はてなキーワード: ニフティとは
ちょっと意味が解らないのだが、興味があるので真面目に。
「腕の安売りをしちゃならねぇ」って一般論は解るんだけど、ニフティの連中にとってこの言葉が適用されんのか?
金払ってでも技術を身につけたいと思っている者にとっては大きな機会なんじゃないかと思うのだけど、
それを会社側が言うわけにはいかない。だから大人しく引き下がったんだろうけど、
上から見たら安売りでも、下から見たら大きなチャンスだったんじゃないか?
ちなみに日本アニメ史を研究している人達から、手塚治虫はダンピングの戦犯だってのは違うんじゃね?という
問題提起をされているのをみたことがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88
元々ポータルとは、港(port)から派生した言葉で、門や入口を表し、特に豪華な堂々とした門に使われた言葉である。このことから、ウェブにアクセスするために、様々なコンテンツを有する、巨大なサイトをポータルサイトというようになった。入口、玄関という意味でエントランス(entrance) を使わなかったのは、ポータルには「豪華、堂々とした」という意味合いが強かったためと思われる。
ポータルサイトは、検索エンジン、ウェブディレクトリ、ニュース、オンライン辞書、オークションなどのサービスを提供し、利用者の便宜を図っている。
ポータルサイトのビジネスモデルは、サイトの集客力を生かして広告や有料コンテンツで収入を得ることである。1996年以降のインターネットブームに乗じて、多くのポータルサイトが乱立したが、徐々に統廃合が進んでいる。
初期のポータルサイトは自前で検索エンジンやウェブディレクトリを運用していたが、情報の肥大化に対応しきれずアウトソーシングが多くなった。
生き残りをかけて、特定の地域サービスに特化した地域ポータルサイトや、インターネットサービスプロバイダ(プロバイダ)のサービス情報サイト、育児、環境、オルタナティブカルチャー、音楽、女性の生き方などにテーマを絞ったポータルサイトもある。不特定多数のアクセスがあるだけに、こうしたポータルサイトにアダルト情報を持ち込むことの是非を問う意見もある。
近年ポータルサイトから派生した、企業「ポータル」が関心を高めている。企業に散らばっている様々なデータや情報を効率的に探したり利用するためにパソコンの画面上にこれら情報やアプリケーションをポートレットとして集約表示する技術がでてきた。画面は利用者の要求によって自由にレイアウトを変更でき、例えば社長用の画面、部長用の画面、営業用の画面、技術者用の画面など、それぞれの職種・役割に応じた最適画面を作ることが出来る。代表的な「ポータル」製品としては、IBMのWebSphere PortalやMicrosoftのMicrosoft SharePointなどがある。
http://e-words.jp/w/E3839DE383BCE382BFE383ABE382B5E382A4E38388.html
インターネットの入り口となる巨大なWebサイト。検索エンジンやリンク集を核として、ニュースや株価などの情報提供サービス、ブラウザから利用できるWebメールサービス、電子掲示板、チャットなど、ユーザがインターネットで必要とする機能をすべて無料で提供して利用者数を増やし、広告や電子商取引仲介サービスなどで収入を得るサイトのことをいう。Yahoo!やExcite、Infoseek、Lycos、gooなどの検索エンジン系のサイトや、Netscape Communications社やMicrosoft社などのWebブラウザメーカーのサイト、AOLやリクルート、Walt Disneyなどのコンテンツプロバイダのサイト、So-netやBIGLOBE、ニフティなどのネットワークプロバイダのサイトなどがそれぞれ強みを生かしながら激しい競争を繰り広げている。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A1%BC%A5%BF%A5%EB%A5%B5%A5%A4%A5%C8
portal site
番組的には簡単な表現のほうが良かったんじゃ?
