合させるほうがいいかというと、
俺はlist comprehensionのほうが集合表記そのもの=whatを表現していて好きだな
Pythonのlist comprehensionのsyntaxはあまり好きではないが
それは大きな問題じゃない
メソッドチェーンってバグをわかりにくくするだけだと思うなあ。もちろん性能面もあるし。linqとかは良いと思うけど。
同じメソッドチェーンでも、linqなら良いけどrubyなら悪い .....
一言で言うと「俺はRubyが大嫌いなんだぁーー」ということですな
内包表記は構文でサポートしないと難しい(マクロがあれば別だが)
メソッドチェーンが関数型の方法に比べて特に優れている点があるようには思えないが
パイプ順に書きたければ書けるし
680,663
Pythonには関数型として致命的な弱点があるから、メソッドチェーンでは簡潔なコードが書けない
たとえば「(1) Rubyは 条件判定が(文ではなく)式」だから以下のようなコードが書ける
if test
if test_1 then test_1_1 else test_1_2 end
else
if test_2 then test_2_1 else test_2_2 end
end
}
あるいは「(2) Rubyはブロック内で局所宣言が可能」だから上のコードを以下のように書き換えてもいい
cond_1 = if test_1 then test_1_1 else test_1_2 end
cond_2 = if test_2 then test_2_1 else test_2_2 end
if test then cond_1 else cond_2 end
}
関数型言語であれば「(1) 条件判定(if/case)が式」で「(2) 局所宣言(let .. in .. end)が可能」なの当たり前
ところが残念な事に、どちらもPythonには欠落しているから、上の例はストレートにコード化できない
だからPythonではメソッドチェーンは使われないし、「酸っぱい葡萄」に見える
Rubyでもリスト内包表記が言語として組み込まれてくれると嬉しい
だと思う
頭に浮かんだロジックをすばやくコード化するのはメソッドチェーンが適しているし、
じっくり腰を据えてコード設計するならリスト内包表記のほうが美しい
自分は、たぶんこのスレもRubyコアの中の人も見ているだろうから
そのうちRubyにもリスト内包表記が実装されるんじゃないかと期待しているw
メソッドチェーンは書き易い
内包表記は見た目が整ってて綺麗、最終的な型がわかり易い
いじょ。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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他のSNSもそうだけど、ある程度ドライになりきれないならもうリア友同士でTwitterやるのやめなよ。
正直、自分の陰口なんて、どっかで誰かが言ってるわけで、自分がすべての人に好まれてるなんてことはあり得ない。
せっかくTwitter、というかWebそのものが、「見たいものだけ見る」ということができるメディアなわけで、
わざわざ自分のこと嫌いな人を覗きに行って不愉快な思いをする必要はないはずなんだ。
でも、相手が友人だったり(それも中途半端に仲のいい)すると、気になるのかわざわざ悪口を覗きに行って、
自分で気分を害する。
またそうやって「あなたのTweetが不快でした」って言われたほうもこっそりブロックでもしとけばいいのに、
また、自分の交友関係に喧嘩の愚痴をさらしたりして話をややこしくする。
厭なら見るな。
例えばテトリス
あれって落ちてくるブロックが四角だよね?
あれを、ゲームのルールやシステムを一切変更せずに、ブロックの形を丸にして新作ゲームとして発売する
アホかwwwって思うかもしれないけど、モバゲーはそれを何十と繰り返して「新ゲーム」として展開しているよ
最近はガンダムとかアニメとか他メーカーのゲームとコラボレーションしているものがあるよね
CMや雑誌で見ると、アクション性が高かったりRPG要素が強かったりキャラが動きまわって楽しそうだったり
色々魅力に見えるだろうけど、結局は上で述べた「テトリス」と同じで
ルールやシステムは全く同じ、グラフィックやシステムメッセージの内容だけ挿げ替えって言う量産も量産
アタリショックもびっくりの粗製濫造…いや、濫造はしてないかもしれない
一応書いておくとテトリスを選択したことに他意は無いよ
ある高名な大学教授が、わたしを~~という理屈でねじ伏せようとする人のロジックが分からないという意味のことを言っていたので、
そうしたらブロックされた。
学者に、烏合の衆みたいな人間が噛みつけばそりゃあブロックされるというのも当然だが、
学問というのは反論に耐えた仮説にこそ信憑性があたえられるので、反論は歓迎すべきだし、
学者という人種はそれなりに丁寧で論理的であり価値がある反論をブロックしないのだとなぜか信じていた。
(自分で言うのもなんだが、謙虚に、卑屈にならずに、素直に論理的に@を送ったつもりである)
で、その大学教授(そういえばすでに退官しているかも)のタイムラインをみたら、
