はてなキーワード: 金曜日とは
今日は父方の祖父の命日です。
喪の作業が
全く進んでいないのだなぁと
痛感しました。
当時を回想してみて
改めて思った。
まだ、否認の段階、なのだと
☆
どうでもいいことは抜け落ちるけど
大事な特定のことははっきりと覚えている。
いや、大事なことがいつ起きても保存して置けるように
日常のどうでもいいことは抜け落ちていくように
設計されているのかもしれない。
9年前の2月7日、
そこそこ気にしていた朝を覚えているし
GLAYが「いつか」を歌っていた。
いつも一緒に部活の帰りを共にしている3人のうち、
Sくんはデートか何かが一緒に帰らずに
3人で自転車を漕いで帰った事も覚えている。
その帰り道、
いつもどおり部活をして夜にちょっと集まってゲームをしようという
約束をしていた。
そして、帰り、死去の話を一通り聴いたあと
楽しく興じていた。
不思議なくらいに、いつもどおりの楽しさがあったことを
覚えている。
今になって思えば、脆弱な心を保つための
躁的防衛だったのだと理解できるが
☆
もともとの高血圧だったこともあるだろうが
倒れてしまったとの事だった。
律儀で真面目な人だった。
そして、真面目さを強さとして昇華させている人だった。
他人を疲れさせるだけ。
なぜなら、柔軟性がなくて頑固なだけだから。
真面目な人と一緒の空間に居たら安らげないでしょ?
それでも、じいちゃんの真面目さは
圧倒的に優しさと強さを持っている真面目さだった。
多分に美化をしている可能性もあるが…。
☆
ただ、当日のことは克明に覚えているのだが
それからのこと、たとえば
どうしても思い出すことが出来ない。
いや、覚えているんだけど、
すごく限定的。たとえば、自分がどこに居たのかは
覚えているがそこで何をして何を話して何を行動したのかは
全く覚えていない、
それに当時の場面を思い返したときに主人公の視点で世界を捕らえていないことに
気づく。
「自分が居る空間を上から自分が観覧している」というイメージでの
自分から見た世界じゃなくて、自分がその場全体を見ている感じ。
これも離人とか解離とかっていう一種の
心的防衛なのだと、今になると思う。
そう考えると
当然のことなのかもしれない。
だって、意識は自分を上から見ている自分が持っていてしまっているのだから。
☆
どれだけ
「大切な人には伝えられるうちに愛しているって伝えろ」みたいな
ご高説をたれられても、やっぱり人間は
愛してるって伝えないんですよね。
どれだけ悲痛な別離や死別の話を聴いても
全く他人の痛みからは学べないわけです。
だとすると、できることはたったひとつ、
思いっきり後悔を背負って生きていくこと。
他人が身をもって示してくれた痛みに
耳を傾けても行動に移さなかった罰を受けるしかないのだ、と。
もしも人間が
他人の痛みから学ぶことが出来たのなら、
こんなにも悲しい物語は断続的に永続的に
津々浦々で発生するわけがない。
人間は
今を大切にすることなど出来ない。
失うまでは絶対に気づくことは出来ない。
その鞭と無能さの償いとして
後悔という消えない荷物を背負っていくしかないのだと思う。
7月の頭には、彼と一緒に念願のメルボルン旅行に行く予定だった。
メルボルンに住んでいたことのある彼から話をよく聞いていて、ずっと行きたいと思っていた。
部屋探しもし始めた。ただ、なかなか気に入る部屋が見つからなかった。
私は新しい会社の寮に入ろうか悩んでいたが、彼が
「俺が少し家賃を負担するから、一緒に住む部屋を借りよう」という提案をしてくれた。
彼の態度や発言から、本当は結婚する気なんてないんだろうな、、と思い始めていた私は、
でも、私が一人で一緒に住む部屋を探しに行っている間に、彼は元カノと会っていた。
彼は、私には気付かれていないと思い込んでいたが、私は気付いていた。
別れたなんて言ってたけど、本当は別れていないのかもしれないな、と思った。
でも、元カノのところに戻る事が彼の幸せなら私はそれを応援したいと思っていたし、
そうならそうとはっきり言って欲しかった。でも、会っていた事を問い詰めても、彼は会ってないとしか言わなかった。