http://anond.hatelabo.jp/20081206220423
はっきり言ってあいつらはクズなのである。
はてなと自分を同一化し、はてなすごい=俺すごいとオナニーしている。しかもその自覚すらないのないのだからよけい醜悪だ。
本人にそれを言うと必死に否定するが「はてなSUGEE!」と言っている人間を馬鹿にすると何故か「はてなはキミが思っているよりもすごい。はてなを悪くいうな」と返ってくるので苦笑してしまう。「自分」への批判が「はてな」への批判へと直結してしまっている。これははてなと自分を同一視しているからに他ならない。
「はてなSUGEE!」は「俺SUGEE!」でもなければ、これからのはてなの未来の雲行きさえも悪くしている。
何故なら過去の結果に対しての「SUGEE!」と溜飲を下げているだけで、これからの結果を出そうという努力を放棄しているからである。いわば「ニフティサーブのあやしいワールド」を「昔はよかった」とだけ言うノスタルジー中年と同質であり、その空気が未来を担うゆとりにまで侵食しているという証が「はてなSUGEE!」なのだ。
ノスタルジーが蔓延した先に待っているのは前に進もうとしない停滞である。
停滞しているからコピペ化させてまではてなの凄さを再確認したいのか(再三するがキミが出した結果でもないしキミがすごいわけじゃもちろんない)、過去を憧憬するから停滞してしまうのかは卵と鶏の話になるが非常に危ない状態であるのは間違いない。
それだけじゃない。「はてなSUGEE!」の怖さは他にもある。そして、それは何千年にも渡って文明を発展させてきた我々にとって断じて否定しなければならないものだ。
「はてなはSUGEE!」「はてなに生まれてよかった」「はてな人の俺はSUGEE!」……これは立派な差別主義の萌芽である。
これは「(他国に比べて)はてなはSUGEE!」「(他国じゃなくて)はてなに生まれてよかった」「(他国の人間に比べて)はてな人の俺はSUGEE!」という含みが入っている。それは外国人を排除するという今の国際状況からじゃ考えられないものだ。キミたちはついこの前オーストラリアの白豪主義を笑ったばかりじゃないのか?
後ろ向きかつ差別主義を隠さない国がどうなるかなんて明白だ。滅亡に決まっている。
もっと言おう。この「はてなSUGEE!」は同じ2ちゃんねらーが嘲笑うスピリチュアリズムと同じである。何故か?
それはスピリチュアリズムが人間の資質は前世によって決まるとしているからである。この「前世がすごいんだから私もすごい…クッ、俺の左手よ静まれ…ッ」という考え方はそのまま「先祖のはてな人がすごいんだから俺もすごい」と一緒だ。どっちも自分のすごさの立脚点を自分と関係ないところに置いているのだから。さらにはスピリチュアリズムは「前世がダメだからこいつもダメ」という考えを孕んでおり、江原はこれを臆面もなく「霊的絶対差別」とまで言っている。「はてなSUGEE!」も「はてな人じゃないからすごくない」という転化をし、これは間違いなく「国的絶対差別」だ。
二度言うがこれは現代社会が絶対に受け入れてはいけない考えだ。絶対に!
