はてなキーワード: 前世とは
企業も国際化していかなければならなかったのに、時代の変化にあわせられず、新たなビジネス展開もせずに、国内でなんとか自分らが退職するまでの間なら企業の器が持つだろうと考えて前世代(昭和前半)の資産を食い潰した感じがする。
新しいことをどんどん取り入れよう、チャレンジしようとする人が少なかった。(ITについて社会、周囲を見ると「機械苦手だから」で理解しようとせず取り残されてるよね…)
いわゆる、2代目が会社を潰す、というような社会になっていたように思えます。
それを見た3代目が盛り返すという時期だと思いますが、経済界はともかく、政治が1代目から2代目に移っているだけなので足を引っ張ってくれちゃってるのではないかと。
よって、経済界は国外に逃げますね(逃げてる最中)、日本は空洞化が進み、この先は国内でノマドをやってるより、世界的ノマドが進んで、海外に出られる能力or気力のある人は幸せになれるんじゃないかと。
6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
話を法律婚に限れば、こんな感じ
もしかしたら他にも色々あるかも
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
と言うよりできません
学生時代に告白されたときは2回とも「自分の都合で無理なのです」と断りました
容姿の良くない人がみんなで遠慮をすれば、2世代ほど後には随分効果があるでしょう
100年続けば美男美女だらけの国になります
現代は社会が高度すぎて、劣等でも生き延びたり子孫を残したりしやすくなっています
そうすると相対的劣等が自主的に生存や繁殖を自粛するような仕組みが
あらかじめジーンに組み込まれていると考えられないでしょうか
余剰はそのうち将来有望な優秀な子供の援助にしたいと計画中です
一方自分や自分の子供を養えないような知能的劣等についてですが
福祉で生存や繁殖をさせていけばどこまでも問題が拡大するだけなのは
ここでは紙幅の関係で
容姿的劣等と知能的劣等についてのみ述べましたが
当然それ以外にもさまざまな面での劣等と
そういう悪いスパイラルがさ、今目の前にあるんだけど。
自分自身はそりゃ呑気なもんだけど、
たとえばmixi開けばさ、
もうやめたい、死にたいみたいなこと書いてたりさ、
こんなのどうやって希望持てよって話で。
ゆとりなのかもしれないよ。
いや、ていうかまあ多分ゆとりだよ。
世代くくってみてみればさ、
前世代と比べて至らぬ点は多いよ。
でもなんかさ、ゆとりっつってくくっても仕方ないじゃん。
それにくくれないじゃん。
クラス一つ取ったって、
上手く馴染めずにメンタル削っていくやつもいるじゃん。
ゆとりっつってもそれぞれで、
弱いヤツも強いヤツも、
馴染めるヤツも馴染めないヤツもいるわけで。
大学入って、
サークルとかにも馴染めないヤツがさ、
まず就活の時点で明らかに差を感じるし、
仮に入れたとしても、
やっぱ馴染めないヤツって馴染めないからさ、
少なくとも色んなヤツがいるからさ、
色んなヤツなりの生き方、やり方ってのがもっと分かりやすく見えてこないともう駄目。
友だちもそこそこいて、専攻やサークルも大好きで、
就活がんばらなきゃーっつって就活手帳なんか書き込んでる子のやり方とさ、
友だちもうまくできなくて、色々馴染めない子のやり方とさ、
もう絶対方法が違うし、マジョリティだからって前者に合わせるのもさ、
いや出来ればそりゃそうなればいいけどさ、実際無理じゃん。ゆとりだからさ。
それでもなんとか生きてこれたしさ。
それで就職でシングルスタンダードに合わせるとかもうなんか意味わかんないわ。
ああもうなんだこれ。
とにかく就職ガイダンスつって就活の勝ち方とかしか教えない大学は、
教育機関だろうがなんだろうが得てして糞だと思ったのね。
