はじめに、これは母親と娘(私)の話です。ブログを書くことが本当に久しぶりなので、元々文才の無い自分が書くとさらに読みづらいと思います。すみません。
母親との関係に悩みが尽きないと感じるようになったのは、ここ最近のような気がしていた。
ずっと、"それ"は繰り返されていた。
諦めのような、虚無感を含んだったこの感情は、幼い時から繰り返し感じていた。
私は"それ"を知っていた。
いつも走っていて、時々転んでは汚れた服のまま、また駆け出しているような子だった。
あまり記憶が鮮明ではないが、おそらく仲の良い友人に彼が気になると話していたのだろう。
母は、私が彼を好きなことをいつの間にか知っているようだった。
ある日、お迎えに来た母に「〇〇くんはどの子?」と聞かれたのだ。
私は無邪気に指をさして母に教えた。
その時、左斜め下から見た母の顔を覚えている。
眉をしかめて、口を少し開けたまま、「そう。」とだけ呟いた母は、明らかに嫌悪を私に示していた。
悟った。ああ、母の機嫌を損ねてしまったと。
母の機嫌を損ねることは私にとって何よりの恐怖だった。
おそろしいことに、それは今でも。
小学生の頃、着て行く服は母が全部選んでいた。
天気、気温、行事、学校帰りの習い事。あらゆる条件をクリアする服装を毎日ぴったりと揃えて準備してくれる。
私は母の選ぶ服が好きだったし、母曰く「上品で程よくキュート」な洋服を友人に「似合っているね」と優しく声をかけられた日はとても嬉しかった。
きっと忙しい日もあったのに、毎日毎日準備をしてくれたことに感謝している。
ただ、一度私が着たいと思った服を「似合わない」と言われた時に、私はとても怖くなった。
可愛いな、と思って店内で無邪気に手にしたそのワンピースを「変よ」と一言、それだけで怖くなった。
「いいね」と言って、母もこちらに寄ってきて一緒にその服を手にしてくれると思っていた。
でも違った。
文章にしてみると、ただそれだけのことなのに、私は自分の感覚すべてが間違っている、と強く思った。
中学、高校は制服があったので母が毎日服を選んでくれる習慣は無くなったが、例えば友人と出かける時に服を選ぶと必ず私は母に「どうかな、この組み合わせ」とつとめて明るく聞いた。
「似合わない」「違うと思う」と言われたらどうしよう。
「いいと思う」と言われる日もあったし、「スカートの丈がおかしい(母は膝が見えるスカートのことをおかしいと言う)」とそっぽを向かれる日もあった。
たいていの場合、バツをつけられたアイテムはすぐに他のものに変更していたが、どうしてもそれを着たかった時、別の組み合わせでプレゼンする。
初めて言われた時、殴られた方がマシだと思った。
10代の私にとって、大きな壁を作られたような、それはそれはとても恐ろしい体験だった。
すぐにすがった。「やっぱそうだよね。どこかで見た感じをまねしたかったんだけど、違うよね」「やっぱり私センスないから、これやめるね」と。
ただ、ここで母の機嫌は元に戻らない。
もう、こちらの声は聞こえていないのだ。
ツーン、と。こちらの顔を全く見ない母の"それ"は大人になればなる程長くなる。
大人になると「もうその服は年齢的にきついと思う」とよく言われる。
気に入った服、お金を貯めてえいっと気合を入れて買った服、家族には話せていない思い出がつまった服。
みんな色がなくなったみたいにして、ゴミ袋に入っている。
私が些細と思っているだけで、母には大きな出来事かもしれないが、私にとってそれは静電気くらい、突発的にパチッと起きる。
金曜日、帰りにこれを買ってきてほしいと頼まれて、無事購入し帰宅してみると頼まれたものが冷蔵庫に入っていた。
「これ買ってきたよ?」と購入品を見せると、「たまたま出かけることになったから私が買っておいたの」と言う。
ここで、「そうなんだ。ごめん、私も買っちゃったから冷蔵庫いっぱいになっちゃうね」と謝るべきだった。
だけどその日ひどく疲れていた。
「連絡してくれたら買ってこなかったのに」と言ってしまった。
アウトだった。
この会話で、私は週末ずっと脅えながら過ごすことが決定した。
普段はテーブルにランチョンマットかお盆を置いて食べる夕飯時、私がそれらを準備する前に母はドン、と音を立てて食器を置く。
高校生の頃突然のことに驚いて何も言えず、立ち尽くす私に目もくれず、母は不機嫌をアピールするように食べ始めた。
時々、はあと大きなため息や、小さな舌打ちが聞こえる夕飯は心臓が苦しいだけだ。
「いただきます」と合掌しなさいと叱っていた子どもの前で、何も言わずに食べ始めた母は5分も立たずに完食し、「ごちそうさま」も無く、大きな音を立てて席を立ち、自分の使った食器を洗い始める。
私は一人静かに、なるべく音をたてないようにして夕飯を食べる。
こういう流れになったとき、自分で食事をつくると悪化するので、静かに皿の真ん中をみつめて、吐き気におそわれながら食べ進める。
リモコンを触ってチャンネルを変えると負けなのか、誰も見ていない番組が延々と流れる。
父の仕事の関係で、夕飯はいつも母と二人だったので夕飯時は好きなドラマや映画を見ることも多かったのに、あまり馴染みのない番組をBGMに冷たい時間が流れる。
そして、食後に甘いものを食べたり、一緒に片づけをする時間はもちろん無く、