以上のように「はてなSUGEE!」は絶対に認めてはいけない思想なのである。キミたちはコピペを読む前に本当の自分と向き合い、どうやったら自分をセルクマできるかを考えた方がいい。そしてはてなが好きならば「はてなSUGEE!」などという後ろ向きな考えを捨ててこれからのはてながさらにすごくなるように努力すべきだ。
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あんまおもろくならんかったけど、まぁいいや……
「はじめてのC お試し版」
id:hajicさん。
俺はプログラムできないけど、ニフティサーブでダウンロードしたフリーソフトが、LSI C 試食版で作られていたことが良くあったので、はてブで上記のはてなダイアリーが注目エントリーに上がってくると、ついプログラム関係のブログかなと思ってしまうから。
http://anond.hatelabo.jp/20081001002009
1年前の今日、ある人と再会した。
その人は、僕よりちょっと年上だったけど、
出会ってから2,3年以上たってから、
あるとき突然、僕はその人のことが好きになった。
彼女に会えるのだったら何でもする。
二人きりで遊びに行こうと誘って、
何度か一緒に出かけたこともある。
当時、既に解散していたけど、
一緒に来てくれた。
僕が使っていたお古のマックを売ることになって、
彼女の自宅に行って設定したこともある。
これは後から気づいたのだけど、
僕は大学時代の後半になるまでに、
何人かの女性と交際のようなことをしながら、
誰とも本気の恋には落ちていなかった。
だからだと思うけど、どの女性とも長くは続かなかった。
そして、今だから分かるけど、
告白してフラれることになった。
正確には覚えていないけど、多分4回以上告白して、
そのたびにフラれていたと思う。
何回目かにフラれた時、
彼女に言われた。
「将来ある人だから、私にはもったいない」
「XX君には、もっと若くていい人が見つかるってば」
単に振るときの言い訳にすぎないと思うけど、
どうしてか分からないけど、この2つの言葉は凄く耳に残った。
正直言うと、躊躇するほどの年の差だったけど、
彼女がいった「もっと若くていい人」という一言が、
そして、その若い女性は、今は僕の嫁さんだ。
人生を変える次の恋へ繋がった。
いつからか、IT業界で営業をやることになったけど、
今思えば、彼女に売ったマックが、僕が最初に売った1台だった。
「将来ある人」なんてありきたりの言葉だけど、
僕の心の奥には、その一言が今も残っている。
時が流れて、僕は結婚後に転勤で、
そして、1年前の今日。
秋晴れの、気持ちがいい休日、
珍しく、出かけようと嫁さんを誘い、
特に観光施設でもないけど、その場所を目指した。
ドライブは本当に快適で、高速からの眺めも良く、
気持ちがいい時間を過ごして、その場所についた。
しばらく施設を散策して、屋上に上がって、
いろいろ景色とかを見て、散策を続けていた。
そして、彼女とばったり再会した。
時間は本当に止まることがある。
もしかしてと思い、目線があって、
もう30代後半になるはずの彼女は昔と変わらず美しく、
本当に気持ちがいい秋晴れの空の下で、
昔も良く身に付けていたような帽子をかぶり、
隣に嫁がいる状況で、お互いにいつ結婚したとか、
僕はパニックにならないのが精一杯だった。
お父さんと一緒に、乗り物を眺めていて、
彼女が呼ぶと走ってやってきた。
やんちゃで大変だってことを、
ちょっと方便交じりで説明すると、
その子は元気に走り回って、
コラ、挨拶しなさいと怒られた。
こちらには気づかずに乗り物を眺め続けていて、
顔は分からないままだった。
アルファベット3文字と数字5桁のニフティーサーブ時代のものだけだ。
もちろん、メールは届かない。
でも、それはそれで良かったのかなとも思う。
今も実家の近くに住んでいると言う。
そして、この施設で見ることができる乗り物を子供が好きで、
せがまれてたまに来るらしい。
一生を通じても1%未満だ。
こんな昔の恋に、こんなエピローグがあって、
10年後にこんな素敵なエンディングがやってくるなんて、
今でもたまに聴いては、思い出している。
多分、一生、思い出すのだろう。
僕は両親に育てて貰い、
嫁さんにも一杯世話になっている。
嫁さんのことは誰よりも愛してる。
人生ここまでこれた部分はあると思う。
我が家にも年内に娘が生まれる予定で、
遅ればせながら、僕も父親になる。
まだ実感はないけど、
頑張って幸せな家庭を築いていきたい。
とても迷惑をかけたと思う。
本当にごめんなさい。
でも、本当に、ありがとう。
http://dpz.cocolog-nifty.com/q/2008/06/fm_1a8f.html
時間:月 - 金曜日 19時25分-35分(DJテツヤリクエストアワーの1コーナーです)
※現地で聞いてくださっている方から情報が入りました!