元彼がこの世からいなくなってちょうど2年の日、私は彼と一緒に家具や家電を見に行った。
昔から、結婚する相手と一緒に家具や食器を見に行く事は憧れていた。
彼の態度は、どう考えても結婚しようと思っているようには見えなかった。
勢いで結婚しようなんて言ってしまって、後悔してるんだろうなぁ。と思った。
元カノのところに戻りたいんだろうなぁと思った。
この人と一緒にいるわけにはいかない。決断は早い方がいいと思った。
そして私は、「あの部屋は契約しないことにした」というメールを送った。
旅行は一人で行く事にした。ずっと行きたかった場所だし、英語が通じる国なら一人旅でも不安はない。
その事だけ伝えようと思っていたら、彼から電話がかかってきた。
出るつもりはなかったのに、間違ってボタンを押して通話状態になってしまった。
切るわけにもいかず、仕方なく話す事にした。
私は友達にすら戻る気はないと告げたが彼は食い下がり、とりあえず旅行は一緒に行こうと言った。
さて寝ようかという時になって、彼が「やっぱり嫁においでよー」と言った。
まさかそんな事言われるなんて、思ってもみなかった。
色んな感情が溢れて、大泣きした。彼の前で泣いたのはそれが初めてだった。
本当は、彼とずっと一緒にいたいと思っていた。彼のことを思って、身を引くつもりだった。
でも、結局できず、二度目のプロポーズをOKした。
ある時、物珍しさから彼のスマホをいじっていて、偶然発着信履歴を見てしまった。
ほとんど全てが、私以外の女の名前だった。彼は一人ひとりそれが誰であるか説明し始めたが、
ただ一人、全く説明をしない名前があった。それが元カノだった。
発着信履歴の8割がその名前だった。彼からも何回も電話をかけていた。
やっぱり、戻りたいんだろうなー。と、改めて思った。
日本に帰って来た日の夕方に、新居の鍵をもらう予定だった。
でも、部屋を契約したことを後悔していた。
鍵をもらった後、彼と一緒に家具を見に行ったが、全く楽しい気分にはなれなかった。
私から身を引かないといけない、そう思っているのに、どうしても決断できなかった。
使っていたPCの中のデータを全て消して、返さないといけない。
私が彼に送ったメールは、2460通にもなった。単純計算で、1日2~3通。
コンパイル中とか、残業中の息抜きとか、飛行機の待ち時間とか、そういう暇つぶしの他愛ないやりとりが、
いつの間にかそんな数になっていた。そのやりとりに、どれだけ救われたか分からない。
全て消す事で、けじめをつけようと思った。
痩せてサイズが合わなくなり、全く着る事もなくしまったままだった服が大量に出てきた。
その服を着て彼に会った時の記憶が蘇ってきた。全部ゴミ袋に突っ込んだ。
捨てる事で、全部終わりにできると思っていた。
2010年になった。
彼を亡くして半年近くが経っていたものの、もちろん彼の事を考えない日など1日もなかった。
その時の私は、大きな問題を抱えていた。
私は心臓病で、ペースメーカーを入れていた。その電池が既に切れている状態だった。
電池が切れてもバックアップで3ヶ月は動き続けることができるものの、
設定は初期値にリセットされるため体調は悪く、また、完全に電池がなくなってしまえば突然死の危険もあった。
電池が切れていることは、もちろん知っていた。
でもその時の私は、とにかく目の前の面倒な事や嫌な事から逃げようとしていた。
だから電池の問題も後回しにして、考えないようにしていた。
しかしいよいよ電池が完全になくなろうとしていた。
私の心臓の状態から言えば、電池が完全になくなるということは死を意味していた。
でも、電池を交換する手術を受ける気にはならなかった。
死にたい、と思っていたわけではない。彼を亡くしてからも、後を追おうとは考えなかった。
でも、積極的に生きたいとは全く思っていなかった。
通っていた病院の、循環器の師長が私に言った。
このままだと、本当に危険なのよ?どうなるか分かってるでしょ?
ねぇ、お付き合いしてる人とかいないの?その人も、悲しむ事になるのよ?
