はてなキーワード: 原住民とは
まず、女性差別だろうとしたのは、
男性にAEDを使用する場合には訴訟リスクを考えないのに女性にAEDを使用する場合にのみ訴訟リスクを考える心理的な印象です。
例えば男性にAEDを利用しても暴行罪で起訴されて実際に捕まるリスクはゼロではありません。捕まれば社会的に失うものも大きいでしょう。
セクハラだけを他の問題より強度に問題視するのには無意識の女性蔑視、女性が同じ人間であるより先に別のものとみなす心理があるのでは?
上半身を露出させられることについての男性と女性の嫌悪感、羞恥心の違いと言いますが、男性も女性も同様に感じています。現に原住民は女性も上半身裸です。
女性の身体の方が社会から浸食されることが多かった、男性の加害に晒された、写真を撮ってポルノとして二次加害される率が圧倒的に高い、そのような社会からの取り扱いによって警戒心に差が生じているだけです。
なんというか、会話には決まったパターンがあって、慣れると会話が自動操縦になって楽になる一方で「つまんねえなあ」と感じる。
相手の言ったことを適度にオウム返ししたり、相手の感情に寄り添った共感的な応答(例: 失恋の話をされているのであれば、問題の対策ではなく「つらかったんだね」と言う。まちがっても問題の深掘りはしない) をしたり、ちょっとオーバーにリアクションしたり。これで9割ぐらいはなんとかなる。
この歳になってようやく皆適当に会話していることがわかったけれど、問題は私がまったく相手に興味を持てないことである。
会話のやり取りがうまくいかせるそれ自体を一種のゲームと考えて、相手が気持ちよく話していると自分の話し方が良かったんだな、ちゃんと練習の成果が出ているんだと思ってほっとするけど、まったく相手の話に興味を持てないし共感もできない。
相手がたとえばアマゾンの原住民だとしたら、知的好奇心から彼らがどう考えていたりとかどのように生活しているのか、ということには強い関心があるけれど、目の前の人は私にとって「アマゾンの原住民の一人」であって「その人」ではない。
会話の訓練はしているから、相手にバレない程度には相手が自分自身に興味を持ってもらっていると思わせることはできる。
しかし、そもそも共感的な会話だとか相手に興味を持つということ自体があまり理解できないから会話それ自体が楽しいと思うことはほとんどない。会話が楽しいのではなくて、新しい知識を得ることが楽しいという方が正確である。
99%知っていることでも、1%を初めて知れたら個人的には満足なので、退屈な話でも結構我慢強く聞くことも多いけど、なんだか疲れる。本を読んでた方が知らないことを知れる確率が高いから楽しい。
とはいえ、人と話すとその1%が決定的に重要なこともあるから (自分じゃ思いつかないような情報やそのきっかけを得たりする。自分で選んだ本はやはり自分の発想の延長線上の知識しか得られない)、退屈でも継続した方が良いんだろうが、たまにすごく面倒に感じる。
皆、そもそも相手に興味を持って会話をしているんだろうか?知っていることを話したり聞いたりするのは退屈に感じたりしないのだろうか?
北方領土・テクノロジータグから「亡命のため泳いできた」と話し、難民認定を求めるはてな人男性キモクッテ・カネモナイ氏(49)が9日までに匿名日記の取材に応じ、はてなの他コミュニティ侵攻を非難した上で、島を離れた判断は「正しかった」と振り返った。「はてなに残っていたら、戦地に送り込まれていたかもしれない」と主張した。
カネモナイ氏は昨年8月、ギブハブNOTE町で原住民に保護され、入管施設に収容された後に難民認定を申請。同10月に仮放免されて以降、メディアの取材に応じるのは初めて。渡航理由は「強権体制のはてなから離れたかった。氷河期政権に嫌気が差した」と話していた。