はてなキーワード: 残響のテロルとは
なんでもいいから書くといいよと精神科の先生にいわれたので書いてみる。
いままで「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはたくさんあった。たとえば絶賛放送中の『アルドノア・ゼロ』もそうだ。『アルドノア・ゼロ』は間違いなく今期最大のヒット作になるだろう。虚淵玄はドイツではゲーテ以来の天才詩人といわれ、フランスではデリダの精神的後継者といわれ、ロシアではプーシキンの再来といわれ、アメリカではリアルホイットマンとたたえられ、日本では村上春樹をしのぐノーベル文学賞最有力候補だと一部ではいわれている。だがわれわれはあえて『残響のテロル』に注目している。なぜなら『残響のテロル』は「すべての過去をアニメにする」神アニメだからだ。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのは「すべて」というところからわかるように、それ自体自己言及的になっている。したがって「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのはすべてのアニメを過去にした瞬間に、それ自身も自己言及的に自己自身によって過去に追いやられてしまう。すべてのアニメを過去にした偉大な新時代のアニメがその誕生と同時にすでに死んでいるというアイロニカルな構造になっているのだ。このアイロニーから逃れられないのが「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメなのであり、従来の傑作アニメというのは生み出されたときにはすでに陳腐化しているというアイロニーから逃れることができないでいた。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはそれ自体の内に過去を含んでいるのだ。真に創造的な作品だから未来志向にも見えるのだが、じつは過去という底なし沼から伸びてきた腐食した手にからめ取られて引きずり込まれてしまう。そしてその暗黒の沼に自己自身を見る(その手ははるか昔に、生まれる前にすでに死んでいた自分の手だったのだ。死産した胎児の声なき叫びだ)。「すべてのアニメを過去にする」アニメはそれ自身を過去にし、過去は更なる過去へとひきずりこまれ、原初の過去へと向かい、宇宙開闢の瞬間へ向かおうとする意志を持つ。すべては過去になる。すべては過ぎ去る。そして無へと潰れる。だから傑作アニメには一種の悲哀がともなう。そこには悲観しかない。われわれはわかってはいたのだ。傑作アニメを見たとき、それはすでに未来によって乗り越えられているということが。われわれはわかってはいたのだ。結局われわれは無を愛撫していたにすぎないということが。なにもかも過ぎ去って、すでに終わっていた。時間は凍結し、空間から熱が引いていった。だがわれわれの前に『残響のテロル』が現れた! ついに現れたのだ! 『残響のテロル』にはすべての過去が含まれている。便所飯はなにを意味するだろうか。それは食事と排泄の同時性だ。われわれはまだ口と肛門を区別していない。そうだ。これは生命の誕生なのだ。きわめて創造性の高い、無垢なる、自由な、永遠の意志、無限の未来への飛翔! 二元論の生じる前のカオスのカオス、混濁した幻覚的な性感帯のおそるべき幸福な絶頂感のみがみなぎった世界。なぜテロリストはアヒル口なのか。アヒルという牧歌的存在にこそ破滅の種がやどっているからだ。戦士は戦士によっては倒されない。戦士が死ぬのは娼婦の前でだけなのだ。これは歴史が証明してきたことだ。アヒル口テロリストは歴史に巣食ってきた処女性に含まれた亀裂、多産性と引き換えに失った平和の象徴である。射精的安楽こそ世界の火種なのだ。「すべての過去をアニメにする」神アニメはすべてをアニメとして書き換えていく、外部へと環境へと働きかける力を持つ。すべてをアニメにしていく、そしてそのアニメがさらなるアニメをうみだしていく。アニメはアニメによって置き換えられ、アニメがアニメに繋がることによって、それは永遠に進んでいく。アニメの無限行進。アニメの爆発的連鎖。それはアニメ時空ともいうべきものを作り上げるだろう。それ自体でのびつづけるアニメの網だ。それはもう冷える宇宙ではないだろう。次元を超えた愛だろう。絶頂を越えた世界でわれわれは天使になるだろう。耐えなければならないその圧倒的幸福に人間のままでいることは許されないのだ。『残響のテロル』はすべてをアニメにするだろう。なぜ都庁爆破があんなに簡単にできたのか。それはアニメだからだ。そしてそれは過去のアニメ的出来事、つまり主として911の余韻があるわけだが、まさにそのことによって、アニメ的出来事が現実ととけあい(911はたしかにいままでは現実として語られがちだったのだ)、その境界はここにいたって不分明になり、アニメ時空が現実に侵食してくることになるのだ。すべてはアニメ的になるだろう。幼稚さという狂気。短絡的な世界崩壊。理性の不発。