どんな言葉も響かなかった。悲しむ人は、もういなくなってしまった。
それから数日後、彼が夢に出てきた。亡くなってから一度も出てきた事はなかった。
彼は、ただ微笑んでいた。何も話さなかった。手を伸ばして、追いかけようとして、目が覚めた。
結局その後、私は手術を受けるために入院した。
しかし入院したその日、主治医から思ってもいなかったことを告げられた。
ペースメーカーと心臓を繋いでいるリードがだめになっている可能性があるけど、開けてみないとわからない。
だめになっていた場合、今入っているリードはそのままにして、新しいものを新たに入れる。
そんな話は全く聞いていなかった。外来で検査を受けた時にも言われなかった。
リードはずっと使えるものではなく、いつかだめになるかもしれないのは知っていた。
でも、使えるかどうか、開けてみないと分からないというのは知らなかった。
ペースメーカーを入れたその日から、体内に異物が入っているという違和感を、
ずっと抱えて生きていた。自分の胸部XPを直視することもできなかった。
仕事で行った病院で、たまたまペースメーカーを入れた人の胸部XPを見てしまい、ひどい吐き気に襲われたこともあった。
私は手術を拒否して、同意書を書かなかった。
このまま退院させて欲しいと言った。もちろんだめだと言われた。
そんなわがままな患者に、ついに循環器科の一番偉い先生まで出てきた。
先生、というより、威勢のいいおばあちゃんだった。
旦那さんと離婚して、女手ひとつで医師を続けながら娘を育てた事。
その娘も今は医師をしているということ。高速道路で事故を起こし、死にかけた事。
それを聞いて私も、少し自分の話をした。
大学2年になる直前に意識消失発作で倒れ、ペースメーカーを入れた事。
大学を休学しなければいけなくなったこと。手術の後遺症の事。両親に理解されなかったこと。
その事を、人に話したのは初めてだった。
一通り自分の身の上話をして、私の話を聞いて、先生は病室を出て行った。
もしもリードが使えなくなっていたら、古いリードを抜去できる病院に転院する。
その病院には既に受け入れの体制を整えておいてもらっている。
自宅からは遠かったものの、循環器が有名だったその病院は良いはずだと思っていた。
でも、検査の度に嫌な思いをさせられていた。患者の事なんて全く考えていない対応だった。
そんな話を彼にしたら、こんな事を言われた。
嫌な思いをして通い続ける事ないよ。別の病院探そ。
その後、彼を助手席に乗せて家の近所を走っている時、ある病院を見つけた。
最近の病院って、スタバとかタリーズとか入ってるよね。仕事中の息抜きにいいよねw
あの病院、いいんじゃない?綺麗だし、確かあそこはウチの電子カルテ入ってないよw
その後彼はその病院の事について調べてくれた。
神奈川県内では一番ペースメーカーの症例数も多く、評判のいい病院だった。
その後、私はその病院に通うようになった。
そしてその2日後、私は手術を受けた。
結局リードはそのまま使える事が分かり、3時間程度で無事手術は終わった。
手術が終わった後、あのおばあちゃん先生が私に言った。
あんた、よく頑張ったよ。頑張ったから、神様が味方してくれたんだよ。
先生は「神様」と言ったけど、私は彼が助けてくれたんだと思った。
入社当初は会社を辞めたいばかり言っていたが、彼のあの言葉によって
この仕事を続けられるところまで続けてみようという気持ちになった。
嫌になって途中で諦めて投げ出すのだけはやめようと思った。
ただ、入社して5年目という区切りの年に、これから先どんな仕事をしていきたいか
ちゃんと考えようと思った。このまま電子カルテを作りたいかどうか。
これからの1年、どんなに辛くても全力で仕事をしよう、と決めた。
全力でやって、そのまま続けたいと思ったら残る。思えなかったら、別の道を探す。
復帰後すぐに、かなり大きな仕事が入ってきた。
当時27歳のひよっこSEには重すぎた。
でも、これだけはやり遂げないといけないと自分に言い聞かせた。
そのプロジェクトの定例の会議は福岡で行われたため、毎週金曜日に福岡に行っていた。
でもあの時のように、彼との事を思い出して押し潰されそうになることはなかった。
1年前のように現実逃避から仕事に打ち込むのではなく、自分の目標のために仕事をした。
彼と知り合ったのは、2007年の秋だった。
当時病院のシステムを作るSEをしていた私は、福岡で行われたとある大学病院のプロジェクトの飲み会で、初めて彼と会った。
第一印象は、「かっこいいなぁ…」だった。
だからといって積極的に話しかけるわけでもなく、「ちょっとイケメンなプロジェクトのメンバー」の彼とは、
その後2ヵ月半の間、特に関わりを持つことはなかった。
彼に関して私が知っている事は、岡山の子会社から本社に出向してきていることと、
後から知った事だけれど、彼は東京に来ていた時に私を見ていて、「あのスタイル良い子、誰?」と
私の同期に聞いていたらしい。それを知った私は、「気になったのは、見た目だけ!?」と少々膨れたが、
彼が私を見ていてくれたことが、ちょっとだけ嬉しくもあった。
当時、SEは全員、専用のインスタントメッセンジャーを使っていた。
そのメッセンジャーには、その時の気分や居場所などを書き込める機能があり、その日私は
今でこそ普通に乗れるようになったものの、当時私は大の飛行機嫌いだった。
眠気と戦いながら仕事をしていると、突然メッセージの画面がポップアップした。
数秒考えて、それがあの「ちょっとイケメン」だという事を思い出した。
ひさしぶりー。
今?後ろにいるよー。
嘘。今キョロキョロしたでしょ。
ちょwwだましたんですかー!ひどー!
