はてなキーワード: 原稿とは
文系のオピニオンリーダーと呼ばれる人たちと話していて、ときどき驚くことがあります。彼らには理想やビジョンがほとんどなく、ポジション取りこそ最重要事と考えているのです。たとえば『朝日新聞』の書評委員になる、月刊『文芸春秋』に原稿を書く。そんなポジション取りに熱心で、かつ、どの雑誌に書いているかで、「あいつは最近、落ち目だ」などと評するのです。
まさに実用主義そのもので、日本という部分社会における"おいしい部分"を取ろうと腐心しているように見えます。そこに「世界に届くような普遍的な思想を出そう」といった熱意は感じられず、実際そのような思想は日本から出ていません。
http://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/51991452.html
オライリー本の値段は高いが、質も高い。
自分の専門分野のオライリー本は必ず一冊は持っているのが当たり前だった。「サイ本」とか本にニックネームが付けられてそれで通用するぐらいに、とにかくオライリーの本はwebエンジニアにとって特別な本であった。そして時代は変わる。
日本語で出版されるオライリー本の価値がゆっくりと毀損する間に、技術評論社の書籍の評価はうなぎ上りだ。
うん、ここ最近ではHadoop本は秀逸だった。トレンド技術を捉えてうえで数年は価値が落ちない網羅っぷり。
まだ枯れきっていない分野で日本語オライリー本が存在感を示した最後の例になるかもしれない。
乱立するKVS分野において日本語オライリー本は無力極まりなしで目も当てられない。
cassandraがようやく出たがversion0.8だ。外人さんが書いた原本を数ヶ月から一年かかって日本語に訳し終わる頃には技術自体が進化してしまって日本語版が出版される頃には賞味期限切れ間近という切なさ。時代にそぐわないとしか言いようが無い。以前のように大型技術が確立されたら五年十年それで食えます!ってな時代じゃないんよ。PerlとかMySQLのような大型で枯れきった技術はなかなか出ない。ああそうだいまだにMongoDBの日本語オラ本は出ていない。英語ではもう4冊か5冊は出ているというのにだ。乱立KVSの先頭を走っているMongoDBについて紙媒体の情報がほとんど無い切ない状況はいつになったら変わるのだろう。
この手の話題になるとすぐ「紙が悪い!電子書籍わっふるわっふる!」と叫ぶ人がいるが問題はそこではない。英語を日本語に訳しているタイムラグが問題なのだ。そこに日本語オラ本の致命的な欠陥がある。
一昔前のように大型OSS技術が出て枯れきる、なんてことは滅多になくなってしまった。英語原本を訳してる間にも日々技術トレンドが変わってしまうんだ。なぜ日本人のほとんどは英語が読めないんだろう。文科省のせいにしたって何も解決しないけれど、webエンジニアなら英語ぐらい読めるようになれやお前ら。
おっと話がそれた。そろそろ技術評論社について語ろう。面倒なので三行で語る。
日本人のスタープレイヤーが書いた原稿を元に出版される技術評論社の書籍の評価が最近うなぎ上りだ。
特にWEB+DB PRESS plusシリーズはどれも凄まじい出来で恐れ入る。
公式サイト http://gihyo.jp/book/list?series=WEB%2BDB%20PRESS%20plus
ますます技術トレンドの移り変わりが激しくなった今、翻訳という形態の技術書の価値が無くなろうとしている。オライリーとて例外ではない。
オラの功績はすさまじいものがあるし、足を向けて眠れないぐらいなのだが、それでも俺はこのエントリを書かざるをえないぐらいに最近の日本語オラ本にはガッカリせざるを得ないのだ。
日本語の本は日本人が書けばいい。訳なんていらない。それが当たり前の時代がそのうち来るだろう。
あとwebエンジニアならいい加減英語読めるようになろう。努力すればすぐに読めるようになるさ、来年はそういう年にしよう。
じゃあおやすみお前ら。
よいお年を。
http://anond.hatelabo.jp/20111212173754
じゃあ、奥さんに「ゲームのノベライズ」を何本か書いてみるよう薦めてみなよ。
「ゲーマーが面白いと唸る原稿が書けたら、才能があると認めてやる。出来なかったら、フルタイム勤務を探すか、もっと真面目に家事に取り組むか、しろ」と言い渡してやれば?
正直、大手の長編の新人賞取ったって、それっきりの人が出る世界なんだから、15年も前の短編の賞にしがみついてても、得るものは何もないと思う。
本を読むならシェークスピア全集読破して、全部の話のあらすじ書くとか。真剣に努力する気があるのなら、やることはいくらでもある。
1日20枚書かないと本気とは認めない。とか、生活費握ってるのなら、どうとでも言いようがあるだろ?