それは『魔法少女まどか☆マギカ』によって予告されていた悪夢でもあった(Gen Urobuchiは惜しいところまでいっていた。だがかれにはまだ愛が足りなかった。かれは健全すぎたのだ、良識的すぎたのだ、大人すぎたのだ、成熟しすぎていたのだ)。鋭敏な鮮烈な想像力は退化して、茫洋とした曖昧模糊とした神話を呼び寄せる。そこに召喚されたアニメ時空が境界を侵犯して現実に襲い掛かってくるだろう。すべては妄想によって形成され、妄想はすべてとなるだろう。きみはやがて逆立ちして排泄するようになるだろう。もちろんわれわれにも恋人ができるようになるだろう! われわれはひとつの体験をすることになる。それは存在のあり方を変えてしまう圧倒的な体験だ。これを見てしまったらもとのままの自分ではいられないだろう。なぜならわれわれはひとつの真理を悟ることになるのだから。二次元的妄想によって書き換えられた世界はどこに行くのだろう。すべてはギャグの様相を呈してきている。われわれはいつも嘆いている。やれやれ子供だましなアニメだな子供向けというのは子供だましということではないのであってうんぬんかんぬん。だがしかし現実のほうがアニメ的であり、アニメ時空的であり、アニメなのではないか。だれがこんな世界にしたのだ。どうして美少女は空から降ってこないのか。いやそれこそアニメではないことの証拠ではないか、いやいや、むしろ美少女が空から降ってこないのは非現実的なのだ。ああとわれわれはさらに嘆く。きみは美少女が空から降ってきたところを見たことがないのか。もちろん『残響のテロル』では美少女が空から降ってくる。ヒロインはジャンプしたと見せかけて空から降ったのだ、まさにすべての過去を、すべての飛び降りた美少女たちの意志をアニメにするために。美少女が空から降ってくるという古典的アニメ表現は『残響のテロル』にいたって、ついにアニメと現実の境界をまたいでしまった。これまでアニメ表現はアニメ表現でしかなかったが、いま彼女が飛び降りたことによってすべてはアニメ的現実になった。それはたんなる表現ではないのだ、もはや現実なのだ、アニメなのだ。これまでにうまれた数々の傑作によってすべてが過ぎ去ってしまったが、ついにすべての過去をアニメにするアニメが生まれた。アニメ的表現がついに次元の壁を越えたのだ。すべてはアニメになるだろう。太陽の死の後、人類が生き残るにはもうアニメになるしかないのだ。われわれは新しい太陽を作ることはできない、だが、新しい太陽をアニメにすることはできる。銀河という足枷からわれわれが羽ばたくにはアニメの力がどうしても必要だったのだ。人類はついにアニメを本当の意味で獲得した。と同時に、われわれはアニメになった。われわれの想像力は現在の認知のありかたをテロリストのように破壊して、すべてをアニメにするだろう。人類はいまやっと白内障から脱して、真に世界を見ることになったのだ。諸君、世界は美しいか。
先日、クリエーター系の友人と東日本大震災が与えた影響について話した。影響と言っても創作界隈に関する話に限ってだ。
一応、立場を明かしておくと僕ら二人はどちらも震災による被害(計画停電を含め)は全く受けない地域にいた日本人だ。
友人曰く「311」がクリエーターの精神に与えた影響は凄く大きくて、震災前、震災後で明らかに作風が変わってくるであろうし、時代を分けるべきだ、とまで言っていた。
友人の言うところによると、震災や津波や原発事故はまさしく震災前に想像された世界の終わりであって、SF作品が書いてきたものだった。しかし、現実には世界は終わらなかったし、被災地以外では何一つ変わらない日常が続けられていた。そのことでSF作家というのは衝撃を受け、あの程度で世界は終わらない、と彼らが描く未来というのは決定的に変化してしまった……、まあそのようなことを言っていた。
その友人は震災というのを大きく受け取っていて、震災の当日や原発爆発の映像、連日の報道は「世界の終わり」に感じられたそうだ。津波の動画を見て涙を流した、と言っていた。
僕はまったく逆で、震災を小さく受け取っていた。友人の前ではそれに同調するように悲しいことだったよね、怖かったよね、と僕は言っていたけれど、内心は違った。僕はあの大震災にドラマを見ていた。僕にとって震災はエンターテイメントだった。最高に楽しく、ドキドキとわくわくの非日常を提供してくれる見世物にすぎなかった。世界の終わりなんて微塵も感じなかった。次の日も普通に日常が続いてたからね。動画を見て涙を流すという感覚が分からなかった。当事者以外にとっては対岸の火事だろうと思った。まぁ、こういうのはサッカーの日本代表が負けて泣いちゃう感覚と似ているんだろうと思う。僕の友人はそういうスポーツとかに感情移入するタイプだったから。僕にはスポーツを見てるだけの面白さがわからないので、津波動画で涙する感覚もわからなかったけど。
