横からだけどすごい参考になる
気を遣ってるのにわかってない人が多すぎ。
子供がいる人が吹奏楽部だとしたら、いない人は帰宅部くらい違う。帰宅部のやつには、辛いわーって言うし実際辛いけど、だからといって帰宅部になりたいとは全く思わない。仮に部活でいじめられたりメンタルを崩したりしたとしても、帰宅部の方が良かったとは全く思わなくて、あいつが悪いとかあの時こうできたらって思うだけ。帰宅部に戻りたいとは思わない。
親に可愛らしさ厳禁で育てられて、自分は女の子として可愛くないのだと信じ込んでた。が、実際はそこそこ可愛かった。
三十路も半ばを過ぎて、ほんの少しだけ残っている子供〜若い頃の写真を見返して思うことだ。
自分の可愛さを素直に受け入れられてたら、人生大分違っただろうな。遊んでたとかじゃなくて、自分を好きだと言ってくれた人に素直に応えることができただろう。可愛くないから出しゃばってはいけない…という謎の日陰精神もなかったはずだ。褒められた時そんなことないと言って、反感を買うこともなかった。
客観的に見て何で分からなかったのか?集合写真で見比べれば美醜なんか一発じゃん?と思うが、当時は本気で自分がぶさいくに見えてたんだよな。精神的なフィルタは馬鹿にならん。
わかる。ほんとにそうなんだよ。元増田だけど。
世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとをどうすんのと。
さすがに、公平性については、国の制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とかいっててもしょうがない。
ポリコレというのは、反省せよといって圧力かけるような動きよりは、むしろ制度としての公平性、機会としての公平性という観点に話を限定しておくのがいいってことかなと思っている。ジェンダーの問題もそうだ。もちろん、制度機会平等を「合理的に」「理性的に」討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、近代が補助線として引いた制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。
実際、それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいいのじゃないか。
俺のほうがより反省してるぜ、なんならブラックフライデーだってキャンセルするぜ、とか、そういうポリコレ合戦は不毛にみえる。
普遍的な価値を錦の御旗に、ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい傲慢と思う。
だけど、繰り返すけど、合理的にアウトなラインを引いておくということは大切と思うよ。
その合理的なラインはあくまで政府の制度という視点で限定しておかないと、市民社会の人々がお互いに印象だけでこれはセーフアウトということになると、声デカな奴の言ったもの勝ちになって暴走する、と。
以上は補足・蛇足だけど、前2件の記事を書いた意図は、そういう意図。
プルーデンス(深慮)による対話と調整を訴えたエドモンド・バークの和解演説(1775年3月22日;イギリス議会下院)は彼の保守の出発点なんだけど、
バークの和解演説は英語なら簡単に読めるし、増田が読んだ論文の背景にあるものだから、もし興味があるならprudentというキーワードあたりを検索で拾って軽く流してみるのもお勧めします。
よーしやべーやつに追加だ!
ワイは部屋にある余った服を適当に着てるけど何も言われないやで。
ワイは葉っぱ一枚やで。
ダサいって言われるのって、大体流行を追っている時なんだよね。
正直流行なんてよくわからないから、雑誌とかテレビとかYouTubeとかで見かけた服を見て、こんな服流行ってるんだ、っていう気持ちで服を買ったらダサいって言われる悲しさよ。
ユニクロで揃えろとか言われるけど、そんなのホントかよって思うし、中途半端に人に影響されている自分が悪いのかもしれないけど、