「放送は「月 - 金 19:25-35」となっていますが、
実際は「月 - 木 19:25-35 & 金 18:00-10」のようです。」
どこの代理店の扱いか分からんが、ニフティは騙されてこの番組やってるんでないかと思うほど。
放送時間の連絡すらされてないってのは、どういうことなんでしょ。
同録とか届いてないんですかね、編集部には。だとしたら劣悪な代理店、制作会社だと思うよ。
(NWは持ち込まれた録音番組を放送しているだけの立場なので、そこまでの対応をするとは思えない)
本編は10分の中に「編集長」林さんと、ゲストライター、それにナビゲーターの木河淳が入ってトーク。
10分なのに2曲かかるのは、NWだし仕方ない。中心に1曲据えて長くかけるのでもいい気はするんだけど。
あと、ライターだけだと、DPZラジオになっちゃうので、仕切る人が入るのは当たり前なんだが、この木河が酷い。
もうDJとしては賞味期限切れだし、事実関東圏ではレギュラー番組もない。
過去のレギュラー番組たって、ワイド番組だとFM富士とかでしょ。
あきらかに、組み込まれているNWの番組(リクマス)から「浮き過ぎ」なんですよ。
しかも、その浮き過ぎ要因は、デイリー色だから浮いてるのではなくって、木河の取りまわし方がおかしいから。
木河はたぶんDPZについては把握できてるんですよ。ただ、進行役としては第三者の立場に立とうとしている。
それがトークの結果として『ライターを馬鹿にしてる口調』になってるから、DPZを知らない人が聞いてもイラつく。
ゲストライターを「若い衆」と呼ぶ時点でどうかしている。あからさま見下し。
お前の年齢的にはそう言いたいの分かるが、番組聞いてる年齢がどのへんか分かってるのか。
そんな殿様商売だから、仕事なくなるんだろうよ。リスナー見えてないだろ、お前。
これ、来年4月まで続くってDPZラジオで言ってたので、もう、木河は直ちに変えるべき。
http://dpz.cocolog-nifty.com/dpr/2008/07/post_e4c7.html
きちっと聞き役に回ってくれる女性を入れたほうが番組も良くなるし、リクマスの分断感もまだ薄れると思う。
(本当は、NWとラインでつないで、このDPZコーナーもDJテツヤ仕切りで事前録音したほうがいいとは思うんだけど)
DPZのイメージを悪くしないためにも、ニフティは強硬な立場に出るべき。
もっと言えば、これはNorthWaveではなく、AIR-G'向きの番組だとは思う。東京のようなTOKYO FM、J-Waveまでの明確な違いはないんだから。
デザイン事務所やドライバーだって、AIR-G'聞くだろうし、農作業の方でもNorthWave聞きますよ。
でも、この時間帯だったら、圧倒的にHBCファイターズナイター聞いちゃうのかな。
そう考えると、放送時間帯のセレクトにも疑問は残る。
だいたい13歳の頃、こんな事を考えていた。
「2歳とか3歳、小学校入学の頃の事なんてほとんど覚えていない。記憶が無い訳ではないが断片的で、強く記憶に残ることや極一部の事しか覚えていない。それは子供だからだ。今の俺は少し大人になってきたから記憶する能力も上がってきている。勉強もどんどん身に付く。このまま頑張って立派な技術者になりたい。部活も勉強も頑張ってやっていきたい」
そう思うだけあって当時はかなり記憶能力に優れ、暗記モノもどんどんやれた。公立中学だったが成績も結構良かった。学年300人いたが、常に上位20番以内にいた。それなりに自分に自信があったし、結果もまあ誇れるものだった事もあり、俺スゲーみたいな万能感があった。いわゆる中二病というやつか。
