はてなキーワード: 独居老人とは
家庭を持ち、子をなし、孫が生まれ、微笑みながら死んでいく、そういう幸せを享受出来る可能性が割と高い働き方である、と信じるに足る実践者が多数を占めること。
今ノマド実践してる人って、なんか独身ばっかりってイメージなんだよな。行き着く先が独居老人という点で何の新鮮味もないっつーか、ネオニートと変わらんっつーか。
ノマド礼讃してる人の一部には何となく「わーかっこいいねーすごいねー俺はやらないけど。カーチャンとガキんちょとのんびり暮らすけど。」って人種が紛れ込んでる気がして、なんだ、その、いいように社会感情の調整弁扱いされてる感じがして可哀相っていう、そんな印象なのです。
私よりもブスな女に逢いにいく、と言い旅にでたがどこにもいない。
一日に何回ブスと言われるかカウントしてみようとしたがあまりに多すぎて途中で投げてしまった。
いったいブスはどこにいるのだろうか。鏡の世界にしかいないのか。
小中高、下手すれば幼稚園のころからほぼ毎日ブスだと言われ続けたら誰でも自分の顔がブスだと思い込むに決まっている。もしそれでも自分は可愛いと思い込める人間がいたら会ってみたい。伝授してほしい。それなりに自信を持ちたかったので一生懸命化粧をして当時の同級生に会ったが相変わらず変わらないなと言われるのでブスなことは変わらないみたいで悲しい。数年に一度会うが変わらないと言われて終わる。いったいいつになったらブスという称号がはずれるのかわからないし一生付き合っていかなきゃいけないのかもしれない。化粧をしてもブスということに気づいてしまったのでどうせブスなら面倒な化粧をしても仕方がないなと思い普段はすっぴんで生きている。楽しいな。
お前が自分の顔をブスだと言うのをやめろとたびたび言われる。言うのをやめたところで頭の中でああブスだと思ってることにはかわりないのだけれどそれでいいのだろうか。口に出す出さないがそんなに重要だろうか。そりゃあ腐っても女だから可愛くなりたいと思うときもあるけれど可愛いとはそもそも何なんだろうか。可愛いがあまりにも個人によるので理解出来ない。あんなに可愛い佐々木希ですら可愛いと全く思えないという人間もいるぐらいだから不思議だ。私は常に誰からも可愛いと思われる顔になりたいと思うのだけれど佐々木希ですら否定されるのだ。じゃあいったい誰になればいいんだ。いつか全身整形をしようと思っているがどんな顔や身体にすれば誰にも否定されずに生きることが出来るのかわからない。ただ佐々木希は芸能人だから露出が多いぶん人からもらう意見も増えるのだろう。小ぢんまりとした街で目立たずに生きていけば否定されないで生きていけるかもしれない。
そもそも私は顔も悪いが性格が悪いので可愛くなったところであいつは性格も悪いうえに整形までしてコンプレックスの塊だと罵られ相手に漬け込まれるすきが増えてしまうのではないだろうか。恐ろしい世の中だ。古い知り合いからは逃げなければいけない。日本に住むなら顔を買ったら戸籍も買ったほうがいい。そして四国あたりにでも行こう。それとも今から英語なりなんなり勉強しておくべきか。やることが多いな。
この顔でコンプレックスを抱えながらあと何十年も一人ぼっちで生きていくことなんて不可能だ。独居老人になったのち誰にも知られることなく死にその後腐り遠縁の親戚に連絡がいきもしくは行政によって無縁仏になったりだとかそんなことは嫌だ。顔が悪いだけでそんな終末がすでに約束されているなんて嫌だ。NHKの特集なんて悲しくなってしまうので絶対にみない。
こんなことを書くとお前はかまってほしいとか同情してほしいのだな、と思われそうだがそんな見当違いな意見は求めていない。そもそもそういったことをしてほしいならもっとおあつらえ向きなネタがあるしそうじゃなくても適当にでっちあげてもっと面白おかしく書くだろう。あまりにも私の顔についてあれこれ言われるので書いておけば今後なにか言われたときにこのURLを伝えれば理解してもらえるし笑いがおこるからだ。
http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20110212では「消費税増税が主要因で景気が急激に悪化したとか、あるいは自殺者や餓死者が激増したとかという実証的な議論を聞いたことがない」と言いつつ、