そんなやりとりが最初だった。
その後、夜遅くまで残業をしていると、彼からメッセージが送られてくるようになった。
仕事の話だったり、会社の人の話だったり、プライベートの話だったり。
仕事の合間のそのやりとりのおかげで、嫌だった遅い時間までの残業も、苦にならなくなっていた。
そんなやりとりを続けて1ヵ月半たったある日。
今度の金曜日、そっち行くよー。
というメッセージが飛んできた。
そして、そのノリで二人で飲みに行くことになってしまった。
正直、憂鬱だった。
元々人見知りする私は、メッセンジャーで会話はしているものの一度しか会ったことのない人、
しかも6つも年上の男性と二人で飲みに行くなんて、考えられないことだった。
会話、続かないだろうなー。
そう言い聞かせて、終わらなかった仕事を翌週の自分に丸投げし、会社を出て、待ち合わせ場所に向かった。
実は、4ヶ月前に一度会っただけの人の顔を覚えている自信もなかった。
でも、待ち合わせ場所で私を見つけた彼は、本当にうれしそうな顔でにこっと笑って、私に駆け寄ってきた。
夜の7時に待ち合わせをしていた。途中で店を変え、結局お開きになったのは朝の4時だった。
会話が続かないどころか、会話が途切れなくて9時間も話し続けた。
それから彼が東京に来る頻度も増え、仕事が終わる時間を合わせて、同僚にはバレないように
二人で飲みに行った。
そして、私が出張で岡山に行った事がきっかけで、付き合うようになった。
東京と岡山の遠距離恋愛だった割に、お互い出張が多かったので、平日は頻繁に会うことができた。
だいたい東京か、プロジェクトの定例会が行われる福岡で会っていた。
とは言ってもお互い仕事が忙しく、仕事が終わってから会おうとすると既に深夜になっていることもあった。
それでも彼は、必ず時間を作って会おうとしてくれた。会えない時でも、必ず電話をくれた。
私は電話が嫌いで、用件だけ話してすぐ切ってしまうことがほとんどだったし、それまで付き合っていた恋人とも、
長電話をすることはほとんどなかった。でも彼となら何時間でも話すことができた。
彼はとても穏やかな性格で、彼と一緒にいると、普段忙しすぎて殺伐としていた心が安らいだ。
[コピぺの出典]から[コピペ誕生の瞬間]へカテゴリーを変更した。
178 名前: WBC監督(東京都)[] 投稿日:2008/09/14(日) 22:30:48.60 ID:mNrtA2B90
深夜のメンテナンス作業で眠くて眠くて、ユーザーの伝票明細テーブルを間違ってTRUNCATEした。
ROLLBACKも効かない。
あせってArcserve開いてテーブルを戻そうとする・・・ログウィンドウを見ると、
頭が真っ白になった。
IDCを出て深夜の自席に戻って、机の中の大事なものをかきあつめてかばんに詰めた。
保険証、パスポート、前の年に死んだ愛犬の写真を持ち、始発にあわせて家を出る。
携帯が鳴り始める。何度も何度も何度も。空港につくころには着信が100回を超えた。
逃げるなら、なんとなく北、というイメージがあった。
それから3年無為な生活をし、ほとぼりが冷めたころ、北海道の小さな
そして、孫請けながら大きなプロジェクトに参加することになり、
・・・会議室には、俺が逃げ出した会社の部長と、課長がいた・・・
ふたりとも、会議のあいだずっと、顔を真っ赤にして俺を睨んでいた・・・
金曜の夜に何も予定がないと本当に寂しくなる。
サークルの後輩は毎週金曜日、仲間内で一人の家に集まって鍋やったり焼き肉やったりしてるんだって。
私にはそんな仲間はいない。
友達はそれなりにいるんだけど、固定されたグループには所属していない。