反論が多数寄せられているという意味のことを何度か呟いているにもかかわらず、その反論は表示されていない。
ひょっとしてこの学者は反論されるたびに相手をブロックしているのでは?と楽しくない邪推をしてしまった。
まあ、たかがツイッターで、一人の学者が有象無象の凡人を相手にするのだから、ブロックするのは普通にあり得ると認識していたが、
なんかほんっとうにつかれた。何も言わないで急にツンケンされるのに。
急にブロックされたり、急に噛み付かれたり。
何回思い返しても、そんな悪いこといったりしたとは思わないし、何を謝っていいのかわからない。
周りがきがるにやりとりしているおしゃべりは私だけはしてはいけなかったんだ。ふーん。そっかごめんね。うざいよね。
でも切り口上でいきなりブロックするほどダメだとはおもわなかった。
空気よめっても同じ空気じゃないもんな。500キロばかし離れてるもんな。
へんな噂が耳に入って手のひらを返されてるのかもしれないけど、それを真偽確かめずに鵜呑みにする人にはこちらも付き合えないし。
この先も付き合いあるのかなー、うざいなーとおもったころ相手は別のジャンルではしゃいでんの。
へぇ。やっぱり若いとすぐ飽きるんだ。
風のうわさに勤め先辞めたっていうけど、余裕がないのに見栄を張ってるなら勤め切らないだろうなとしか。
風のうわさに発注が誤納品されたっていうけど会場でみっともなくいい大人が泣くんだったら最初に確認して発注すればとしか。
なんか声かけたりコメント入れただけで逆上されるからもう無視しなきゃいけないぽい。
差し入れしても定型以上のお礼が帰ってくるでもないし味も別に聞かないし多分捨ててる。
私のことを好きじゃないあなたのことは私も好きじゃない、って気をはって
相手の展示ブースは何も言わない聞こえないで6時間そばに座ってなきゃいけないのが本当にこっちもつかれるんだ。
なんか、あれだ、イナゴならイナゴ、雲上人ならそのつもりで売り子つければいいんじゃないかな。
ていうか、そっちのジャンル行っちゃってください。ダミーも在庫も綺麗に残さずに。ホントおねがいしますあっちでやって。
隣にブラックホールみたいなのがあって全部フラグ(つか言葉ね)踏み倒されるの本当きもくて疲れる。
クレクレちゃんじゃあないつもりなんだけど、こちらのお礼を無視されたらそういう立場にさせられるし、
もうこっちも笑顔が取り繕えないレベル。隣に何考えてるかわからない人が座ってると、
友スレみたいな暴力沙汰とかにならないかヒヤヒヤするんだわ。なんなんだろ。
中の一人には送ったデジタルガジェットきちんと返してからいなくなってほしいわ。
毎日使うものだから、余ってるから好意前提でさし上げたのだけど、
今ものうのうとつかってて、
いずれボロボロにして捨てるか転売されるんだろうなとおもうとイライラするわ。
多めに払ったカラオケ代までは請求しないけど、
なんで地方から泊まりがけで交通費かけて出て行った先でまでへいこらしなきゃいけないんだろう。
とにかくあの隣だとおもうだけでものすごく楽しさが消えて気が重い。
先に書き込んだのが気に食わないのか、ついコムの隣スペはまだ埋まらない。
是非のんきなのんびりやさんスペースが隣にきますように。
はー。
うーん、遅めといっても日本の交渉が1年遅延するだけで劇的にアメリカに有利になるし、アナウンス効果っつーても日本を加えてビビらせたい相手なんてもう中国しかなくて中国はどうせ10年計画で攻略する相手だからねぇ。
アメリカにとっては日本の市場が開放できないのであれば戦略目標は半分しか達せられないことになるので、どっちがいいかと言えば1年遅延しても日本の市場が開放される方がいいに決まってるよ。
交渉についてはもう表明してしまったし、俺も割と楽観的な流れで考えてる。
コメは経済的に見ればもう開放しちゃってもいいんじゃねと思ってるけど、やっぱり政局的にはセンシティブ。民主党内がネックってのも要するにコメ農家が問題だし。
まあニュージーランドなんかはコメに関して柔軟な対応ができると既に表明しているし、彼らはコメを日本に売ることはさほど重要では無いっつーか日本が離脱するリスクの方が遙かに問題なので、コメは結構早期にまとまっちゃうんじゃないかと思ってる。コメさえ何とかなれば民主党内も何とかなるというのは考えが甘いだろうか。保険もアメリカがブロックしに来る前に潜り込めば結構何とかなりそうな気がする。
最終的な敵は、自民党の清和会を中心とした非農業系議員だと思う。農業系議員は正しいかどうかはともかく彼らなりに考える国益があって言い分もあるわけだから条件的な問題に持ち込むことも可能なんだけど……
今も私のブログとか秘かに付いてる
それに、ブクマのことじゃなくて
トゥゲッタにまとめた事
説明文に載せたけど、こういう掲示板を作ってた
http://megalodon.jp/2011-1101-0217-03/ulog.cc/xa/sakura/oooquree/8320 魚拓です。
ulogは魚拓も消えてしまうらしい。魚拓の画像http://kie.nu/1yo http://kie.nu/1yp http://kie.nu/1yq http://kie.nu/1yr http://kie.nu/1ys