http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20101006では「仕事の激増に対して賃金上げや人員増が追いつかず、少なくとも短期的には過労死・過労自殺を増やす可能性が高いし、少ない年金と預金で暮らしている(まさにデフレだからなんとかもっている)独居老人などは、生活が成り立たなくなって自殺するしかなくなるだろう」と決めつけるのはダブルスタンダードな気がする。インフレに過剰反応して闇雲にバッシングしてるだけじゃなかろうか。90年代デフレに突入して自殺者が急増してる現実についてはどう思ってるのだろうか。
そもそも「福祉サービス受給の中心である年金生活の高齢者にも薄く広く負担できる」のは消費税でもインフレでも同じ(むしろ物価スライドを考慮すれば消費税のほうが多い)だし、貯蓄を取り崩して生活してる老人の負担が相対的に大きいのはどちらも同じなのに、なぜ消費税だけ実証的な根拠を出せと言ってインフレについてはそれを出さずに煽り立てるのだろうか。日頃高橋洋一的な論法を批判しておきながら自分も同じことをやるようでは説得力がないと思うのだが。
爺ちゃんは、15年前に65歳で死んだ。その時ばあちゃんは怒っていた。爺ちゃんは大酒飲みでばあちゃんに迷惑をかけてばかりだったけれど、退職してからその悪い癖はだいぶ落ち着いて、しかも人より多く年金がもらえる仕事だったし、退職金も多かったから、やっとこれから夫婦水入らずの穏やかな余生を送れると、婆ちゃんがほっとした矢先だったのだ。爺ちゃんとばあちゃんは喧嘩はよくするけれど、浪花節的にとても仲の良い夫婦で、風呂も毎日一緒に入って背中を流し合っていたそうだ。なのにばあちゃんはイキナリ一人ぼっちになってしまった。ばあちゃんの娘、つまりわたしの母さんはそのときすでに死んでいたし、息子は東京へ行ったまま結婚し、恐ろしい鬼嫁の元、連絡もよこさなかった。そこからばあちゃんは狂い始めた。昔から信心深かったばあちゃんは、毎朝ながながとお念仏をとなえるようになった。お嬢さん育ちのばあちゃんは人を疑うことを知らなかったから、変な健康食品や水晶や絵を買わされた。数年後には立派な家が建つほどあったお金は全部なくなっていた。それからばあちゃんはたくさんの動物を飼い始めた。犬、猫、小鳥、亀。猫は一時期、30匹ほどになっていて、ばあちゃんは毎朝4時に起きてエサやりと掃除をしていた。餌は缶詰と鰹節とご飯をごちゃまぜにしたものだった。ときどきばあちゃん家に遊びに行っても、エサやりが忙しいから帰ってと言われることもあった。わたしの父に金の無心すること数知れず、サラ金にもたくさん借りていて、何度も自己破産をすすめたけれど強情っ張りで言うことを聞かず、それも父がたてかえた。そんなダメすぎるばあちゃんだけれど、なぜか憎めない人の良さがあって、友達はたくさんいて、ばあちゃんに金をあげたり、ご飯を作って持っていってあげたりしてくれていた。というそんなギリギリの生活が15年も続いている。
そして、ペットも大分へって、ばあちゃんも昔ほどの元気がなくなり、もちろん金は年金以外にないという状態の今日このごろ、ばあちゃんが新興宗教にはまった。ばあちゃんの部屋にその宗教の戒律のようなものが書かれた紙が貼られているのを見たときは、少し心配して、その戒律がびっしりと繰り返し書かれたノートを発見したときは凄く心配した。でも、その宗教にはまってから、ばあちゃんはすごく元気になって、目が輝きだしたのだ。いきいきとして楽しそうだ。3人くらいのオバサンが勧誘してきたそうだが、暇なときはあの汚いばあちゃん家に上がって、お茶をのんで愛の話や世界の話をしているそうだ。その宗教をネットで検索してもあまりヒットしないところを見ると、かなり小規模な団体らしい。よくよく考えれば、新興宗教にはまると悪い理由っていうのは、全部ばあちゃんに当てはまらないような気がする。まず、ばあちゃんには毟り取られるような金はもうない。ブラックリスト入りだからどの金貸しも金を貸してくれない。家は持ち家だけど、わたしも父もその家をもらうつもりは毛頭ない。だから資産を毟り取られる心配はない。新興宗教にはまって潰れてしまうと困るような素晴らしい将来も、ばあちゃんにはもうない。あとは死ぬまで年金でほそぼそと数年生きるだけだ。勧誘おばさんたちも、金なし、亭主なし、未来なしらしく、皆やさしくて、ばあちゃんにたかるようなこともなく、たいていは茶菓子をもってきてくれたり、ファミレスや蕎麦屋で奢ってくれたりするらしい。寂しくて、救われたくて、そんな仲間がそっと集まって語り合うのだ。