食後に片づけを終えた後、私はすぐに歯を磨き、眠る準備を整え、頭を深く下げて「おやすみなさい」と伝えてから自室へ向かう。
しかし、いつもこう言われるのだ。
「何が?」と。
喧嘩ができない。
投げても返ってこない。
この冷戦期間、母がいるかもしれないリビングにはなかなか行くことができないので、薬が必要な時に飲めるように常備薬は自分の部屋に常に置いている。
自室へ行く前にコップかマイボトルに水を入れていくことも忘れないようにしている。
慣れてしまった気もしている。
気持ちが落ち着く香りがするものや好きな飴を自室にこっそり置いて、少しでもこの小さな部屋で快適に暮らせるように試行錯誤してきた。
でも、何度経験しても突然こちらを向いてくれない、口をへの字にした母の表情には慣れない。
おそろしいことに、アラサーになった今でもこわくてこわくて仕方がない。
こわがっていることが情けない。
でも、こわいのだ。
ずっとこわいなら、すぐに家を出ていたかもしれない。
でも気づいたら、大学も就職も県内で、はじめからそれ以外の選択肢は無かった。
母に「A大学へ行け」と言われたわけでも、「B社に就職しろ」と言われたわけではない。
それは多分、ずっとこわいわけではないからだと思う。
母はほんとうに優しい。
優しく、ときどきユーモアがあって、音楽が好きで、海外の映画が好きだ。
ごはんもとても美味しい。
私が作るごはんもすごく褒めてくれる。
働き始めて家にお金を入れる度に「自分の好きなものを買っていいのよ」と言った後、ありがとうと優しく受け取ってくれる。
優しい母が好きだ。
愛してもらった自覚がある。
あらゆるものから守ろうと、常に私のことを気にかけてくれたことに感謝している。
話は変わるが、通帳をしばらく紛失したことがあった。
仕事が忙しく、それどころではなかった時期なので、「家の中でなくしたのだからいつか出てくるだろう」としばらく放っておいた。
ある日、通帳がどうしても必要になり、家中を探した。どこにも無かった。
そんなはずはないと連日通帳を探す私を家族は心配そうに見ていた。
仕事に関して抱えている不安と、見つからないものへの不安がごちゃまぜになって、まるで狂ったかのように家中を探していた。
仕方ない、半休を取って通帳の再発行に行こうと思い、心配してくれた母にも報告した。
銀行に行き、「〇週間ほど、通帳を探したが見つからないので再発行したい」と伝えた。
対応して下さった行員の方の言葉に、私は鈍器で頭を殴られたかと思った。
おととい、つうちょうをつかっておかねをひきだされていますよ。
頭が真っ白になった。
何行かにわたって記された数字を見る。残高はほとんど無かった。
あまり覚えていないが、「勘違いかもしれない、すみません」と怪しまれる前にとにかく銀行を早く出たかった私は多分適当な言葉を並べて足早に去った。
私はまっさきに思った。
話してくれたら、いくらでも使っていいのに。
当時、あることでお金が必要だということはうっすら雰囲気で感じていた。
でも「私出すよ」と娘である私が言うと偉そうなのかもしれないと思っていたし、両親がそういうタイプの人間だと知っていたので、必要ではあるけど足りないという話はしていなかったこともあり、能天気に流してしまっていた。
いくらでも、あげる。
今までたくさんもらってきた。
私も参加させてほしい。
銀行の近くの本屋でなるべく人の少ない階の隅の椅子でこっそり泣いた。
立っていられなくなった。
あと少しで仕事に行かなければならないことと、家に帰ってどんな顔をすればいいのかわからないことで頭がぐちゃぐちゃだった。
話したらお金を出してくれない娘だと思われていたのか。
だから隠し続けたのか。
必死に探している時、不安でいっぱいな私をどういう気持ちで見ていたのか。
学生の時、同級生とのあるやりとりについて注意されてから、携帯のメールや通話履歴は見られるものだと思って使っていた。
話せないまま、外出が急に増えたことを不自然だと問い詰められる前に別れてしまう。
気になる人ができても、母に紹介する時のことをイメージしては〇か×を考えてしまう。
もう、こわい。
母ではない。
こわがっている自分がこわい。
今日も、"それ"は起きました。
来週、とても緊張することがあるから今週はとてもおだやかにすごすつもりでした。
そうしないと乗り越えられない気がしていたからです。
そのことを思うと怖くて眠れない毎日だったから、なんとか心のバランスをとって生きた今月でした。
でもだめでした。
私は家に帰り「言ってくれたらよかったのに」と言ってしまいました。
でも疲れていたのです。
言い訳かもしれませんが、ほんとうに心も体もふらふらだったのです。
ゴミ袋に入った気に入った自分の服を見て涙があふれてきたので、取り繕うこともできませんでした。
帰宅する旨の連絡をした時に返信で教えてくれたら助かりました。
もしくは「ごめんごめん」と笑って流してくれたら、もっと助かりました。
流れず、返されず、そっぽを向いて投げられたボールをずっと追いかけて走っています。
走る私の背中を監視するような目でずっと見ていますね、わかります、感じています。
だんだんと体が冷えてきました。
窓の外は本当に真っ暗で、でも部屋も真っ暗なので、まるで境がありません。
どちらが暗いのか、もうわかりません。