がんばれ、元増田。
どれだけの人が、はじまって5分の映画で、涙するだろうか。
泣きすぎて頭が痛いし、呼吸困難な状態で、
まともに文章を書けない状態だが、どうしても綴りたい。
仕事を早く切り上げ、雨の中、足早に家路に向かう。
コンビニ弁当を食べながら、金曜ロードショーのラピュタをみている。
金曜日だというのに、予定がないのは嫌だなと思ったりもした。
でも、ラピュタをみはじめて、すぐにそんな思いが消し飛んだ。
この思いになれることが、
2年前と今は違う。
社会復帰して、それなりに認められ、それなりのお金を手にした。
だが、孤独感は、なにも変わっていない。
いつでもみられるラピュタ。
季節を感じながら、食べる食物のように、
時をかんじるようにラピュタを観る。
多くの人が、同じ映画をみて、違うことを感じる。
これが、テレビなんだ。
孤独はつらいけど、
これほど、せつない気持ちになれるのも、
私は、テレビ放送が終わらぬ限り、
ラピュタを観て、涙するんだろう、と思う。
時代は、変わっていき、
どうなるのかは、わからないけど。
こんな作品が作れること、
作品をみて、感じられること、
やっぱり、人間ってすばらしい、と思う。
だから、みんな、つらいけど、生きていこう。
私もつらいけど、これからさきも、生きていこうと思う。
ラピュタをみるたび、多くのことを感じたいと思う。
そして、いつか多くの人を感動させられるものを、私も作ってみたい。
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少し昔のことを思い出してしまった。
この思いを自分ひとりで閉じ込めておくことができなくなったので、
少し綴らせていただきます。
当時、私は知能が弱い方でした。
障害と認定されるレベルではないので、
そう綴ることは失礼になってしまうかもしれませんが、
詳細を書くと個人が特定されてしまう恐れがあるので、
避けさせていただきます。
イジメだけではなく、冷たい視線や同情、哀れみも受けてきました。
障害のせいかわかりませんが、私は心の成長が遅いようでした。
善悪の区別がつかなく、よく母を困らせていました。
そういったことが私にはまったく理解できず、
楽しいこと、いたずらばかりして
クラスで決める会が開かれました。
思い出に残る曲をみんなで歌いたいと
言って盛り上がっていました。
合唱曲を天空の城ラピュタのエンディング曲「君をのせて」にしたいと
当時の私は、天空の城ラピュタすら知らず
その女子を跳ね返していました。
男女合唱ができるようにしたみたいでした。
こういった歌謡曲は卒業するときにカラオケにでもいって歌えばいいんだ、
私としては、何事もなかったのと同じで
当時の記憶がどこまで正確かわかりませんが、
そのようなことがあったと思います。
この曲いいな、そういえばこの曲、合唱の課題にしようとしてた曲か、
あのとき歌えたら素敵だったろうな、と思いました。
時が経ち、私は大きく成長しました。
心も人並みに豊かになりました。
私の心には深く刻まれており、大変、価値のある思い出になっています。
私も、もう少し心が豊で
と後悔してせつなくなります。
私の心は成長したのだと思いました。
次のラピュタでは、私はどうなっているのでしょうか。
終わり。
私の近況も少し綴らせてください。
心は成長しましたが、障害の方は変わっていません。
年とともに悪化しました。
いくつかの病院にも行きましたが、治りそうもありません。
治る代物ではないので、返答に困ります。
そのおかげで、ある程度、人気者になれました。
でも、ある日それがとてつもなく嫌になってしまい、
他人とコミュニケーションを絶つようになりました。
今は誰とも接しない日々が続いています。
障害を乗り越えて何かを生みだしたいなと
泣き言ばかりで・・・。
進むべき場所や、着地点が、いつまでも、わからず。明日、これから、今、何をすべきか、わからず。ただ、情報を、右から左へ、受け流す。何を入れて、何を処理して、何を吐き出すか、わからず。ただ、目の前にあるのは、真っ白い原稿用紙。何かを書きつけるための、原稿用紙。でも、何を書けばいいかわからず。どこから手をつけていいか、わからず。
何をすべきかわからず。ただ何もできず。
ペンは机の上。音楽をつける。一曲が終わらないままに、次の曲に早送りする。いつも、二つ以上のことを、同時にこなそうとして、一つのことも出来ず、ただ、何も生まれず。そうやって生きてきた26年間が、とても無意味に思えて。それでも、何か出来ると自分に言い聞かせて。きっと自分は特別なんだと言い聞かせて。20年後に自分が何をやっているか、わからず、何もわからず。今日もまた、意味もなくインターネットを歩き回り、エロ動画を見つけ、自慰にふけ、また何ごともせずに、トイレに行って、寝るだけ。
何をすべきかわからず。ただ何もできず。
目の前にあるのは、沸いたお湯と、カップ麺と。一杯のビール。それだけ。ただそれだけを、飲んで、食べる。考えがめぐり、テレビをつけ、全てを忘れ。番組が終わり、5分間のニュースが始まると、全てが終わったような気がして、別の番組をやっているチャンネルに切り替え。何をすべきかわからず。ただ目の前の時間を食べる虫を眺め、食パンは干からび、粉をふき、カビが生えている。
何をすべきかわからず。ただ何もできず。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。何もやってないけれど、季節はめぐり、半周遅れでついて行く。何もできず、何をすべきかわからず。何かをしようと思っても、集中力がもたず、常に言い訳をして、次の言い訳を考えている。外に出れば何かが生まれると信じて、外に出て、夕焼けの下散歩をして、何かが生まれると信じて、夜が来て、家に帰る。音がほしくて、テレビをつけ、9時から始まって、何も生まれず、12時が来て、風呂に入り、また眠りにつく。
何をすべきかわからず。ただ何もできず。
空を見上げても、何も感じず、感じようと思っても、何も生まれず、また眠りにつく。
何をすべきかわからず。ただ何もできず。
世の中に出たらもっとキツいこと言われるんんだけどなぁ。どこまで甘いんだろう。そうかと思えば職員が「単位やらないぞ」と学生を脅すケースもあるし。 2011/11/22 Add Star
言葉よりも「研究指導や助言を求められた際も、適切な対応をせず、修士論文の指導では、半月前に受け取った原稿を締め切り前日になって添削指導」こちらの不作為のほうが重大。指導できないバカな教授。相当存在。 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧3 clicks Add Star
この対応のほうが問題視されたんじゃなかろか。>"教授は、研究指導や助言を求められた際も、適切な対応をせず、修士論文の指導では、半月前に受け取った原稿を締め切り前日になって添削指導をしたとしている。" 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧0 clicks Add Star
「失礼ながら…お嬢様はそのような計算もできないのでしょうか?」とか言っておけばよいのだろうな。 ⇒ 「ばか、そんな計算もできないのか」教授を懲戒 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2011/11/22Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
むしろ大学ってのは馬鹿が懲戒される所なのでは… 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
(誤)「ばか、そんな計算もできないのか」 → (正)「予め忠告しておくが、そのくらいの計算はできないと単位を落とすことがある。」: 叱責や非難ではなく、助言であれば問題にならない。 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧14 clicks Add Star