孫の顔も息子の顔もほとんど見られない、亭主も死んだ金のない独りぼっちの独居老人が、一つの宗教に希望を見出して、誰にも迷惑をかけず、社会の最底辺にある仲間とささやかな茶会をして、生き返ったように目を輝かせている。来世は救われると信じて、毎日一所懸命、戒律を守って、お祈りしている。ばあちゃんに、宗教の原始的姿を見たような気がした。
良いことだと胸を張っては言えないけれど、なんか、それでいいんじゃないかと思う。死ぬまでそっと見守りたい。
航空自衛隊ショーを夫が見に行くついでに、ついて行く嫁。
収入は夫より上。稼いでます。
航空ショーの会場から、家までは離れているので、夫の祖母の家に泊まらせてもらう。
私たちが帰った後、このババア(75)は私に陰口たたく。
「あの嫁、食事も片付けもしないし、夫にはえらそうに『私が金出して買ってあげた車なんだから』とか、えらそうにいってむかつく。」
おっしゃるとおりですよ。ババァ。
あんたの考えと私の考えは根本的に違っている。
あんたは男がとにかく偉いという世の中で飼いならされてきたけれど、私はちがう。
私の夫は、夢ばかり追って、現実の稼ぎは私がやってるんだよ。
旧態依然のこの家に泊まることすら苦痛なのに、夫に付き添っててえらそうにしていて悪いか?
夫をたてろ。すごくよく言われる。
高齢者の声はでかい。耳障りな声だ。周りの乗客のことをまったくかえりみずに、バスの中、ぐちゃぐちゃ騒いでる。
思わず、
「静かにしなさい!」
としかってやった。
(ざまーみろ。恥かかされてざまーみろ。でも、結局「自分は悪くないもん」みたいな言い訳を私がバスを降りたあとに仲間で騒ぐんだろうが)
ばばぁ、てめえは二世帯住宅で息子と同居して独居老人の悲惨さとか想像したこと無いだろ。めまれてるのにわがまま言うなよくそぼけ。
私は小声でつぶやく。
このばばあの耳はほとんど使い物にならないから聞こえてはいないと思う。
でも、私が感じている悪意を、このババァはよーく知っているんだ。
老人がマジョリティのこの国は腐りつつある。
姥捨て山(トムラウシ事故遭難)、交通事故死老人、信号が無い所での横断事故どんどん死んでいってね♪
街を歩き、通りすがる老人たちに私はいつもこうつぶやいている。
非モテとか草食系とかいろいろ言われているが、俺にはそれ以前の問題があるのかもしれん。
誰かを好きになるってのはどういうこと?その人のことがずっと頭から離れない状況か?
別に俺は不能とかじゃない(はず)。かわいい女の子がいればかわいいなとは思う。けれどもそれだけであって、お付き合いしたいとか結婚したいとか、そこまでは思いつかない。ただ漠然と、独居老人は避けたほうがいいだろうと考えている。
「いちばん好きな食べ物は?」みたいな質問に答えられないのが原因かもしれない。自分の中で「いちばん」が決められない。とりわけ数値で比較検討の出来ないもの。カメラや自転車といった製品なら性能、外観、ブランド等々で決められるのだが。
ともかく、もうちょっと女の子と話したりしてみるか。興味のあることしか知らないから話題に乏しいorz くだらない雑学的なことなら知っているんだけどなあ
最新情報をガブ呑みしていないと夢が萎んでしまう人達 --- シロクマの屑籠(汎適所属)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100425/p1
地方に夢なんかない、あるのは絶望だけ --- SKiCCO ALTERNATiVE
http://d.hatena.ne.jp/skicco/20100425/p1
どっちの言い分もすげーわかる。
