前回の投稿見てから仕事帰りによく見るけど知らない鳥の名前とか調べてみるようになりました。
仰る通り野鳥にはあまり関心が無かったんだけど、これからは見かけたら調べてみようって思うようになったので今後も好きな鳥の書き込みが読みたいです。
倉庫に布マスク8300万枚、政府が認める 保管費用は6億円に [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル
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東京オリンピックで「食品ロス」1か月間で約13万食が廃棄に | オリンピック・パラリンピック 大会運営 | NHKニュース
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それw
ただ...
求職者に対して派遣会社の求人が無くてお祈りメールが来ることは有るし、
ちょっと違うけど俺が書いたかと思うくらい似てる。時系列としては女友達から告白→振る→周りの勧めで彼女と付き合う、の順番。
自分語りだか、俺も30過ぎてから始めて彼女ができた。周りから勧められて付き合った。向こうが俺のこと好きだったってのが大きい。甘え上手で可愛かったし、好きだった。大切にしてたよ。
けど、お互いいい歳だったが俺は結婚とかは全く考えていなかった。元々結婚願望がなかった。いつか別れるだろうな、と思いながら付き合ってた。
そして唯一の女友達がいるところも、告白された事があるのも一緒。
女友達はいい意味で気を遣わないですむし、すごく気楽だった。告白を断ってからも一緒によく遊んでたし、手も繋いだりした。なんなら仲良くなり始めた最初の頃に一回身体の関係もある。
けど、いかにもデートスポットみたいなところへ行くのは違うかな?と思っていた。映画や飯はよく行ったけど、2人で水族館に行きたいと誘われた時は断った。女友達というより男友達の感覚に近かったんだろうな。ちなみに彼女とは全く違和感を感じず水族館やいろんなところで2人で行ったし、誰かと行くのが嫌というわけではなかった。
友達でいれば終わりがこないと思ってた。
俺に彼女ができたと知って、そこから女友達とは疎遠になった。2人でもまるっきり会わなくなった。
それから半年くらい経って、久しぶりに女友達と会うことがあったんだが、しばらく見ないうちにめちゃくちゃ綺麗になってた、びっくりした。
好きな人か彼氏でもできたか?と思ったけど、色々聞けないまま、そこからまた女友達と遊ぶようになった。ただ女友達が彼女に気を遣ってか、2人では誘ってこなかったんだよな。その距離感にほっとしたけどモヤモヤもした。自分勝手だな。
しばらくたってから彼女から話があると。彼女は結婚したかったみたいで、元々俺の気分屋でめんどくさがりなとこにもモヤモヤしていたんだろう、結婚する気はないと伝えたら愛想尽かされたわ。
結構ショックだったけど、彼女が好きだったのに、ていうショックより「振られた」ってことにショックだった。やっぱそこまで本気で好きではなかったんだろうな。
ある日「付き合ったら別れるし、やっぱり女友達とは付き合わなくて良かった」とふと思ったよ。でもそう思うと同時に、「俺は女友達とはずっと一緒にいたいんだな」とも気付いた。
今ならわかるけど、女友達のことは大切すぎて、けど自分に自信がなくて、誰かの人生に自分が責任を持つ事が怖かったんだろうな。女友達はこんな俺にずっと愛想つかさず一緒にいてくれようとしてたのに。
女友達は責任とってほしいなんて言ってないのに、勝手に背負い過ぎてた。親友みたいに気楽な相手である女友達が、自分にとって人生で大事な相手だって気付くのにかなり時間がかかった。
俺の場合は、ありがたいことに女友達がこんな俺のことをずっと好きでいてくれたようで、その後も色々あったが付き合ってもうすぐ結婚もする。
元増田も頑張ってほしい。
"好き'は人それぞれだ。
楽観論が悲観論を上回ったら実現するでしょう。そこには明確な閾値がある訳ではなく、世論、空気感、メディアの温度感、SNS上での多数派意見といったような、うっすらとした合意形成によって成り立つものと思われます。
つらい
どれほど両親から反対されてもボディビルへの熱は冷めやらず、ついには東大を中退。
その後、人の役に立ちたいとの一心で東京医科歯科大医学部へ入学するも、
やはり、「ボディビルを極めたい」との想いが勝り、またしても自主退学してしまいました。
世界選手権目前、過度の減量に散る…
自分の目標を、ボディビル一本に絞った北村の努力量は、これまでにも増して凄まじいものとなりました。
1985年のアジア選手権に出場する時などは、120kmを15時間ぶっ続けで走り抜くことにより、
14キロの減量に成功。見事、アジア選手権・ライトヘビー級のタイトルを獲得します。
その後もキャリアを重ねていき、90年代前半からタレント活動も開始。
『さんまのナンでもダービー』『平成教育委員会』などへ出演し、屈強な肉体に似合わない育ちの良い丁寧な語り口調で、お茶の間の人気者となっていきました。
うんちく好きのうんちくん
戸田市立郷土博物館に行って現物の「戸田村道路元標」を見てきました。
史料解説によると、これは昭和40年代の国道17号線(中山道)工事で発見されたもので、
現在の「下戸田ミニパーク」(戸田市下戸田2丁目12−8)付近の
旧中山道沿いに建てられていたと考えられる、とのことでした。