2009-03-02

ただ祈る

先日ひさびさに中学生ドラマを見た。主演の少女がとてもキュートで、存在感があった。ブラウン管に釘付けとはこういうことを言うのだろうというくらい凝視していた。しかし、ジュニアアイドルとりま絶望的な環境と同様に作り手の無能さを感じざるを得なかった。彼らはなぜかくも無能なのか。無能者達は彼女がいかなる存在なのかついてまったく無知なのだ。無能者達に共通して欠損した能力と言わざるを得ない。なぜ彼らはかくも凡庸なのか。彼らがただ凡庸なまま生きていくならまだしも、その凡庸さは、なによりも少女の足かせとなる害悪なのである。存在無知な凡庸な無能者が、嬉々として、空疎な内容を埋めるべく、存在を貶めゆく様は、悲劇を通り越し、滑稽としか言いようがない。中学生ドラマに内容などはない。あるのはフレームと、光や音、編集を含めたいくつかの操作、そして、それらが織りなす最小限の政治的空間を軽々と逸脱してゆく少女存在だけである。無能者は内容に囚われる。凡庸な内容によって非凡な存在を支配しようとする。凡庸な表情、凡庸な仕草、凡庸な台詞。これらは無能者どもが、すべての対象を等しく消費物と見なし、支配せんとする、凡庸な権力欲の所産である。非凡であるのは彼女存在、それだけである。しかし、無能者達はそれに、そしてそれが自らの能力では近づきえない存在であることに、気づく能力がまったく欠けている。なぜなのか。悲劇としか言いようがない。彼らはなぜかくも無能なのか。そしてやはり何にも増して、ジュニアアイドルの無能な作り手には絶望せざるを得ない。もうすべては手遅れなのかもしれない。かの十四歳の少女は、今年にも水着を脱がなければ、一生無能者と無能な取り巻きたちの餌食となり、消えていくのだろう。もうすべては遅すぎるのかもしれない。絶望的なのかもしれない。杉本博司写真建築シリーズにある、ある種の建築物のごとき、フレームの中に溶け消え去ることなく、存在を、あるいは亡霊のごとき存在の影を誇示しうる、かの少女が、無能者たちの、あるいは無能な取り巻きたちの、狭隘な視線の中で、腑を喰い尽くされ、残骸も残さずに、消えていくのだろうか。憂鬱だ。

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