私は団塊Jr世代。高校卒業後に上京して東京タワー近くの専門学校に2年行って、都内の企業に就職した。最後のバブル入社組で、私の後輩が入らないまま5年ほど務めたけど「この会社やばいな」と思って辞めた。その会社は今はもう無い。その後、派遣社員みたいな形で7年ほど仕事した。その間にその会社の規模は7倍ぐらいになった。落ち目の会社からの転職としては、当時としては悪くなかったと思う。30を過ぎて、やっとこさ年収500万を超えるようになって、少しは貯金ができるかなーって頃に、鬱が進行して少しづつ何もできなくなり、最後は仕事もできなくなり、貯金を使い果たして田舎に逃げ帰った。あの時はマジでホームレスになると思った。田舎に帰って抗うつ剤を飲みながらなんとか仕事を見つけ、抗うつ剤を飲みながら見合いをして結婚する所まではいったけど、結婚の方はすぐ破局。そりゃそうだ。仕事はまぁ上司と喧嘩しながらもなんとか続けているが、年収は300万ぐらい。東京に居た時から40%ダウンだ。
「最新情報をガブ呑みしていないと夢が萎んでしまう人達」を、私は愚かだとは思わない。むしろ、かつてはそうなりたいと思っていた。思っていたけど、田舎育ちで金もない俺には、そんな生き方は無理だった。学生時代から数えれば14年間都内に住んで、14年も住んでれば少しは東京の人っぽくなれるかな、と思っていたけど、実際は全然そんなんじゃなかった。
親子3代住まなくちゃ江戸っ子にはなれねぇなんていう人が居る。14年住んでみて実際そうだと思った。その意味が身にしみてよく解った。俺は死ぬまで田舎者だ。もっとも、それを悪いことばかりとも思わない。恵比寿のとある居酒屋のメニューに季節限定の「つくし」が出たとき、私はそれを喜んで注文したが、都内の友人は誰も「つくし」を知らなかった。汁物に乗っかってる葉っぱは、ただ「青臭い」といって敬遠された。私にはつくし狩りの思い出も原っぱを駆けまわって転んだ時の青臭い匂いの思い出もあるから、それを食べる度にそういう思い出に浸ることができる。そういう思い出を大事にしたいと思う。それを東京の友人と共有できないことは寂しい。
しかし一方、田舎に帰ってきたところで、実際問題として田舎には職がない。いや、無いことはないのだけど、農業などの1次産業か、もしくは老人介護。田舎にもそこそこ名の通った企業というのは多少は存在するが、新卒ならともかく、中途・Uターン組にとっては実に狭き門だ。
もし今、上司と喧嘩でもして会社を辞めるような事になったら、たぶんまた都内で仕事を探すことになると思う。なんでか。よくわからない。よくわからないけど、強いて言えば、夢をもって頑張っている人たちの近くで、何か役に立つことがあればいいかな、という、そんな感じ。行き着く先は、最終的に独居老人で孤独死、なんてことになるんだろう。将来、俺の遺体を片付けることになる特殊清掃業者には申し訳ないと思う。申し訳ない。
独居になるでしょうね。それかホームに行くか。
ホームに入れないから選択の余地なく独居というケースも多いらしいですよ。
独居老人でも老人ホーム入れっぱなしでも、身寄りが居るのと居ないのとでは全く状況が違うよ。
近所に90代独居の爺さんがいるけど、娘さんが頻繁に来て買い物とか通院とか手伝っているよ。
それは幸せなケースだと思います。
身寄りがいるのに何年も面会にもこないなんて、めずらしくもないんですよ。
身寄りがいる=面倒みてもらえる、と考えられる増田は幸せですね。
例えば体調崩した時、家族が居る人なら救急車で病院運んで家族に連絡して終了(後の事は家族がやる)だけど
家族が無い人だったらそれ以上に金と手間隙がかかるわけで。
同居しているはずの身内に「連絡してこないでください!」といわれちゃうケースもあるらしいですよ。
そんなこと言われても……ですよねぇ。
親にかかる(というか親が障害者だからこその)税金を言ってるつもりなんだけど、そうは読めませんか?
なので、
「2倍マイナス」って、障害者の子にかかる税金は健常人の親を持つ子にかかる税金(と言っても金持ちから貧乏人まで幅広いから
何を基準にするんだっつー話だが)の2倍かかると言う意味なんだろうけどどこからその額が出たの?
これは論点が違うのでスルー。
そもそも、障害者の子にかかる税金と普通の健常人の親を持つ子にかかる税金の差額と
その子が将来納める税金+親の面倒を見る事で減る親にかかる税金の額、の
どちらが高額になるかなんて分からないよね。
そりゃそうですね。
これからどういう仕組みになっていくかもわかりませんもの。
だから子供にどうこうは言ってないでしょ?