高校に入ってからも順風満帆な学生生活だった。スポーツもそれなりに結果を残せたし、勉強も順調だった。いわゆるリア充ってやつだったと思う。大学へのハードルはそれなりに高かったが、目標は達成できた。大学生活も楽しい日々だった。就職時はバブル崩壊後だったが、当時はそれほど深刻な事態にはなっていなかった。就職した業界が建設業界であったため崩壊の波が遅くやって来た事も幸いした。
とまあ、振り返ってみると幸せな人生だった。今でも幸せだと思う。
ちょっとまてよと。13歳の頃、幼い自分の記憶があまりない事に関してあまり不思議に思わなかったのは、子供だったからという理由だ。しかし、思い起こすと中学や高校時代の記憶があまりない。良い/悪い含めた思い出のようなものは漠然としてあるが、ちょっとした細かい事なんかほとんど覚えていない。
実家にある、昔、遊んだゲームソフト、漫画を見てもその当時が思い出せるものもあれば、そんなモノを持っていたことすらさっぱり覚えていないものがある。当時、テニスでペアを組んでいたやつの苗字は思い浮かぶが下の名前が思い浮かばない。あれだけしごかれた部活のコーチの名前が思い出せない。さらに部員はたくさんいたはずだが10人も名前を覚えていない。
卒業アルバムなどを見ながら思い起こせば、思い出せる事もあるが、大抵のことはほとんど覚えていない。あれだけ泣き笑い喧嘩した連中の事をほとんど忘れている。思い起こしてみると、悪い事も良い事も忘れている事が多い。「お前と別れたら俺は死ぬ」とまで言っていた彼女の事すら忘れていた。
大学の頃、一緒に遊んだ仲間とたまに集まる事がある。昔の思い出話、バカ話で盛り上がる。共通する大事件のようなものはみんな覚えているが、小さな事については人によって思い入れが違うせいか、覚えていたり覚えていなかったり、解釈が違っていたりする。人によっては大事件であり、なんだお前ら覚えてないのかと信じられない表情をするやつもいる。これは俺にもあった。知らないフリをしているでもなく、本当に覚えていない。
就職して10年以上経つ。新人の頃に手がけた物件の資料を読み返す事がある。同僚とつかみ合いになりながら進めた仕事なんかもあった。徹夜徹夜で図面を書いたものもあった。でも今となってみればそういう事もあったなあ程度にしか思えない。場合によっては、本当にこれ俺が書いたのか?というような資料もある。忘れている。
忘れているつもりなんて全く無いのに、けっこういろんな事を忘れている。そういや昔、ニフティというパソコン通信をやっていた。そこのフォーラムというところで様々な激論をした。詳細は伏せるが、顔真っ赤で涙目になりながら徹夜で反論した事もあった。しかし、今思えば、そういう"顔真っ赤"は覚えているが、何をそんなに熱くなっていたのかはほとんど忘れている。
忘れたことはほとんどが思い出に変換されている。事実よりも、その時の感情が記憶されている感じ。こう書くと女性に思われるかもしれないが私は男である。ぼんやりとした雰囲気の記憶になっている。集中して思い出すとそれが思い出から、客観的な事象に解凍される。思い出アーカイブだけが蓄積されていっているような感覚。ファイル名は「良かった」「悪かった」というようなハッキリしない名前。
そう考えると、ささいな事なんてほんとにどうでもいいんだなと思えてくる。しかし、様々な積み重ねがその生きている時間の思い出となって蓄積されていくから、辛いことばかりだと「悪かった」ファイル名ばかりが並ぶ。
