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2024-03-14

サルベージした日記

 私の故郷は、海抜六〇〇メートル丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。

竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。

腹が立つのフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。

 私は五人兄弟次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。

その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場経営し、腕輪やクシを作っていました。

その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。

工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。

そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。

休日は一日と一五日でしたが、それも畑仕事に追われました。

 その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。

戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。

ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。

星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。

こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。

 終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシン注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。

これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。

ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州炭坑で二ヶ月ほど働かされました。

石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。

そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。

ところが、祖国はとても住める状態ではありませんでした。

日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死覚悟日本へ戻ってきました。

一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社設立し、自転車ハンドルグリップセルロイド製造し、販売しました。

以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。

その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会から資金融資韓国人業者としては第一号だと思います

 一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています

私は、金属木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品世界ブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています

 一九六〇年頃、日本韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関祖国産業視察団の一員として、初めて祖国訪問しました。

公式の日程を終えて、私の生まれ故郷に帰りました。

懐かしい山河景色幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。

その感激もさめやらぬ時、町からキロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。

故郷のために何かしてやりたい》という衝動かられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして

事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木スピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。

 人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れ世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています

これまで、通産大臣府知事税務署長などの表彰を受け、韓国政府から国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます

現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています

◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイスポーツ用品製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー水泳用品を主力としたスポーツ製品製造販売し、輸出による外貨を稼いで祖国経済発展寄与しています最近中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています

 兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。

私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金支給しています

その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています

いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。

振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子夫婦韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。

三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。

 外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。

私たち韓国人は、税金人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というもの生存競争なかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。

私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。

何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。

2023-08-29

備忘録的に同和地区の話しをする

10数年前のことだが同和に触れることがあったのでここに書いてみる。

東海地方中部地方にも入れてもらえないことがある県から大学進学を機に関西へ、そのまま播州地方にて就職した。就職先は会計事務所

言葉遣いが荒い人らだな、と思いながら働くこと3年、働きながらだと資格取得がままならないこともあってそろそろ転職して地元に帰ろうかと考えていた時期だった覚えがある。ある時、税理士である所長が所轄の税務署に呼び出された。足が悪い人だったので、運転職員に頼むのだけどその時は自分しかいなかったため税務署に送っていき、ついでに集まりの場にも参加することになった。

税務署にはその地区税理士が全員集まっていた。税務署から税理士とある依頼するために集めたことが述べられ、その依頼内容は以下の通り。

現在(当時)皮革産業従事する業者からは適正に税務申告が行われていない。(同和利権地域税理士においては周知の事実

・皮革組合が全業者を取りまとめ作ったなめし革1枚いくら所得税消費税を申告しており、相当低く税額を抑えている。

・それに対して適正に税務執行がなされていないため、これを今後3年間で適正化する。従業員の源泉所得税個人の贈与、相続税も同様である

税理士の方々は3年間で各業者に記帳指導を行い、適正な税務申告を行えるようにして欲しい。

・3年後に順次税務調査に入る。これは確定事項である

・まずは見せしめ的に(ここまで露骨表現はしていないが)事業規模の大きい業者2人に税務調査に入った。その修正申告額は数千万である

この後各税理士事務所規模に見合った業者数が割り当てられ、自分が勤めていた事務所には加工業者も含め7,8人が割り当てられた。

ここで「人」としているのは節税を考える必要がないため、全業者個人事業者だったから。

帰りの道中で所長から聞いたが、この辺りで皮革産業に就いているのは全員同和。今は下水道が整備され多少匂いが消えたが、かつては非常に匂いがきつく、それもまた差別の一因になっていたこと。市内のとある地区は大きな家ばかり建っているが、そこに同和地区の人々が住んでいること。この辺りの幹線道路沿いの土地の多くは税金優遇され蓄財した同和地区の人の所有であること。基本的金持ちであるため、そこも余計に差別が固定される要因ともなっていること。

他に、ある程度偏見は無くなったが、同和以外の人はその地区の人との交際は未だに反対される。数年前まで放課後に同和地区小学生は別途集められ特別授業があったこと。(内容は不明

インターネットでもこの辺りの話しは出てこないので記録として残す。

記帳指導は難しい作業だったけどこちはまた機会があれば。

2022-12-27

インボイス制度について私的メモ

2023年(令和5年)10月1日より施行されるインボイス制度についてレクチャーを受けたので忘れないうちにメモしておく。

この日記を書いた増田本人は税理士ではないので間に受けないように。



インボイス制度(適格請求書等保存方式)とは


インボイス(適格請求書)とは


適格請求書行事業者になる条件


登録申請書提出の期限


適格請求書行事業者になるべきか否かの判断

  • 正解はない
  • 事業者の置かれた状況による


適格請求書行事業者になることで生じるデメリット


適格請求書行事業者にならないことで生じるデメリット


適格請求書行事業者にならなくともデメリットの生じない例


インボイス制度消費税簡易課税制度

簡易課税制度とは


簡易課税制度メリット


簡易課税制度デメリット


インボイス制度の経過措置

経過措置期間の課税選択届出書の提出不要


簡易課税制度選択届出書提出に係る経過措置


免税事業者から課税仕入に関わる経過措置
期間 控除割合
R5.10.1〜R8.9.30迄 80%控除可能
〜R11.9.30迄 50%控除可能
〜R11.10.1以降 控除不可


その他の経過措置(案)


適格請求書行事業者登録申請e-Tax


適格請求書行事業者になったら

確認事項
  • 適格請求書必要とする取引先は誰か
  • 自社で発行している証憑で「適格請求書等」に該当するものはどれか
  • 何を「適格請求書等」に変えて何をそのままにするか(たとえば別票としての明細書が適格であれば請求書本票は不適格でもよい)


作業事項


最後

適格請求書行事業者になるべきか否かの判断に正解はない。各事業者の置かれた状況による。


2022-08-03

anond:20220803214101

うるせえよ。あほ。これ以上俺の精神衛生状態悪くすんな。

あ〜、クッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソクッソ。今ごろ20代地方税務署長警察署長経験し終えて、50代の高卒顎で使いながら馬鹿政治家操ってるはずだったのに。

2019-12-16

昔はデスノートの御神をみて「検事でこんな変人いない」と思ってたけど

韓国空港で暴れたキャリア官僚

ヘイトスピーチが得意な税務署長教授を見ていると

いたって普通検事であることがわかった

八神ライトあんな考え方のエリート普通ぽいな

LGBT生産性がないから殺せときっと警察官の全員が思ってる

 
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