頼む……面白い増田は明日投稿するから、今すぐ前借りでブクマをくれ……苦しい……こんなに苦しんでるんだぞ?!なんでブクマを寄越さない!初めはタダ同然で配ってくれたのに……
騙されたと思って試してみてほしいのですが、
温かいご飯にかけて、食べてみてください。
テレビなどを見ていても、そんな風に食べている人はいないですよね。
でも、ほんとうに美味しいです。
試してみてください。
増田がはてぶ辞めたほうが早いんじゃね
自分では「モテるかっこいいオヤジ」でも気取ってるつもりだろうけど
モテる俺(設定)に嫉妬した奴が叩いているんだ!と思い込みたいんだろうけど、
そういう「複数の若い女性と割り切ったセフレ関係」って設定も、どうしようもなく加齢臭がする。
おっさんの夢なんだろうね。
もう見る必要がなくなったw
今年はイブが日曜なので。。。。
プレゼント渡すか渡さないかに関してはその家庭によるんじゃないかな。
俺は少なくとも毎年渡してる(貰ってはいないが。。。)
24日は家の近所のケーキ屋で素朴な感じのケーキ(子供も食べるので洋酒とか入ってないやつ)
25日はデパートで予約していた奴を受け取って帰った。
これは大人向けの奴な。
元同僚、ショップの店員、ジムで知り合った子、趣味で知り合った子、入院した時の看護師さん
今年の新規はこんなところ。セフレも飽和してるからこの中だと元同僚と趣味の子しか続いてないけど。
色恋が原因で崩壊するコミュニティは多いわけで、別に近場以外でも相手なんて見つかるのに社内でどうこうする理由が無いだけだよ。こじれたら迷惑かけちゃうわけだし。社内で色恋するなら結婚前提のお付き合いにしたいかな。そんなに犯罪者発想か?
なに言ってんだ
オタクコインが少しバズってたのでなるだけ簡潔に噛み砕いて書く。
TL;DRは「詐欺なので関わるな」です。
新しいbitcoinクローンを作るので、その初期に採掘したコインを買いませんか、という取引。
なぜそんなことをするか?
bitcoinクローンはいくらでも作れるが、採掘したコインにどの程度の価値がつくかは未知数である。
そこで、新規仮想通貨創始者の立場を利用(悪用)して、非公開のうちに低コストで一定量のコインを採掘しておく。
そして、それらの将来的な価値を匂わせて売りさばき、資金確保する、というのがICOである。
ICOの売り手は、あるコミュニティで使うので価値が上がる、どこかに上場するので価値が上がる、などと理由を付ける。
そして、新規通貨を流行らせるための初期運営費用として、ICOでまとまった金が欲しいと主張する。
しかし大半の場合、創始者はICOで得た金を持ってドロンである。
考えてみれば当然で、非集権分散化された暗号通貨に運営者など必要なく、運営資金も基本的にはいらないのである。
それではなぜICOという仕組みが成り立っているのかというと、おそらく実際に転売で利益を上げた人もいるのだろう。
しかし、明確にICOを詐欺と断定し禁止した中国を始め、シンガポールやアメリカなどもICOを規制する流れに追随しているというトレンドは押さえておいてほしい。
どのクラスにも1割程度は発達障害の子がいる。クラス編成のときにバランスがよくなるように振り分けられるから、だいたいどのクラスにも在籍する。
我々教員はその子らの対応に多くの時間を割く。それはもう仕方ない。
具体的には、友達とのトラブルの仲裁や終わらない課題のサポートである。授業中にふざけて迷惑を振りまいていれば叱る。上の空なら何か声をかける。言葉の使い方を改めさせる。
そんなこんなで心の8割はその子らの対応により削られる。まあこれはどこの学校でも同じだと思う。
不思議なのは、低学年のような小さな子供でさえ、発達障害の子がかかえる障害をなんとなく察知していることだ。うまく無視したり、世話をしてあげたりしている。だから「なんであの子だけ」というような不満はあまり出てこない。多くの子はそういうことに関して柔軟に捉えているように思う。
ただそれが差別的な態度としてさりげなく表れるときがある。一緒にグループを組みたくないなど。それを直接言葉に出したりしないところがすでに嫌な人間くささを感じさせる。なんとなく避けるのだ。だからそれを咎めることはできない。態度や言葉で分かりやすく傷つけているのであれば叱ることができるが、なんとなくもやっとした言動を指導するのは実に難しい。
我々教員はそんな発達障害の子を一生懸命に守る。守らない教員はほとんどいないと思う。一緒に過ごすうちに憐れみのような感情を抱くからだ。たぶんどの教員もそうだろう。職員室の話題もそういう子の話が多いし、その話ぶりはどちらかといえばポジティブだ。
離任式で教員が花束を受け取るとき、花を持つ子供を指名したりするが、そういう子を選ぶ教員が多い。
子供にとっては発達障害の子は煙たいかもしれないが、我々教員にとっては宝である。学校における全ての活動はその子らをどうするかということを念頭に置いて考えられている。