親の問題だからして。
それを言うなら
『将来を支える「かもしれない」人間を生み出している人間と、将来を支える「かもしれない」人間を生み出す可能性が無い人間』
だろ。
それよりも、
「現在支えられていてもっと支えが必要になりそうな人間と、現在を支えている人間」
のほうが比較としてはいいかな。(いじわる)
別に、子供に「生まれてくるな!」と言いたいのではなくて、
障害者である親に「その状態で自分の満足のためだけに子供を作るのか!」と言いたいんだから。
言葉遊びはともかく。
(実際、老老介護とか独居老人とか、老人ホーム入れっぱなしとか、めずらしくない)
未来に期待できるかもしれない不確定な要素よりは、
今現在実際に得られてるものを評価したいけど、どうですか?
年金だって介護保険だって、将来自分が受けるであろうサービスの前払いみたいなもんで、
今他の人を支える分、将来支えてくださいね、ということ。
今も将来も支えてもらう人が、将来支えるかもしれない人を作ったからといって、
>日本社会については、相互扶助の概念があるのはhttp://anond.hatelabo.jp/20081201181527で既出だし、
日本社会については第一義ではないが相互扶助の機能を有することは認める
>株式会社についても、「利用しあう関係」というものが騙しあいでない限りは、協力関係そのものだし、
弱いもの(無能)はクビになるよ。
>サークルについては、個人的満足を各人が得るために協力するし、
>mixi,はてなについても、構成員自体は烏合の衆とはいえ、こういうサイトは人が集まる場としての機能に基づいてサービスが行われているし。
人が集まる場としての機能≠相互扶助だが
>共同体というのはこの協力行為
http://anond.hatelabo.jp/20070818135658
http://anond.hatelabo.jp/20070818141853
旧来型の貧乏
・自分が住んでいる地域とか、血縁とか、性別なんかで貧乏かどうかが決まっちゃう貧乏。
生まれたときから親兄弟親戚近所一同皆負けてます、みたいなもの。
部落とか、母子家庭とか、田舎に住んでいるかとか。生来的なもので決まっちゃう。
あとインフラ格差の解消とか。下水道ありません、とか、電車通ってません、近所に病院ありません、とか。
その解決の道具がお金(土木系公共事業・ばら撒き行政)と教育。
田舎や貧乏人の子供は家の手伝いで小学校までしか行かせてもらえなかった分、就ける職業も限られてた。そのために夜間中学なんてあったし。女が学問するなんて!って驚かれた時代。
でも、昔は学歴小学校卒非モテニートでも親の家業や農業を継げばよかったし、自分の家のクラスや住んでいる地域に合わせて勝手に決められた見合いで結婚できた。後天的なコミュニケーション能力不足なんて関係ない。とにかく家の面子を守ることと嫁という労働者が欲しいということ。離婚なんてタブー。嫁が子供が産めないという理由で離縁されることはあった。そこに職業選択の自由と結婚の自由はないけど。
それと長男は親との同居が当たり前。女は姑と同居が当たり前。介護に嫌気が差して座敷老人なんて問題もあった。
『ALWAYS三丁目の夕日』みたいな貧乏があっても皆幸せだったのは、『皆いっしょ』に貧乏で皆一緒に豊かになろうとがんばっていたから。
新しい貧乏
・『中流家庭』に育ったはずなのに、ある日突然貧乏。またはいつのまにか貧乏。
生まれたときは一応中流(中の上、中の中、中の下)だったけど、いつの間にか自分ひとり負けてましたもう這い上がれません、みたいなもの。
雇用の流動化、核家族化、少子高齢化、消費社会化による行き過ぎた個人主義、グローバリゼーションと自己責任。
ばら撒きしようにも、今の家族の単位が小さくなりすぎた結果(中年独身男女も含む)、ばら撒く家族が増えてしまったことと、独居老人が多すぎることで、ばら撒けるお金に限界が見えた。
だから、国に頼る前にもっと皆繋がってください、支えあってください、自分の人生自己責任でということになる。
繋がれないと、老人孤独死。中年はへたすりゃ自殺。自殺率最悪。職のコネがないローン抱えた中年の親父が自殺。息子勉強して大学行ってサラリーマンになっても、同じサラリーマンの親自殺。自分の職業、労働単価の安い海外に外注で自分の職がなくなっちゃうかも。自分の職がいつ職業ごとなくなるかわからない。学問よりもコミュ能力。英語だのファシリテーションだのコーチングだの。
ニートの親はサラリーマン。自分が継げる先代から脈々と続く家業なんてない。地域社会の商店は大型ショッピングモールが出来てからボロボロ。工場は単価の安い中国に出ちゃった。農業は、海外から輸入作物の価格に影響されて、国内農作物の価格が安くなりすぎるもんで、補助金に頼らないと生活できない。でも国は地方にばら撒ける金もうないよ。
それと、昔は正社員の職しかなかったけど、今は契約社員とか、派遣とか、バイトとか、いつ首切られて孤立するかわからない立場の職ばっか。フリータになりやすい。雇用が流動化して職場すぐ変るから人間関係も不安定。山谷とか釜が崎とかに集っていた日雇い労働者も高齢化。若い日雇い労働者はネカフェの個室に一人きり。
こういうときに必要なのは、お金ばら撒きや職業教育よりも、人とのゆるい繋がり(コネ)と根拠なき自信。一旦繋がりが切れると対人関係の自信もなくなって二度と繋がれない。皆問題抱えためんどくさい他人と付き合いたくない。昔は地縁や血縁で面倒くさくても嫌々人と繋がってたけど。それで、格差っていうのは世間にある幸せコミュニティには自分は二度と入れないんだっていう絶望みたいなもの。ちがう?うーん、どうなろう?