うむ…。 「ばか、そんな計算もできないのか」教授を懲戒 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧 Add Star
教授が「ばか、そんな計算もできないのか」と学生に言って一体何が悪いのか理解不能。この女子学生はトレーニングを受けているというのに。 2011/11/21 Add Star
「ブログやメルマガを数か月前に始めたんですが、どうしても続かないんですよねえ…」
という人の理由は、だいたい決まっています。
本人は「面倒だから」「忙しいから」と、執筆の時間が取れないことを理由に思っているのですが、実はそうではありません。
ブログやメルマガなどネットでの情報発信になると、大抵はパソコンを使うと思いますが、
多くの人が、パソコンの前に腰を掛けて画面を見つめてから、「さあ、書くぞー!」と思い始めます。
そうすると、何回かは書けるかもしれませんが、やがて書くことがなくなってきます。
以前書いたことしか思い浮かばなくなってしまう。書くことが思い浮かばない。
だから書ける時間がかかってしまう、だから書けずに続かない、というわけです。
小説家という職業は、机に座って仕事をしているイメージがありますよね。
机に座って、原稿用紙を前にして、「よーし書くぞー」と書き始めるように思ってしまいます。
でも、作家の多くは、「さあ、書くぞー!」とペンを入れている時には、もう仕事のうちの半分以上が進んでいるのです。
それは、構成を作ったりキャラクター造成をしたり、そしてその分野に詳しい人に取材をし、その分野のいろんな文献を用意した上で書き始めるのです、
つまり、「さあ、書くぞー!」という時には既に、準備をしたものを仕上げる状態になっているわけです。
最後に作品として組み上げていく仕事なのですから、全体としての仕事はもう終盤に差し掛かっているわけです。
モノを書く時は、書く時点では終盤でなければならないのです。
何も書く準備がない状態で「さあ、書くぞー!」とやるから、そこから何も進まなくなります。
営業日報を書くのが毎日大変だという人は、日報を開いてから「日報を書く」仕事が始まるからダメなのです。
日報を開く前に、「日報を書く準備」をする、つまり日報に書くべき内容を先に整理して置いたり、資料をこまめに集めて置いたりするわけです。
手元に準備したものが多ければ多いほど、「さあ、書くぞー!」という時には、その準備したものをササッと組み立てればいいだけなのです。
どうしてもモノが書けないという人は、「書く準備」に力を入れてみましょう。
「書く準備」が万全であればあるほど、簡単に書けるようになります。
実際に書くのは、全体の終盤でいいのです。
「さあ、書くぞー!」という時点で、既に書くための仕事がどれだけ進んでいるのか、ということを考えていきましょう。
ブログ持ってるけど、ブログはある程度書くテーマ決めてソレしか書かない。
考えずに更新できるから楽といえば楽だけど、たまにつまらく感じる時がある。
ブログ持ってると、なんかしらんけど、書かないでいるのが悪いことのように思えてきちゃうからね。
読者の目も気になるからいろいろ細かいこと気にしないといけないしね。特に他人の記事のコピペとか気を使うのでしんどい。
どうせ自分の書いた記事なんて誰もずっと読んでくれたりはしてないのにさ。
増田ではかくじゅんびができたときにしかかかない。というか書きたいって思った時しか書かない。
増田はダレがよむことを期待もせず、読者の存在を勝手に想像してプレッシャーを感じることもなく、
ただ自分が書きたいと思った時、書くことを考え終えたときに書けばいい。
楽でいいです。
ただ書きたい、ってんじゃなくかきながら文章を上手にしていきたいとか、誰かに伝えて共感して欲しいとか
そういうことを考えだした人は、まぁブログとかやればいいじゃないかな。
でもブログをかく習慣が出来る前に、増田でならすのは大いにありだと思います。
まぁそのかわり、自分をストレッチする要素もないけどな。楽すぎるってのは人の成長に良くないです。
この記事みたく、本当にそのときの感情のまま支離滅裂なことを書いちゃったり、自分を堕落させる危険もあるわけでなー。
読まれる文章を書きたいって人は、増田なんか使ってないで、しんどくても早めにブログに移行していくほうがいいと思います。
まあ、増田で書くにしても、自分なりのルールを決めて書けばいいんじゃないかな。
せめて自分の一人称やら文末を統一するという初歩的なレベルから、私には想像もつかないような厳しいルールまで。
たとえば、「ラブやん」の田丸浩史いわく、一番むかつく言葉は「ま、」とか「まぁ」らしいです。
散々偉そうなことを言っといて、すぐ「俺はどうでもいいけど」みたいなポーズを取るのは、たしかに他人からしたら気に入らないかも。
私よく使ってるので、これからマイルールで、この「ま、」とか「まぁ」ってのを禁止して文章書くように意識しようかな。
私的には結構しんどいけど、他の人はどうだろう。
急に思い出したので書いておく。
『金田一少年の事件簿』が大人気だった頃
俺もコミックスを買ったんだが、合間の作者のコラムが意味不明だった。
コラム名も確か
「六根煩悩シアター」(うろおぼえ)みたいなそんな感じで
とかなり迷って内容を含め戸惑いながら読んだ。
金田一少年のつけるペンダントにも教義のシンボルがあしらわれたりしてると知った。
信教の自由はもちろんある。
個人的には幸福の科学も笑えるから新興宗教の中では嫌いじゃない。
「子供を狙った布教」みたいな悪辣なニュアンスは感じなかった。
でも小学生のとき俺はあれが意味わからなくてかなりひっかかってたし
後年その意味を知ってかなり腹が立った。
ということを突然思い出したので書いておく。
つうか、Amazon kindle上陸の話な。
電子出版で、Amazonの取り分が55%もあるので論外だとかなんとか。
匿名としてリークさせてる記事があったり、何でそんなことになってるか、なんで出版社はそれが正しいと思ってるか、
(あくまでも友人が出版社につとめていてその話を聞いた中から)説明しようと思う。
迷惑かからない範囲でぼかすし、全ての出版社がそうではないし、危機感を持ってる若手は多いというのも念頭においといて欲しい。
まず、出版の経路から。7割を占めるのが一般書店だ。(残りはコンビニとかね)
それぞれの役割を簡単に振り返っておこう。
出版と取り次ぎだけ補足しておこう。
出版社は、紙に印刷するダケじゃなくて、編集して校正して割付して校了してと、色々調整してくれたり売り込んでくれたりと本当に色々やってる。なので高給取り。
取次が何であるかというと、出版大手5社で3割を占めるとは言っても、細々した出版社が数千社ある。数万ある本屋といちいちやりとりしてらんないので間に挟む。
で、Amazonの55%ってのが一人歩きしても変なので、まず今までの金の取り分を見ておこう。
さ、コレを見てAppleの30%が取りすぎだ!とか言ってた人は少し考えてみよう。
書店や出版社の人がパーセンテージに関してあまり触れないのは、当然この割合が念頭にあるからだ。
小売りや飲食店など、商売をした人ならわかる通り、経路が存在すれば当然その人たちに払うお金がある。
本屋は当然ボランティアじゃない。売ったらお金をもらえるからやっとるわけだ。
1500円の本を売れば、330円が本屋の儲けになるわけだ。取次は120円、著者は150円、出版社が900円。
(実際には金融と揶揄されるぐらいややこしくて酷い事になってるけど、まずは割合で)
よく、取次だとか印刷をすっとばせるから電子書籍は安くできるはずだ!と言われている。
出版社の6割の取り分のうち、紙への印刷が大部分を占めてれば確かにそうだ。でもそうじゃないことが多い。
また取次も8%なので、そんなに減らない。
具体的に1500円の本で考えてみよう。
どうだろう、安いだろうか?高いだろうか?