俺はオッサンで、昔にニフティサーブというパソコン通信に入ってて、HP200LXという電子手帳(PDA)を今でも使ってて、このHP200LXは既に製造終了になってるんだけど、その昔に製造終了がアナウンスされた時に、製造終了しないでという声でパソコン通信のフォーラムは盛り上がって、でも製造終了するのは仕方がないことでメーカーが撤回することはなかったんだけど、そんな折に、じゃあHP200LXのようなPDAをユーザーの手で作ろうという話で同じフォーラムが再び盛り上がって、つまり、基板や外装やらを皆の力で設計するという、みんなの力を合わせればメーカーでなくてもPDAができるという素晴らしい話で、それで実際に部品を調達して、基板や外装やらを自力で設計し、PDAが完成したら希望者に有償配付するということになって、そのための会社を作ってPDAの代金を一人当たり8万円以上を先に支払ってもらって合計6000万円以上のお金が集まったんだけど、、、基板開発が成功せず結局PDAは完成しなかったんだよねー、、、というプロジェクトをHP200LX使いの者として知っているので、俺はネットの有志が集まるプロジェクトにいささか懐疑的なところがあって、MorphyOneプロジェクトは設計者の不作為に非難が集中したんだけど、出資者でも予約者でもなくて2chも見ないですっかり話題から離れていた俺からすると、もしかして彼はうつ病だったのではなかったかと勝手に想像したりしてて、そこまで一人の人に過度に負担を強いたのは何かが間違っていたと、決め付けて妄想を走らせたりするんだけど、彼がうつ病だったか否かにかかわらず、MorphyOneの失敗はプロジェクトを管理する人がいなかった点にあるのだろうと俺は考えていて、それは別にMorphyOneに限らず、ネットで見聞きする有志の会の失敗にも当てはまるんだろう、ということで、今はMIAUという有志の会ができたようで、メンバー見てるとプロジェクト管理に長けている人っているかどうか分からなくて、無責任な第三者としては外から見ててマネジメントはされているだろうかとお節介ごころで思ったりして、俺が関心なかったfreekanekoのように今はどうなっているか分からず、立ち消えじゃないかと思われるような会になったりはしないかと懸念もするので、MIAUに必要なのはプロジェクトを管理するマネージャだろうなと。
先日カート・ヴォネガットが亡くなったことで、「はてなダイアリー」の「ice9」について思い出した。
はてなに入って、よけいにインターネットとはどういうものか、つきつけられたような気分になった。ぼくはニフティが嫌いだったのでインターネットが好きになれたんだと思っていたけど、今、インターネットで一番注視されて、仕組みが強化されているのが、ぼくが嫌いだったところばかりなので、嫌だなあと思う。
話はちょっと変わるけど、ekkenさんは倫理の話をしているようにも見えて、実は論理的な矛盾についてしか話していない。なぜだろう。
ekkenさんの「他人の俺ルールを指摘しつつ自分の俺ルールに気付かない罠」というような言い方は、最近のはてなでよく見る気がする。つまり、はてなの言論は、相手が論理的に破綻しているということをいかに言うかというゲームに近づいてるような気がする。相手の言ってることをメソッドメソッドと言って、議論をパターンに落とし込もうとするのも、一部はこれが目的になっているものがあると思う。
まあ、ぼくがこういうふうに書いているのもパターン化しようとしてるじゃないか、と言われると困るんだけど、うーん、それはトートロジカルだからパスということにさせてもらいたいなあ。
なぜ論理的な破綻を指摘するのが専らになっているかというと、はてなというブログで行われる「議論」の上では、倫理という不確かな基準は邪魔なので、かなり早い段階で捨てることが可能になった*1からじゃないだろうか。
倫理という、いかにも相対的に成り立っていそうな基準を残すと、「どっちも正しい」または「どっちも正しくない」と言い得てしまうから、基準として使わないことにした方が議論は長持ちするし、面白くなる。それと、結論(勝ち負け)が作れる。それともう1つ、論理的な方が勝てる。
でも、議論のために倫理基準を棚上げするのは、論理的な間違いがないかどうかだけで消去法的に「正当性」が決定されていく危険性があって、今のはてなには、ぼくはそういうものを感じる。それは開かれた言論とは違うと思うし、イヤだなあと思う。