初日に津波が全てを洗い流したところに言い知れない高揚を覚え、原発が爆発している動画を見て思わず破顔した、これからこの国がどうなっていくのだろう、という期待感があった。ネットはお祭り騒ぎで、日本中がニュースにかじりついて浮き立っていた。その雰囲気を楽しみながら僕は極めて健全にコンテンツを消費していた。それには、どうせ僕には関係ないという、あくまで観客としての視点があった。僕と友人は被災地にはいなかったという環境は同じにも関わらず、こうも受け取るものが違っていた。友人はどこまでも日本人としての当事者意識があったのかもしれない。僕には日本の遠い一地域であった非日常な、それも歴史的にも珍しい10年単位でしか見れないだろうというようなビッグイベントとして見ていた。
その後は日本人と政府による茶番劇が始まって、この国はもう根本的なところで駄目になっているんだなとせせら笑って、楽しんでいた。そしてこのつまらない日常が帰ってきた。残ったのは日本という国に対する絶望だけだった。そういう意味で、震災は確かに影響があったかもしれない。直接的な影響なんてせいぜいFPSに水浸しのステージが増えたぐらいにしか感じられなかった。
震災はエンタメだったなんて言えば、人格を疑われるだろうからきっと言えないし、おそらくこのような考えを描いた創作物というのは10年経っても出てこないだろう。僕も自分の作品の中でこんな話はおそらく持ち出さないだろう。クリエーターの端くれとして、この感情を創作に取り入れたい、面白いとは思っているけれど、絶対に世に出せないだろうし、出しても正義感の強い方たちに袋叩きにされてひどい目に遭うだろう。それどころか、少なくとも2011年から5年ぐらいは震災を『ネタ』((題材、あるいはインスピレーション、元ネタ、設定の一部としての利用、様々な意味で))にしたエンタメ作品(ルポや感動の復興物語!以外の作品)というのは不謹慎だというので作られないだろう。だから、友人にはそのようなことは一切言えなかった。僕は情の深いふりをして、この場面に僕も胸が引き裂かれるようだったと言った。
創作に携わっていた人間なら、あるいはもっと広く、コンテンツを提供している人間であれば誰しもが、あの震災はネタになると確信したに違いない。現にどこかのアフィサイトの管理人だかが上手いこと震災でお金儲けしていたし、投資家や会社員だって、あの震災を利用しておいしい思いをした人は多いはずだ。とあるポンプ会社の社員は、震災の復興需要で業績もいいよと嬉しそうに僕に語ってくれた。あの一大イベントに皆が興奮していた。メディア関係者も視聴率にニコニコして、震災を報道するとき、歴史に残るような大きな出来事に携わり、自分が業界に入った理由を思い出しながら、使命感と臨場感、そしてちょっぴりゲスな気持ちでわくわくしていたはずだ。東北を救おうと盛り上がっていた皆が、日本の団結するときだと、あの雰囲気に、非日常に酔っていたに違いない。不謹慎なネタをネットに書き込み、他方でニコ生で電気をつけてる配信者に電気消せ、pc消せ不謹慎だろ、と書き込んでみたり、そうやって楽しんでいたはずだ。
僕はあの震災で絆だ、不謹慎だなどと喚き散らしたこの国の人々にもう何の愛着も沸いていない。元からそんなものはなかった。愛国心や愛郷心なんて一度も持ったことはなかった。これは僕だけじゃないはずだ。
さあ、もう一度、来てくれ。今度はこの国を吹き飛ばすぐらいに大きな地震を僕は待っている。
滅ぼそうぜ、世界。
あなたは正義感の強い人で、僕は確かに間違っているかもしれませんが、死ねとか言ったり人格否定するのはやめてください。上でも書きましたが人前では常識的な対応をしてます。事件現場で写メとかとりません。たぶん、この人たちと僕は理解しあえないんだなぁと思いました。
この国が吹き飛ぶぐらいの地震が来たら僕も喜んで巻き込まれますよ。もちろん、被害に遭ったときは泣き叫ぶかもしれないし、恐怖に震えるかもしれません、でもそれは僕が自殺願望を持っていたとしても、殴られれば泣いてしまうし、ナイフで脅されれば怖くて動けなくなるのと同じことなんです。実際に遭遇したときの反応と、願望は全く別のところにあると思います。夢を見すぎているかもしれませんが、全てが崩壊した退廃的な光景というのを生で見てみたい、この国なり、世界が滅びる瞬間が見たいっていうのは、現実的かどうかは置いておいて、多少願ってる人もいるんじゃないかなぁ、と思っていたんですけど、世界滅ぼそうという賛同は全然得られなかったのでした。
僕一人じゃなくてよかったーと思いました。
今後の参考にさせていただきます。皆様のクリエイティブな人生を心よりお祈りしております。
911に触れてる方、鋭いです。残響のテロルを見終えた後、911をネタにするなとマジギレしてる人を見て、創作に使って何が悪いと思ったのが、この記事の発端です。阪神淡路大震災はエンタメ的創作物でたまに見かけるのに、東日本大震災がネタになってはいけないのはなぜか、とか事件はいつからネタにされてよいのか、東京マグニチュードが震災後、自粛され扱いが変わったこと、ピングドラムもモチーフにサリンや酒鬼薔薇なんかを使っているが好意的に受け止められていたことなどを友人と話しているうちに3.11が創作に与えた影響という話に辿り着きました。
ほんとは個別で拾ってみたいブコメもあったのですが、慣れてない上に長くなりそうだったのでこのへんで。