ただ(出版社は最後まで印刷にかかる経費の割合を出さないだろうけども)印刷諸経費は20%〜30%ってとこだろう。
電子出版なら、出版社の取り分は、さらに削ろうと思ったら削れる。
紙の本より安く売る、55%が取り分だ、かなり豪快に見える。
出版社の取り分が45%になるわけだ。
(希望小売価格から55%を引いた額となっているのは、Amazonが100円セールで売って45円払うわけじゃないよ、と言ってるのだろう)
ここで、日本で受け入れられるであろう電子書籍の希望小売価格を考えてみよう。
紙の新書1500円を電子版1000円で売るのなら、まあ納得してもらえるだろう。
1000円なら、Amazonが550円(55%)、出版社が450円(45%)となる。
ただし、出版社は著者に印税を払うから、450-150=300円(30%)の取り分になる。
ここで「あれ?印刷費は2〜3割を占めてたんだから妥当じゃない?」と思ってはいけない。元々1500円の本だったハズなのだ。
つまり、900円(1500円の60%)のうち、印刷製本が半分を占めていたとしても450円(1500円の30%)が出版社の取り分だった。
これが、300円(1000円の30%、1500円なら20%!)になってしまう。出版社は、努力しなければ達成できない数字だ。
まとめよう。
Amazonは、取次8%+書店22%+印刷25%=55%を寄越せと言ってきている。
これはまあまあ妥当な金額だ。(判型を合わせる手間で5%ってのもまあ妥当)
問題は、電子書籍は安いはずだという圧力から「希望小売価格」を下げざるを得ないことだ。
すると、割合は妥当でも、金額で一冊あたりの儲けが減る。これが難しい。
しかし、自分の出版社だけがkindleから出ないのは怖い。だから、牽制し合う。
(これに小売りである書店との関係だとか、自前の電子書店だとかが絡むと、とてもややこしい)
流石にアマゾン、日本の出版社が飲めなくもないギリギリの金額で攻めてきている。
出版社はイヤなので、55%だとか60%がすごく大きい金額だと思って欲しい。
さらに、電子書籍だからって安くならないよ、とアピールしたい。
それが今Amazon Kindleを巡る出版社の立ち位置になる。
狭いスペースにちっこい文字でぎっしりと自分の体験とそこから得られた面白いぼやきが書かれているんですよ(ぼやきだからいいんですよねこういうのって)
特にEDENは、最初は厭世的というか暗いメッセージだったのが、巻が進むごとにだんだん前向きというか明るいものになっていったのがとても印象的でした。
作品自体はひたすらどす黒い上に終末に向かっていく世界を描いているのに、本人は明るくなっていく。その対照ぶりがすごい面白かった。
リアルタイムでこの流れを読んでいて、作品とまではいかなくとも、外に向けて自分の漠然とした悩みとか鬱屈を、何らかのカタチで外に出そうとすること、
そのために真剣に考え詰めるコトってのは、自分をすくうことにつながることもあるのかな、などと思うようになりました。
ぜひ他の皆さんも、単行本「EDEN」や「オールラウンダー廻」を買い求め、単行本を読んでみてコメント部分の感想を聞かせて欲しいと思います。(マテ
というわけで遠藤さんの最新作「オールラウンダー廻」の7巻の単行本コメントを引用してみたり。
世の中の「しくみ」ってわかってる?
