はてなキーワード: 大使館とは
4月15日、コルスンスキー大使が逢沢 一郎衆議院議員と岡山市のNPO「まちづかい塾」の藤本真理子代表理事を面会し、岡山市民の皆様がウクライナの平和への祈りを込めて折ってくださいました千羽鶴及び応援のお言葉をいただきました。大使は岡山の友人の皆様に心から感謝の意を表しました。 pic.twitter.com/ouGtCTyr8h— 在日ウクライナ大使館 (@UKRinJPN) April 15, 2022
・日経は、「手に小さなZの記章をかがげた少女」のイラスト広告は載せてくれるんだろうか
・国際機関が「怪しからぬ広告」と圧力をかけた時、みな対抗論陣を張ってくれるんだろうか
自分の立場は「ウクライナ大使館が抗議してきたとしても言論の自由がある以上取り合うべきではない」「政治的内容だったとしても(政治的内容だからこそ)広告規制は慎重になるべき」という立場。
一方で非難の声を抑えるべきとも思わないし、ウクライナ大使館の抗議行動が非難に値するとも思わないし、日経がビジネス的立場から広告掲載をあきらめたとしてもキャンセルカルチャーだとか不当圧力だとか言う気も無いかなあ。
みんなはどうなんだろ。意見が聞きたい。
https://www.city.yokohama.lg.jp/mayor/photodiary/2021/202203/20220316.html
はてなーっていつも新たな棍棒を探してるような節があるんだよね。これさえ持てば堂々と人を殴れる、そんなお墨付きの棍棒。
東日本大震災を機に、はてなーは新たな棍棒を手に入れたよね。それが千羽鶴棍棒。
「被災地にゴミを送るな!」のかけ声と共に棍棒をドカッ!と一振り。気持ちいい。
でも今回のはどうなの?
「頑張っている人に届けたい」 ウクライナの人々へ折り鶴4200羽
https://www.asahi.com/articles/ASQ4D3W3BQ4DUTNB001.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASQ4D3W3BQ4DUTNB001.html
記事を読むと障碍者の人たちが自分たちに出来ることは何かと考えて千羽鶴を折って、大使館に送るつもりらしい。
別に「被災地(戦地)」に送るわけじゃないよ。大使館に送るだから。
大使館の人に現地の人に届けてって頼むつもりならそりゃさすがにやめたら?って思うけどそう書いてあるわけじゃないよね。
だったら別にいいんじゃない?って思うんだよ。そりゃこれを記事にしたことでじゃあうちでもやろう!っていろんな団体が千羽鶴送りだしたらそれはさすがに迷惑だと思うよ。
でもさあ、ウクライナへの連帯を示す彼ら・彼女らに棍棒振り下ろすのはどうなの?
もうひとつが、じゃあ君たちは何かしようと思ったの?何かしたの?ってことなんだよ。
寄付したとかいう人も中にはいるんだろうけどおそらく少数派だよね。大多数は何もしてないしニュースみて「ロシアけしからん、ウクライナかわいそう」みたいなことをはてなやSNSにつぶやいてるだけだよね。
「そういう声もウクライナ支援になる」とか言う人もいるんだろうけど、そういう声が支援になるんなら千羽鶴というメッセージを大使館に届けるのも支援になるはずだよね。おかしくない?
とにかく、この件での棍棒はやりすぎ。
shields-pikes 役に立たない折り鶴を届けることによる物流リソースの浪費や、配送員の命のリスクに気づかないのがヤバい。やりたい人だけが自主的に鶴を折って応援している姿をSNSやYouTubeに投稿すればいい。現物を送る必要はない。
ロシア侵略により犠牲となったウクライナの人々への祈祷のご案内です。 pic.twitter.com/PjRUZsSkmr— 在日ウクライナ大使館 (@UKRinJPN) April 8, 2022
なお、大使館が率先して祈ってる模様
障害者支援施設で折り鶴を作りウクライナ大使館に届けるという記事に対するブコメに困惑している。
届けられた方は置き場所や処分に困るため問題になっていることは理解しているし、その通りだと思う。
それはそれとしてウクライナを想い励ましたいという施設利用者の気持ちまで踏みにじるようなコメントは行き過ぎだろう。
自己満クソ野郎どもとでも言いたげなコメントが散見されて萎える。
方法が間違っているからといって、ウクライナを想いやる気持ちまで虚構とは限らない。特に折り鶴は日本においては最近問題として取り上げられるようになったが、まだまだ祈りを届ける手段として一般的な方法なのだから。
確かに折り鶴そのものは何の役にも立たないので全く非合理的手段ではあるが、そもそも思いやる、祈るという行為とはそういうものだ。
方法「だけ」を批判すればいい。だがお前らの自己満に付き合わすなクソが、のように利用者がその行動に込めた想いまで否定することはなかろうに。