ekkenさんは、たとえば「お前のやっているのは下劣なことだ」とか、そういう倫理的な領域しか持たない言い方だと、ヘタをすれば目糞鼻糞みたいなことになっちゃうから、そういう言い方はしない。だから、相手のやり方自体がいい悪いとは言いませんよ、と断った上で、矛盾の指摘を行っているんだと思う。こうすると、「相手は非論理的であり間違っている」という、別の話になる。ついでに「自分は論理的で正しい」とも言える。相手の非論理性を指摘できるほどに論理的なんだ。でも、これって議論というものになっているんだろうか?ぼくは議論とか論争とか、討論とか、そういうのに疎いのでよくわからないなあ。少なくとも、意見交換にはなってないよね。お互いにとって。
本来なら、倫理は基準が曖昧であるからこそ、それにかかわる話はむしろ慎重にしなければならないし、「結論」を導き出すのを避けてもいいはずと思う。倫理を論理的な問題に置き換えることは、議論のための議論ではうまくいくけれども、本来の目的が相互理解とか意見の交換だとすれば、そういう方法が有益かどうかは疑問だ。*2
そもそも、論理だって結局は倫理や感情から乖離して築かれるわけじゃないから、この考え方はとても歪だ。そして、はてなにおいて特に発達してしまっただけの理屈なので、どこでも通用するわけじゃない(どこででも通用する理屈などない)。だから、外部とはてな内を容易に繋いでしまうはてなブックマークは、その倫理について外部から批判を浴びやすいし、擁護しにくいのではないかと考えられる。
しかし、ここで先に、断っておいたほうがいいと思う。ぼくはこれから、ボコノン教が、はてなにはびこっている思想より優れているから学びなさいとか、逆に、はてなに見られる思想の中身が、ボコノン教の教義とそっくりで、つまりはてな「こそ」がカルト的なのだとか、そういうことを書くわけじゃない。「はてなの連中は、カルトと同じだ!」などと、読者に対してセンセーショナルな書き方ができれば、ずっとこの話は簡単だろう。しかし、そういう話ではないんだ。
さて、本題に入るために、物語からボコノン教に関する部分だけを取り出してうまく説明することができるか、やってみよう。そんなことができるか、わからないけど。
結局、「連帯」なんて、どういうものであれ、「無意味」なのである。「連帯」に限らず、本来、コミュニケーションというものを論理的に突き詰めるならば、だれもがみんな、別の誰かから見ればカルト教団みたいなものなんだ。どこにも了解できる真実などなく、全員が、それぞれにとっての真実を持っている。コミュニケーションとは、わずかずつルールを積み上げて、お互いを把握していく作業だ。もちろん、どちらが正しいかを決めるゲームなんかじゃない。
ところが、はてなでは、単にはてなで築いてきただけのルール=常識を、いきなり他者に適用しようとする人が多いように思う。重ねて言うが、自分の意見が正当かどうかは、分からない。確認のしようは、どこにもない。論理的というのは、本来そういうことなんだ。
それなのに、相手が自分と同じルールを了解していないことを、「客観的でない」態度であるとして退け、そこに議論での優位性を訴えたりするのは、まさに「客観的」ではない。それは「客観性A」とでもいうような、限りなく不確かな視点だ。
ああ、どうして自分が正しいなんて、言わなくちゃいけないんだろう。自分は理性的で論理的だなんて、言うんだろう!自分のほうが一般的な考え方をしているとか、法律に適っているのは我が方であるというのは、「相手が間違っている」と言いたいだけじゃないか。突き詰めれば理性も論理もない、という深淵を覗き込まず、いつも相手だけが感情的なのだ。
やっぱりこれは、末代祟る、恐ろしい呪いなのかなあ?