俺40になったけど未だによくわかんね。
かつて我が家の生業は木材店だったのだが、父が具体的にどんな仕事してるのかさっぱり分からなかったので、
高校の頃「手伝わせてくれ。そしてバイト代くれ」と申し出てみたが、何だか現場でひたすら重い角材を担がされただけだった。
次に弁当工場にバイトに行ったが、ひたすら稲荷鮨のシャリにごま油をぶっかけてかきまぜる、という作業を続けるだけで、
これが1パックいくらで売られ、利益がどう分配されるのかさっぱり分からなかった。
さらにイタリア料理店でバイトしてみたが、ひたすら鍋を磨いたり、バジルソースを作ったりしただけで、
なぜ親方が俺の後頭部を包丁の柄で殴ったり、ローキックして来たりするのか分からなかった。
今、漫画家をやっているが、この原稿がどういった行程を経て印刷されて本屋に並ぶのかよく分からないままだ。
若い頃は、世の中のシステムが分からないことが不安だったが、今は何となくわかった振りをしていて、今のところは差し支えない。
まぁ世の中が平和でうまく回っている間は「ボク歯車」でいいんだけど、
どうもここ最近の日本はマイナス成長だの年金問題だの天下りだの沖縄の基地問題だの、
要は「お金」がなくなっただけでこの国はこんなにハリボテだったのね、と思ってたら大震災と原発事故ですよ。
世の中がマズくなったおかげでシステムのポンコツぶりがわかってくるというのは皮肉だなぁ。
とは言え、願わくばこの先もこの国で生きていきたいと思ってる次第なので、
できることといえば「投票する」「デモに参加」みたいな「当たり前」な事しか言えないのが何ともいやはや。
10代の頃なら、「ブッ壊セェー」とか言ってたかもしれんが、実際は何も壊してなんかなかったし。
「システム」や「制度」が最早ポンコツなら、あまりそれに頼らないで生きられるようにするべきだし、
そのためには相互扶助が欠かせないけど、今度はそこにしがらみが生まれるし、それが嫌で都会に来た奴もいるわけで、やれやれ(春樹風)。
とにかく政府やメディアの言うことは信用できんし、学者だって言ってる事バラバラ。
すべてを疑いながら情報を集めて、自分の哲学に基づいて判断するという、楽じゃないがアタリマエのことをするしかないという、何だこのツマラン結論は。
日本人が英語を話せないのは、英語に比べ、日本語の音節当たりの情報量が極めて少ないからであり、日本人の脳がそれに慣れてしまっているからである。
日本語は他の主要な言語に比べ、同じ音節数の間に処理する情報量が際立って少ない。例えば中国語の4分の1とも言われる。日本語は1音節にかける時間はやや短いが、それでも同じ時間当たりでしゃべっている内容は遥かに少ない。用意された原稿を読むニュース番組などでは大して変わりはないが、考えながらしゃべる自然な口語になるとその違いが顕著になる。海外のドキュメンタリー番組で日本人が話しているのを見ると、英語話者と比べて同じ時間で話す内容の少なさに驚かされる。この場合、本人はまだ喋り終えていないのに吹き替えや字幕で既に情報は伝わっているので途中で画面が切り替えられてしまうことが多い。
赤ん坊の頃に1秒間に1の言語情報を処理するトレーニングしか受けずに脳ができあがってしまった人が、1秒間で2や3の情報を処理する言語を習得するには、単に新しい文法や発音を学ぶ以上の困難が伴う。逆に外国人からすると母国語よりも遅いペースで情報を処理すればいいので、ある程度単語を憶えれば簡単に喋れてしまう。だから日本人が英語や中国語をおぼえるよりもアメリカ人や中国人が日本語をおぼえる方が圧倒的に速いのだ。
「英語や中国語は日本語と文法・発音が違いすぎるから習得が難しい」とよく言われるが、音節当たりの情報量の違いに比べれば大した問題ではないと思う。なぜなら、文法と発音のよく似た日韓間でも同じことが起きているからだ。例えば第二外国語として韓国語と日本語をそれぞれ1年間学んだ日韓の学生を集め、日本人は韓国語で、韓国人は日本語で討論させると、日本人学生のあまりの「話せなさ」に韓国人学生は驚愕する。ただし文章を書かせるとそこまで悲惨な差が出ることはないのだそうである(呉善花『スカートの風』)。
韓国人は普段から漢語と土着語の二重構造に慣れているので、単に「日本語の漢字仮名交じり表記が特殊だから」ということだけではこの現象は説明できない。おそらく、筆記では会話ほどの情報処理スピードを求められない分、少しはマシなのだろう。
日本人が突出して英語が下手なのは、日本の英語教育のせいではない。しかし、英語を学ぶに当たって日本人だけが直面している独自の問題がある以上、日本人の為の独自の学習法をつくる必要がある。一方でいま文科省がやろうとしているのは「今のカリキュラムを前倒しして小学生から英語をやらせよう」という漸次的な施策である。これでは何も変わらないことだけは断言できる。
思うに、「日本語を唯一の母語とし、日本語の音節のリズムが染み付いている子供のための英語の授業」というのは、アルファベットや文法は後回しにして、「このカタカナをそのまま読めば通じなくもないよ」というカタカナ英語
(ex:
hospital→ハスペロウ
Can I have some water?→ケナイヘヴスムウオラ?)