トラックバックしてもらえるとなんだか嬉しいですね。ありがとうございます。
いろいろ出来るけど、練習の賜物なので練習の仕方さえわかれば誰でも出来ますよ。
それなりに生きてみて、あらゆることがパターン化されてきたとか
訓練や経験、知識の蓄積で異変を察知する速さや判断力が向上するという感じでしょうか。
確かにアクシデントの予知や他人の考えを読むことについては、
感覚を磨いていけば訓練していない人が驚くような鋭さを身につけることもできそうですね。
こうした能力に限って言えば、1割いるといわれても納得できます。
本当に存在していて力を隠しているんだとしたら、変にほじくらない方がいいのかもしれませんね。
いてくれた方がちょっと夢が広がるし。
化粧板某スレより
江原堂
読み方は「コウゲンドウ」なのはわかってるんだけど、どうしても「エハラドウ」と読んでしまう。
そして同時にあのスピリチュアルやら前世やらオーラやらの江原さんが浮かんで
「江原堂のファンデーションを使うと先祖の守護霊が守ってくれます。
と、江原さんがやたらライトに照らされながらどや顔でこういう文句を並べて、信者に買わせる図を想像してしまう。
そのせいでとても胡散臭く感じてしまう。江原堂は悪くないのに。
必死に江原さんを追っ払ったら、今度は芸人のエハラマサヒロが出てきて
「え?wwまだ江原堂使ってないんだwww
ふふっwあぁいやごめんねなんかwww
でも使ったほうがいいよw」
みたいなことを言う図が浮かんで、ちょっとイラっとする。
そして絶対使うもんかと思う。
江原堂のファンの方ごめんなさい。
夜中に爆笑
娘の妄想癖が治りません。
来年中学校にあがる娘のことで悩んでいます。高学年になったのでもう自分独りで自由な空想の世界に羽ばたきたいというので、ベッドに天蓋をつけてやったのがいけなかったらしいです。 私が偶然にも現場を押さえなければ家族の知らないままずっとしていたかもしれません。
厳しく叱ってベッドの天蓋は取り外しました。それでもまだ隠れてしていたようで、先日、夫が夜中にベビーカーに潜り込んで虹色の世界に遊んでいるところを発見しました。
このままでは十代なのに前世の巫女の記憶があるとかそういう「天然少女」になってしまいそうで不安でなりません。一人娘ですし現実を見据えて育ってほしい。いつか白馬に乗った王子様に迎えに来てもらいたいと思っています。
瓶詰めの過去は前世と終末を合成した芥から成る失敗作でしかなく、秩序を理不尽にかき乱し崩壊させるだけの赤茶けた督促状にも劣る。時間という概念が空虚なる妄想だと気づくまでに費やした時間こそが虚無以外の何者でもないと悟るまでに、数多の犠牲と生贄を捧げ続けてきたことに対する罪。背負いきれぬ原罪はしかし一方で理念と抽象から出づる自我という個体の存在理由であるという認識もまた過ちにあらず。微小なる象徴が必ずしも共通意識に依存するものではなく、むしろ普遍的なる神格とそれをさえも超越した絶望と忘我の外にこそ顕現する可能性を否定できない。高々と掲げた右腕から滴る背徳の雫が、肘から脇に伝い全身を洗い清めていく錯覚に翻弄されながら、絶対的な感情に身を委ねていくのもまた一興。台地に突き刺さった両足が全ての行動を拒否し、既に木石と化していることを知覚する楽しさを、隣人と共有することを欲して止まない。枯れ果てた山野をあてどもなく彷徨いようやく見付け出した我が家は、明滅する残像の中に朧気に建っているだけの、誰にも咎められない実在だった。情念が醸しだす理想と崇高なる目的はただ故人から与えられた自己否定に過ぎず、自己実現という言葉が呼び起こす暗黒と負の情動を誰もが持て余していることに旋律を禁じえない。見えない錯覚が残像と反響を伴って眼前から一瞬のうちに消滅していったことを、ゆっくりと反芻しながら刻々と迫る新しい眠りに身を委ねていく。不可解な陽動作戦に無言で従わざるを得ない状況にあって、上腕骨の軋みが、近い未来に数多の無人に及ぼす遠大なる計画を予言している。