どのクラスにも1割程度は発達障害の子がいる。クラス編成のときにバランスがよくなるように振り分けられるから、だいたいどのクラスにも在籍する。
我々教員はその子らの対応に多くの時間を割く。それはもう仕方ない。
具体的には、友達とのトラブルの仲裁や終わらない課題のサポートである。授業中にふざけて迷惑を振りまいていれば叱る。上の空なら何か声をかける。言葉の使い方を改めさせる。
そんなこんなで心の8割はその子らの対応により削られる。まあこれはどこの学校でも同じだと思う。
不思議なのは、低学年のような小さな子供でさえ、発達障害の子がかかえる障害をなんとなく察知していることだ。うまく無視したり、世話をしてあげたりしている。だから「なんであの子だけ」というような不満はあまり出てこない。多くの子はそういうことに関して柔軟に捉えているように思う。
ただそれが差別的な態度としてさりげなく表れるときがある。一緒にグループを組みたくないなど。それを直接言葉に出したりしないところがすでに嫌な人間くささを感じさせる。なんとなく避けるのだ。だからそれを咎めることはできない。態度や言葉で分かりやすく傷つけているのであれば叱ることができるが、なんとなくもやっとした言動を指導するのは実に難しい。
我々教員はそんな発達障害の子を一生懸命に守る。守らない教員はほとんどいないと思う。一緒に過ごすうちに憐れみのような感情を抱くからだ。たぶんどの教員もそうだろう。職員室の話題もそういう子の話が多いし、その話ぶりはどちらかといえばポジティブだ。
離任式で教員が花束を受け取るとき、花を持つ子供を指名したりするが、そういう子を選ぶ教員が多い。
子供にとっては発達障害の子は煙たいかもしれないが、我々教員にとっては宝である。学校における全ての活動はその子らをどうするかということを念頭に置いて考えられている。