を作り、繰り返し読んで丸暗記させる、というところから始めなければならないような気がするが、なにぶん私自身英語が全くできないのでよくわからないですどうもすいませんでした。
メストの名誉のためにいっておくと
ライターがゲーマーで文章書きではなかったため不慣れから起きた誤植であったり
情報の鮮度が大事なため、ぎりぎりまで原稿を弄っていたりしたための誤植だと思う
メストはアーケードゲーム攻略情報雑誌としては質が高かった(文章や誤植はともかく情報の質は悪くなかった)
まだネットもあまり普及しておらず、メストのような雑誌がなければ攻略情報の地域格差が大きくなっていたことは想像に難くない
うん、そうなんだ。すまない。「もしドラ」作者の次回作を期待して買ったと思うが、実はこっちのほうが先なんだ。
でも、この本を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない 「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
そう思って、このあとがきを書いたんだ。 ついでに俺とこの小説の馴れ初めを聞いていってくれないか。
三十歳を目前にして小説家になりたいと強く願った僕は、まず手始めに四百字詰め原稿用紙にして六十枚ほどの習作を書こうと試みた。
六十枚とした理由は2つあって、
もう一つは、文藝春秋から出ている「Number」という雑誌で当時、スポーツノンフィクションの新人作家を発掘するコンクールが開かれていたのだが、応募規定が六十枚だったことである。
その時ぼくは、「Number」に掲載されているようなものを書きたいと思っていた。
といっても、スポーツノンフィクションを書きたかったのではない。
「Number」に掲載されている記事のようなテイストで、フィクションを書きたいと思っていたのだ。
なぜ「Number」テイストのフィクションを書きたかったのかといえば、その文体に惹かれていたからだ。
「Number」の文体には「Number文体」とでも呼べるような、ユニークな特徴があった。
簡潔でリーダビリティに富みながら、遠く特の修辞法や言い回しによって読者をワクワクさせるケレン味も兼ね備えていた。
それをフィクションに適用すれば、フィクションとノンフィクションの境目が曖昧になる虚実皮膜の魅力を小説に持たせられるのではないかと考えたのだ。
そうしてNumber文体で小説を書くことは決まったのだが、どうせなら内容や分量も「Number」に準拠したものにしようと考えた。
さらには、それを洒落で「Number」の新人賞に応募しようとまで考えたのだが、これは後述する理由で断念することになる。
ともかく、そういう狙いをもってぼくはその作品の準備をし、執筆に取り掛かった。
小説を書こうと思った僕は、自分が好きだった雑誌「Numbers」の文体を参考に執筆を開始することにした。
高校時代、ぼくは拠ん所ない事情から野球部のない学校に通っていたのだが、そこで野球をするには軟式の同好会へ入るしかなかった。
そのため、甲子園への道ははじめから閉ざされており、そのことが、甲子園出場が幼い頃からの夢だった僕にとっては身を引き裂かれるような痛恨事となっていた。
そのため、いつからか「今のこの状態から甲子園に行くにはどうすればいいか」と、その道筋を夢想するのが癖となった。
そのことを書こうと思ったのだ。
題材は、高校野球にすることにした。
書き始めに際し、僕はその夢想の道筋---則ち野球部のない高校が甲子園に出るまで---には、最低でもおよそ十年間の歳月がかかるだろうと見積もっていた。
だから最初は、その十年の歴史をあらかじめ設定してあった六十枚という分量の中で書ききろうとしたのである。
ところが、いざ書き始めてみると予想外のことが起こった。
その夢想を追憶するうちに、次から次へとさまざまなエピソードが思い浮かんで、筆が止まらなくなったのである。
おかげで、予定の六十枚にはあっという間に達したのだが、内容はというとまだ本の一年半分ほどしか書ききれていなかった。
そこでぼくは、方向転換を余儀なくされた。
分量を、当初の予定だった六十枚に納めることを諦め(同時に洒落でコンクールに応募するのも諦め)、この先何枚かかるか分からなかったが、とにかく十年を描き切るまで書き続けようと決めたのである。
そうして三ヵ月が経過した後、ぼくはとうとうそれを書き上げた。
「緻密に選手にクローズアップするNumberの文体」と「10年間の分量を原稿用紙60枚」。どっちもやらなくちゃいけないってのが小説家のツライところだな。
覚悟はできてるか、俺はできてる。
(中略)
とおもってたんだけど無理だった。ごめんてへぺろ☆(・ω<)
するとぼくは、その書き上がった現行に対し、不思議な感慨を抱いた。自分が書いたものであるにもかかわらず、自分のものとは思えなかったのだ。
いや正確に言うならば、その分を書いたのが自分だという実感はあった。しかしながら、そこに書かれている物語が自分が考えたものだとは思えなかったのである。
それはまるで、もとからこの世界に存在していたものであるかのようだった。
いや、もはやある種の「事実」のようであもあった。
ぼくのしたことは、その事実をテキストとして書き起こしたにすぎなかった。
つまり、まるでスポーツノンフィクションの作品を書いたような気持ちだったのである。
そのため僕は、書き方についてはともかく、内容については大きな自信を抱くこととなった。
なにしろ、自分が興味をいだいた事実を取材して書いたような気持ちだったから、誰が読んでも面白いだろうと信じて疑わなかったのである。
そうしてぼくは、これを世に出す算段を巡らせた。
しかし、そこではなんの答えを得ることも出来なかった。
いつまで経っても返事は来ず、そのまま数カ月が過ぎた。
そこで、今度は電話で問い合わせてみた。原稿を送付した出版社に対し、
原稿は届いているか、届いているなら読んでもらえたのか、読んでもらえたのならどんな感想だったのか---それらを聞こうとしたのである。
しかしながら、そこでも芳しい答えを得ることは出来なかった。
何人かの編集者は実際に応対してくれたし、一人は会って話をしてくれたが、しかしやっぱり、前向きな返答を引き出すことは出来なかった。
評価されなかった。
それから、ぼくの苦悩の日々が始まった。三年をかけて、さらに四作の小説を書き、小説家として世に出ることを試みた。
しかし、紆余曲折の末、ついに挫折するに至ったのだ。
その試みを諦めざるを得なくなり、おかげで、それらの作品が出版にいたることはついになかった。
落ち込んだ。
ただし、小説は勤めの傍らで書くつもりだった。
ぼくの敬愛するルソーやゴッホという画家は、絵は売れなかったがずっと描き続けた。