ログは増田に保存した http://anond.hatelabo.jp/20111101104747
勝手に名古屋の公的機関に相談メールしてた。その結果を載せてた。これだけでも相談したわけでもないULOGでブロックにした人がしてたら驚くと思うけど、更にすごい前提がついてた。。。
対話対話言われたりした (それもトゥギャざった)
日々繰り出される大量の無言ブックマークが話題になり、たまにコメントを残すと「Ubuntuさんが喋った!」「botじゃなかったんや!」と騒ぎになるほどの人気を博した。しかし、オフ会で知り合った女はてなユーザーとの目も当てられないゴタゴタ(詳細は伏せる)が露呈し、人としてそれは無いだろ…と皆ドン引き。現在プライベート化。
http://anond.hatelabo.jp/20100808174815
今、偶然見つけた http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20100808174815
http://b.hatena.ne.jp/entry/id774.net/
hmmm
id::Ubuntu先生とid::Naruhodius先生って同一人物だったのか。初めて知った。 2010/08/09
先生って言われてるし、ツイッタのアカでは万人単位の人が周囲にいるし
今日は名前の由来がリナックスと知って、またまたショックを受けてた
こういう考えられない事をする人が、ツイッタで万人単位でフォローされてたり、先生と書かれてたり、プログラムのブログはマトモで趣味もよく、それなりに支持もされてる、という状況を見たら・・・
ショック受けるよね
Ulog私からブロックされてるのに相談に乗りたがる人AtoMa 理由は私が精神病で放っておけないかららしい 追記「勝手に人を精神病としてまとめを作ろうとしていた事への謝罪は無し」 ギークハウス関連だったので狂ってるんじゃなく狂ったふりのようだが不気味 狂った振りでも普通じゃない。 この前見た偽精神科医のように何らかのコンプレックスではないだろうか? // 元のタイトル→// これは、何?TLに他人のツイートが0な人。偽精神科医でもないが、最初は普通の性格悪い人の嫌がらせかと思ったら・・・
タイトルの混乱振りもよくわかるw
次のこれあたりのがタイトルはわかりやすい
人を精神病呼ばわりして、「謝罪はしません」て・・・ ギークハウスを象徴してる気がする。
相談した事実も無いUlogでブロックされている相手に対しあなたは精神病だとか妄想を持っているとか言って対話(本人の弁)を求めて続けてくる人が居るんだが、この人は正常なのだろうか・・・?
非常に驚かされました。これをされて驚かない人は居ないと思います。(下に書きますが、こういう事をしてチャットしようなどと馴れ合いを求めるから余計驚く)
ULOGでブロックさせて貰った人が、勝手に精神病患者を救うみたいな掲示板を作っていた
これについて謝罪を求めたが、断られログ消しておいて欲しいなどとお願いしてくる厚かましさ
常識では考えられない
勝手に相談に乗って勝手に名古屋の公的機関に私が精神病と言う前提で相談メールして、それを掲示板作って載せて呼びかけてた。そしてついでに、ボランティアだから(行き届かないけどという意味)、とも勝手に書いていた。
こういう事をして、チャットしようと言うのも、何だか獲物を弄んでいるようにも思われて、とても素でやってるとは思えないのですが、本人さんには本当に悪気は無いらしい。
この人のいう事はよくわからない(向こうもそう言ってますが関わってくるのは向こうです)のですが、「謝罪はしません」とツイートした時に 「和解」に応じるとも書いてます。
「和解」というのは、その前に和睦したり親睦してたりする状態が無いとおかしいと思いますが、私はこの方をUlogでブロックさせて貰ってから、一昨日、頭がおかしい人として私の事を捉えて、どうやって病院へ行かせるかのような事をかなり失礼な書き方や、実際終わっている工事が今もあるかのような事実誤認も含んだ書き方で書いた掲示板をULOGに作っているのを知るまで、全く関わってませんでした。
全然知らない人なのに、病院にいけと言っても聞かない等と書かれてましたが、そんな話した事ありません。
だいたい、何で合った事も無い人を病院へ行かせようと掲示板までつくらなければいけないのかわかりません。私に関わろうとする理由が精神病の人が一人で困っているから、というふうに説明されてたりして大変驚きました。そんなに精神病の人を世話するのが好きなら、精神病の人の団体の世話に参加すれば良いと思います。
これでは、まるで、そう言ってる方の精神に問題があるのではないかと思えてきますが、二つのアカウントのうちの私と関わった方じゃない方では、何万もの人と繋がって普通にやってます。プログラム関係のブログも普通です。
こっちがおかしいのかなと思う錯誤状態を狙った悪質な嫌がらせかもしれません。
そして、もう一つのまともなアカウントからはツイートしないし、昨日見ようとしたらブロックされてるのがわかりました。
これからの抜粋です。ここの説明文に精神病対策掲示板のログや保存もあります。
by Tasmanian_good