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/06/h0628-1a.html
で、家族っていうのは相互扶助社会の最小単位。昔は伝統や世間体を理由にして嫌でも家族と付き合う、っていう前提があった(その代わり家族の中でどんなドロドロが起こっているかわからない。嫁姑問題とか親から子への体罰とか当たり前。貧乏な家の子供は小さな大人であり労働力なので、ひっぱたいてでも働かせる。中流以上の家庭の子供は、親の面子そのものであり大事な家を支える跡取りだから、親の敷いたレールからちょっとでも外れたら親とドロドロの喧嘩)。
そういう前提が日本が消費社会化するにつれて変った。まず、日本の住宅に団地というものが登場して、核家族が爆発的に増えた。核家族っていうのは1970年代のアメリカンホームドラマを模倣したもの。家電製品に囲まれた消費社会的な家族の始まり。そこから消費社会的な自由が進行して、お父さん仕事とオタク趣味、お母さんも仕事と女友達とお買い物、子供はモバゲーで皆バラバラな家族の出来上がり。一人に一台携帯電話持ってるから話したい人と話せる一方で、話したくない人とは絶対に話さないということも出来る。最近の家族はLDKの持ち家やマンションに一人一室の個室を割り振られて住んでるし。昔ながらの障子や襖で仕切られているだけのプライバシーの無い部屋なんてありえない。だから皆付き合いたくない人とは絶対に付き合わない。付き合っても嫌なものは見ない。というか無関心。でも、おばあちゃん、おじいちゃんはどこ行った?親に事情のある子供だって、昔は親戚に養子に出されたのに今は施設直行。
そんな人付き合いの伝統や義務が無くなって人間関係が流動化した時代に、一旦自信の無さの塊になって、人付き合いに自信がなくなるとあっという間に孤立。行政はお金が無く、制度は家族の相互扶助の前提を崩そうとしないのに、「家族が嫌いでも、それでもやっぱり家族なのだから支えあうのは当たり前」という大義名分を主張することが、消費社会的な自由を阻害しているということを皆直感的にわかっているから中々主張できない。そして地縁、血縁、義理や情などで、面倒くさいんだけど義務的に構ってくれる人はどんどん少なくなり、他人の無関心に囲まれて消えるように自殺する。
これから日本人は、縁に縛られて毎日同じ他人といがみ合う苦しみと、生まれたときから将来が見えてしまっている不条理と共に生きることを選ぶのか。それとも、縁から自由になりすぎて高速で自分の前を通り過ぎる周りに無関心になるむなしさと、不安定な将来への漠然とした不安と共に生きることを選ぶのか。今の時代はそれらの選択の分岐点なのか、それとも折衷の機会なのか。国が行うシスティマティックなばら撒き福祉が大事なのは当たり前。けれどもそれだけじゃなくて、自分が嫌いな人や嫌いな世代に対しても、関心を持って扶助しあうような相互扶助社会も必要なはずなのにね。皆自分のことだけを大事にして生きてきたわけでは必ずしもなく、お互いに面倒くさいことを求めない、嫌なことはしなくていい、貴方は自由に生きていい、という優しさと気遣いを持って生きてきただけなのに。
だから格差社会っていうのは、世代間や地縁血縁の相互扶助と承認が機能しなくなった、今の核家族・孤立家族といった家族社会の拡大版だと思う。