カフカや宮沢賢治も、生前は脚光をあびることはなかったが、死ぬまで書き続けた。
そういう存在に、ぼくもなろうとしたのだ。
立ち直った。
ところが、そんなぼくに青天の霹靂ともいえるできごとが、やがて訪れる。
処女作を書いてから十年後の二〇〇八年、ダイヤモンド社の編集者である加藤++さんから、小説の執筆依頼を受けたのだ。
そこで、ぼくの胸中にはさまざまな物思いが去来した。
思わぬ形で描き上げた処女作のこと、それからの三年間の苦労、さらにその後の勤め人としての生活---そうしたことがぐるぐると駆け巡った。
チャンスがキタ。
ところで真のアルファブロガーま○めさんはいなかったことになってるね
その時、ぼくは決意した。
この作品は、二百万部を越すベストセラーにしようと。
そうしなければ小説家としてのぼくの人生はいよいよ完全に閉ざされたものになってしまう。
あるいは、ぼくの書き上げた「エースの系譜」を含めた五篇の小説は、永久にその出版の機会を失われてしまう---そんな危機感を抱いたのだ。
チャンスに浮かれることなく気を引き締めた。
そうして書いたのが、「もしドラ」だった。
大ヒットした。
それから半年が経過した二〇一〇年五月、講談社のマンガ編集者である村松++さんから連絡を頂いた。
しかし、この時は既にコミック化に関しては別のオファーを頂いていたから、彼にはそれを断る旨を率直に伝えた。
その上で、無碍に断るにも失礼かと思い、何か別の形で貢献できることはできないかと考えた。
その時ふと脳裏をよぎったのは、十二年前の記憶だった。十二年前、あれほど強く世に出したいと願いながら、結局それが叶わず、今もパソコンのハードディスクの奥に眠ったままの、「エースの系譜」のことだった。
これを世に出すことはできないか---ぼくは、会いに来てくれた村松さんにプリントアウトした原稿を託すと、「もしご興味がおありなら、これをコミック化してもらうのはどうか」ということを打診した。
チャンスを活かしてヒットをものにしたら、さらにチャンスが広がった。
すると数カ月後、村松さんからぜひコミック化したいとの返事を頂いた。
それは、僕の積年の願いがかなった瞬間であり、嬉しかったのと同時にホッとさせられた出来事でもあった。
このままこの物語を眠らせておくのは、何よりこの物語に対して忍びないと思っていたからだ。
ところがその数カ月後、さらに思わぬご依頼を村松さんから頂く。それは、これを単にコミック化するだけではなく、小説としても世に出さないかというものだった。
村松さんが言うには「この小説はとても文学的なので、コミック化したときには、表現の特性の違いなどから、この文学的魅力がいくらか薄れてしまうことになる。しかしそれは非常にもったいない。この作品は、物語としての魅力もあるが、純粋に文学としてもとても魅力的だ。それを十全に表現できるのは岩崎さんの書いたこの原稿以外ない。だから、それをこのまま眠らせておきたくはない」とのことであった。
ついに、ぼくの願いは十三年越しにかなった。
そうして「エースの系譜」は、実に十三年という長い月日を経て、ついに世に出ることとなった。その小説版の編集には柴山++さんにあたっていただいた。村松++さんと柴山++さんのお二方には、大変お世話になった。この場を借りて、お礼を述べたい。ありがとうございます。
最後に、この本はぼくの幼なじみである+++++くんに贈るということを、ここに記したい。小学校一年生の時、クラスメイトだった+++++くんの家に遊びに行った折、そこで彼の持っていたマンガ「ドカベン」に出会ったぼくは、たちまちその虜となった。そのことが、後にぼくが野球にのめり込むきっかけにもなったし、マンガや創作活動に対する興味を抱くことのきっかけにもなった。これがなければ、ぼくは「もしドラ」や「エースの系譜」を書いていなかっただろう。++くんが、ぼくにこの物語を書く契機を与えてくれたのだ。++くん、ありがとう。
【菅さん】
・すごく落ち着いて喋ってた。浮ついてもないし、無意味に煽るようでもなかった。
・原稿見る時間少なかった。自分の言葉で喋って、質問にも落ち着いて答えていた。
・言いたいことを簡潔にまとめてた。分かりやすかった。
【内容】
・要するに、エネルギー政策の転換をベースに、この社会の基本的なデザインを変えることにまでつながる話だった。
・単に、原発ハンタイとかサンセーとかいうことではないように感じた。感情論ではなく、見識であり哲学だった。
・原発事故を起こした国の責任者として、今世界に向けて述べなければいけないことを述べた、と思う。
【記者】
・神保さん以外は、全員ひどかった。ああいう人らの作る「メディア」とやらにお金を出そうとは、全く思えない。
・ひどい連中の質問は基本的に全部同じで、要するに「解散・辞任・ソーセンキョ」のこと聞いてこいや、と上司に言われてきました、ということだったと思う。ホントに、馬鹿なの? なんのためにあんたそこにいんの?
【疑問に思ったこと】
・菅さんは、未来の日本を「貧しくても美しい」国にしたいのか、「安全かつ豊か」な国にしたいのか、これから、そこをはっきりさせる必要があると思う。どちらにバランスを取るのか難しいところだけれど。
【結論】
これは支持せざるを得ない。菅△!
見てない人は、急いでyoutubeとか見るべきだと思う。
バサーニオーとか、借金があるのに金持ちの美人女に惚れて、んでこの女をゲットするためにさらにカネを欲しがって、
んでリア充友だちのアントーニオーにカネ貸してと無心する。
アントーニオーは、それこそ歯の浮く様なセリフで俺とお前の仲じゃないかいくらでも貸すぜとか言う。
(アントーニオー「きみはぼくという男をよく知っているはずだ。それなら、ぼくの友情を遠巻きに攻めたてるような暇つぶしはやめにしてくれ。
言語道断だよ、きみにたいするぼくの好意を秤にかけるなどとは」)
⇒何だよ借金こさえときながら、女を落とすためにさらにカネを欲しがって、しかもそれを友だちにたかるとかって。
しかもキモいんだよ友情のこれみよがしな語りとか。J-popかよ。
んでアントーニオーは船に投資して手持ちの現金がないから、信用貸しをアテにしてユダヤ人のシャイロックに融通を申し出る。
⇒なんだよ、心の友の言うことなら全財産だって貸してやるさ!とか威勢のいいこと言って、やることは結局別口のカネの無心じゃないか。
⇒しかもなんだよ、無心のアテってのが、昔っから蛇蝎の如く嫌っていたユダヤ人相手とかって。他にいねえのかよ。
(シャイロック「アントーニオーさん、今日までいったい何度になりますかな、あんたは取引所でこのシャイロックの顔さえ見ると、
きっと毒づいてきなさった、…おれのことを、やれ邪教徒の、やれ人噛み犬のと。そしてこのユダヤ人の着物に唾を吐きかけなさった…」)
