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2020-12-28

気にしすぎだと思う。

ヴィクトリアシークレットというブランドがある。

下着ブランドらしい。ティーバックが多いようで、黒のレースヒョウ柄などセクシーものが多いようだ。

この下着を妻がこの数日で何枚も買っている。局留めで。

妻は28歳、専業主婦になり、5年ほど経つ。子供幼稚園に通っている。僕は出張でほぼ家にいることがない。

妻は自己顕示欲が強い。インスタグラムには友達に知らせていない趣味アカウントがある。首から下を写したファッション用のアカウント。以前は顔出しをしていたが、以前喧嘩した際に顔出しはすべて消した。妻の情報管理能力では自宅バレ必須だったからだ。

しかし、そのアカウントは作り直したわけでもないので、以前からフォロワーは大体の家の位置を知っているだろう。なぜ災害時、避難所からインスタを更新するのか。

タバコを吸い始めたなと思えばタバコを吸う自分をパシャリジャケットを買ったなと思えば玄関の外でパシャリ。これはご新規さんにもバレそうだ。

そんな妻が下着を買い出した。局留めで。

何を考えていると思う?僕は考えたくない。

泉里香とほぼ同じプロポーションで顔もフォロワーたっぷりつくぐらいには可愛らしい顔をしている。どうか、自身へのご褒美であってくれ。

2019-10-29

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732 の続き

下着広告って性的じゃないの

少し脇道にそれて、下着広告について考える。街に下着広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスター掲示するわけではない。しかし一方で、下着広告性的であると受け取る人間存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である

赤十字ヴィクトリアシークレットコラボレーションを行い、下着姿の女性献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性下着広告から切り離した場合、それは過度に性的存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来性的であり、下着宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在日本においては、下着宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意今日日本で得られているかというと、下着というのは、日常生活でほぼすべての人に必要からであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在日本において、という前提である宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。

このような合意が、他の性的表現と比べた場合一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的露出度などを基準性的表現判断することを是とする場合、「下着広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈理解する力が弱い子供にとって、下着広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告性的意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着広告露出度基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着広告性的に見るためのものではないので、勝手性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。

この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着広告ポスター規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなた下着広告ポスター規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんポスターに対する批判バカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないもの勝手エロく見るほうが悪い」といえば問題解決するだろうか。

ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。

かわいい、綺麗、エロ

ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃん性的表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。

1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃん性的である、というポスター批判派の指摘には、一定妥当性がある。

2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋一般的表現になっている世界において、宇崎ちゃんちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれ場合、宇崎ちゃん性的意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃん性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないもの勝手エロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋性的表現ではないという前提は、現在日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。

実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツ一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋猫耳ぐらいのカジュアル属性かもしれない。また、乳袋韋駄天靴下は極端にしても、絶対領域ミニスカート胸の谷間おでこ猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに一方的責任押し付けることが難しくなる。

これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図表現者に存在たかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。

今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識であるオタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。

繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。

多様性尊重するべきなのではないか

多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスター性的であったとしても、「そういう表現好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護からはこのような世界理想とした言動が見受けられる。

しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスター女性差別問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断努力とはこういうものなのだろう。

宇崎ちゃん性的であるとして、そこをほじくる意味はあるのか

ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスター女性差別性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題存在するのではないかという指摘である私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんポスター性差別問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味であるしかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカル対応する必要がある。論者自身姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。

ずっと譲歩していたらブルカみたいにならないか

極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出性的とみなす言説が現れたとしても、現在日本において多数派同意は得られないであろう。

差別の苦しみを知るのであれば

ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたときその男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由ハイヒール強要されることを良しとしないのであれば、ある男性男性という理由だけで責任押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。

ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。

違いすぎる前提と背景と強い言葉(内容がメタ化してきたぞ)

ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会階層年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定グループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性倫理的良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。

インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回り男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。

以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲のものであるしかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイング戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。

まだ続くのすごない?

https://anond.hatelabo.jp/20191029133051

 
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