はてな以外のブログサービスでは、触れあわない人たちは、ほとんど触れあわない。検索エンジンなどによって、ネット全体という括りか、狭くてもブログ界隈という括りでまとめられる。だから、サービス内部のみでのコミュニケーションの契機は、はてなほど頻繁には発生しない。昨日書いた、mixiの話にちょっと近いと思う。つまり、お互いに分かり合っていないということすら認識せずに、そこにいる。
はてなには、ぼくが知っているだけでも、キーワードがあり、「おとなり日記」というのがある。ユーザー同士を言葉で近づけようとしているってことだ。
しかし「言葉」には、本当は内在する意味なんてない。そのことが、相互理解のために使われないのは残念だ。はてなのユーザー達は、それを論争の種にすることに馴れてしまっている。「常識」を決するゲームが開始されるんだ。
君が法学を学んだ事があるのかないのかは私には知りえないのだけれども、たった30ページの日本語PDF位きちんと読めるような能力がない事だけはわかった。しかも匿名者に対する名誉毀損の成否の議論は最初の8ページまでに書かれていることから8ページすらきちんと読む能力がない事が(少なくとも私には)明らかになった。以下当該PDFから引用。
実際の事件ではすでに指摘したように、「ニフティ第1事件」をはじめ全く本人が特定できないにもかかわらず名誉毀損の成立を認めたものはない。
ここから言えることは、「判例が無い」という事であって、「名誉毀損が認められない」という事ではない。
この辺混同すると法学的にはもうどうしようもない。
また、ハンドルネームに対する名誉毀損の成否という項目で各学説が示されるが、ここでは肯定派の主張しか書かれていないので留意が必要。
山田いつ子は、ハンドルネームのみを用いた攻撃であっても、攻撃対象となった当人にとってはパソコン通信の世界で活動する上で不利益がもたらされる可能性があると説く。
町村泰貴は、さらに進めて次のように説明している。「コンピュータ・ネットワーク上の社会であるサイバースペースでは、住所氏名に表章される現実社会のアイデンティティとは切り離された仮想人格(ヴァーチャル・パーソナリティ)を一つないし複数発展させる事が可能であり、現に行われている。この仮想人格は、それ自体の名誉が傷つけられても現実社会の名誉・信用が毀損されたとは言えない程度に独立性の高いものでありうる。そしてこのような仮想人格を発展させることは、単なる現象にとどまらず、人格権ないしプライバシー権の一つとして法的保護に価いし、匿名による情報発信を禁止する法令は憲法上の問題を惹起するであろう。また、サイバースペースに他人の実名・住所などを無断で暴露することは違法と評価されるのである。」
次いで論者は自己の考察へと移るのだが、ここでも匿名者に対する名誉毀損の成否を肯定しているように思える。しかしながらそれは仮想人格に対する名誉毀損ではなく、あくまでも本人の人格に対する名誉毀損であると構成しているように読める。
インターネット上の電子会議室や掲示板を利用するにあたり,インターネット上では本人の徴表として通用が認められているハンドルネームに対して名誉毀損が行われた場合に,本人にインターネット「社会での評価の低下」が生じることは認めることができるから,これに対して保護の必要性は否定できないと思われる。
しかし,実在の人物とは全く切り離されたハンドルネームで活動する「インターネット上の人格」の存在を認める必要までもなく,あくまで本人の人格的利益がインターネット上で侵害されたとみることで十分ではないかと考える。実在しない人格をあたかも実在するかのようにインターネット上に作り上げることは可能であるが,このような創造の産物に対して名誉やプライバシーは考えられない。
インターネット上の社会的評価の低下を名誉毀損として考えるならば,名誉毀損となる発言の対象が客観的に見て実在の人格に結びつくことまでは必要ないと考える。したがって,ハンドルネーム宛ての名誉毀損であって本人と結びつく要素がないときであっても名誉毀損の成立は認めてよい。
本人との関連性は,その名誉毀損の内容の判断,つまり「本人の」社会的評価の低下が存在するかどうかの判断の際に考慮されるべきである(前述の通り全く架空のキャラクターであるならば,この意味での社会的評価の存在は認められない)。したがって,私見としては,そもそも第3者からみてハンドルネームと本人が結びつく必要はないから特定する要素の幅を広げるまでもなく,本人自らが名乗り出て特定させたからといってインターネット上の社会的評価の低下については影響ないものと考える。ただし,インターネット上の名誉毀損の相手方と本人が連結されることによって,インターネット外での社会的評価が低下するということも考えられるので,この部分については本人の加功が考慮され得ると考えるべきであろう。
上記の引用を見てもわかるように、あくまでこれは学説であり、判例ではない。
この文章を読んであなたは一体どこから「匿名が保たれている同士でのネット議論にもとづく名誉毀損というのは成立しない」ということを主張したのでしょうか。僕には見えない何かがこのPDFの中には含まれているのでしょうか。
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