で、この金持ちの美人のポーシャが、これまたリア充にお似合いの手合いときてる。
リア充同士で惹かれ合うってのはまあ分かるわ。
だけど、バサーニオー以外の求婚者に対して言う、こき下ろしの文句のまあ極悪なことときたら。
(ポーシャ「そう、あの方は文字どおりの頓馬…」
「ああいう人たちと結婚するくらいなら、口に骨をくわえた死人の首と暮すほうが、まだまし。…」
「たとえ気ちがいのように愛してくれても、こちらはなんのお返しする気がないのだもの。…」
「まあ、どんな悪い籤を引こうと、あの人の手にだけは落ちたくない。…」)
⇒なんだよ口に骨くわえた死人の首と暮す方がましとかって、どんなに人を嫌ってたってそうそう口の端に出てくるような言い回しじゃねえよ。
こんな感想をナチュラルに吐き出せるとか一体どんな神経してんだ腐ってんだろ頭とか根性とかいろいろ。
あり得ねえよこいつどう考えたって童話に出てくる意地悪婆の役どころだろこのアマ。
それでシャイロックが千載一遇のリベンジをしてやろうとしたときの、リア充なクリスト教徒のみなさんの罵詈雑言は本当に酷かった。
よく禁書にならないもんだと思うよ。
(「この因業爺め、こんな野良犬は見たことがない」
「相手はユダヤ人だ、渚に立って、盛りあがる高潮に鎮れと命じるようなものではないか。
狼に向かって、なぜ仔羊を食い殺して牝羊を泣かせたかと問うても仕方はない。」
「きさまの欲の深いこと、狼さながら、血に飢えて飽くことを知らぬではないか。」)
⇒全世界ユダヤ人協会は、今すぐシェイクスピアを提訴して謝罪と賠償を要求するべきだと思います。
小学生のときとか読書感想文なんて誰が好きこのんで書くかとか思ってたけど、
原稿用紙とかに。久々に。
村上春樹のカタルーニャ国際賞のスピーチが賞賛を浴びてるけど、僕はすごいスピーチとは思わない。エルサレム賞の「壁の卵」のスピーチの方が、何億倍もすごかったと思う。
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上) - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳) : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php
一部には原爆と原発を一緒にするレトリックに批判が挙がってるけど、別にこの部分には異論はない。科学的にいうと全然違うかもしれないけど(急性被爆とかうんぬんかんぬん)、文学表現としては有りだと思う。
僕が違和感を覚えるのは、そこの部分じゃなくて、「我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?」「理由は簡単です。「効率」です」という部分。
「効率」って言葉は一見抽象的なようで、安易に単純化した概念だと思う。
問題は深刻で真実は闇に隠されてて、立ち向かうのには、「壁と卵」のスピーチの言葉を使うと、もっとよい嘘をつくべきなのに、「効率」は出来の悪い嘘だと思う。
「効率」という嘘が、どのように出来が悪いかというと、この原発問題を簡単に乗り越えられるような印象を与えるということ。僕らが「効率」を捨てさえすれば、二度とこのような問題は起きないと錯覚するということ。
そんなに簡単に乗り越えられることが可能なんだろうか。僕らが「効率」だけを求めて生きてきたから、このような事故を引き起こしてしまったんだろうか。たとえそうであっても僕らは簡単に「効率」を捨てることができるのだろうか。
もしかしたら、福島の人に希望を持たせるためにあえて出来の悪い嘘をついたのかもしれないけど、そんなことは他の人に任せるべきで、村上春樹の仕事ではないように思える。春樹以外の人にだって出来ることなのだから。
春樹にしか出来ないこと、それは問題を抽象化して、別の形に置き換える作業だと思う。それは単純化と別方向の作業で、非常に難しいし、理解されないかもしれない。問題をさらに複雑にしたと批判を浴びるかもしれない。
でもそれが、「壁と卵」で春樹が言ってた小説家の仕事じゃないかな。そしてそれは「嘘を紡ぐプロ」として自覚している春樹にしか出来ないことだと思う。
※追記 エルサレム賞のリンクが間違ってたので修正しました。指摘ありがとうございます。
http://maname.txt-nifty.com/blog/2011/05/hitei1.html
(ついき)
回りくどいかったから言い直す。「否定的な感情をすくいやすい」ってわかってるなら、デフォルトは非表示にしろと。
はてブの100文字とブログの長々とした記述の中間部分の間が欠けてる気がしてなりませぬ。
twitterと連動するよりはてなハイクとかをもっと肯定的な意見ツールとして使えるように出来ませんかね。
その必要はないわ。というか彼らはどうせその必要がない限り学ばない。
記事を書いてきっちり否定・反論する必要がない限り、人は楽な方に流れる。
そして、その楽な流れを作ったのがはてブの罪なのであって、悪いもんは悪い、それを「はてブの功績」とか言われても困る。
もちろん物事には両面あるから功績を評価するのもいいとは思うけど、そっちを強調されると当然反発したくなる。
そのとおりだと思う。
たった100文字で反応することそれ自体が無礼なのですよそもそもが。
たった100文字で相手が書いたものを切り捨てるその無礼な態度にお咎めがないということ。
それに対する書き手の反応を引き受けなくて良いというその甘えた態度。
今まではそういうのが不可能だったのに、それを可能にしたのがはてブ。
それにとどまらず、この無礼な態度をコピーして拡散できるようにしたのがtwitterの非公式RT。
それを正当化する理由ってどこにもないと思うんだけれど。
「もうこの流れは止めようがないから引き受けよう」ってなら分かるけど、なんでそんなに肯定的?
というわけで、
記事を書いた人とはてブ野郎は対等だとか、両者の間でコミュニケーションを取るべきだとか
基本的に書き手にとってはてブとはゴミであって、それを書き手が取り上げるかどうかは書き手の気まぐれ次第だという認識がデフォルトにならない限り
私は相手を批判するときは最低でも400字以上の文章を書くことを要求するルール(といっても道徳みたいなもので規則ではない)を提唱したい。
400字以上かけない人間に応答しなくても、それは400字すら書けないで他人を否定するヤツのほうが馬鹿であるということが常識になってほしい。
どんな反応も脊髄反射で簡単にできるようになっていくからこそ、反応する側にモラルを求めなくてどうするのよ。
「スルースキル」みたいな言葉はほんまに死滅して欲しい。常識としてはそのとおりでも、馬鹿がこの言葉を使えるのは極めて遺憾。