まわりを見渡すと、特に学部時代はみんな固定されたグループで楽しそうにやっている。
私にはそういうのなかった。
やっぱり人間関係を築くのが下手なんだろうか。
平日の夜は次の日の準備で忙しいから思い出さないけど、週末の夜になるとやっぱり思い出して辛くなってしまう。
今、土日の夜はバイトが入っているから気を紛らわせられるけど、私は学振が当たったのでやめなければいけない。
予定が入る土日と入らない土日は半分半分。
これから卒業するまで、予定の入っていない週末の夜は寂しさで泣いて暮らさなきゃいけないのかな。
寂しくて辛い。
みんなどうやって過ごしてる?
どれだけの人が、はじまって5分の映画で、涙するだろうか。
泣きすぎて頭が痛いし、呼吸困難な状態で、
まともに文章を書けない状態だが、どうしても綴りたい。
仕事を早く切り上げ、雨の中、足早に家路に向かう。
コンビニ弁当を食べながら、金曜ロードショーのラピュタをみている。
金曜日だというのに、予定がないのは嫌だなと思ったりもした。
でも、ラピュタをみはじめて、すぐにそんな思いが消し飛んだ。
この思いになれることが、
2年前と今は違う。
社会復帰して、それなりに認められ、それなりのお金を手にした。
だが、孤独感は、なにも変わっていない。
いつでもみられるラピュタ。
季節を感じながら、食べる食物のように、
時をかんじるようにラピュタを観る。
多くの人が、同じ映画をみて、違うことを感じる。
これが、テレビなんだ。
孤独はつらいけど、
これほど、せつない気持ちになれるのも、
私は、テレビ放送が終わらぬ限り、
ラピュタを観て、涙するんだろう、と思う。
時代は、変わっていき、
どうなるのかは、わからないけど。
こんな作品が作れること、
作品をみて、感じられること、
やっぱり、人間ってすばらしい、と思う。
だから、みんな、つらいけど、生きていこう。
私もつらいけど、これからさきも、生きていこうと思う。
ラピュタをみるたび、多くのことを感じたいと思う。
そして、いつか多くの人を感動させられるものを、私も作ってみたい。
-----
少し昔のことを思い出してしまった。
この思いを自分ひとりで閉じ込めておくことができなくなったので、
少し綴らせていただきます。
当時、私は知能が弱い方でした。
障害と認定されるレベルではないので、
そう綴ることは失礼になってしまうかもしれませんが、
詳細を書くと個人が特定されてしまう恐れがあるので、
避けさせていただきます。
イジメだけではなく、冷たい視線や同情、哀れみも受けてきました。
障害のせいかわかりませんが、私は心の成長が遅いようでした。
善悪の区別がつかなく、よく母を困らせていました。
そういったことが私にはまったく理解できず、
楽しいこと、いたずらばかりして
クラスで決める会が開かれました。
思い出に残る曲をみんなで歌いたいと
言って盛り上がっていました。
合唱曲を天空の城ラピュタのエンディング曲「君をのせて」にしたいと
当時の私は、天空の城ラピュタすら知らず
その女子を跳ね返していました。
男女合唱ができるようにしたみたいでした。
こういった歌謡曲は卒業するときにカラオケにでもいって歌えばいいんだ、
私としては、何事もなかったのと同じで
当時の記憶がどこまで正確かわかりませんが、
そのようなことがあったと思います。
この曲いいな、そういえばこの曲、合唱の課題にしようとしてた曲か、
あのとき歌えたら素敵だったろうな、と思いました。
時が経ち、私は大きく成長しました。
心も人並みに豊かになりました。
私の心には深く刻まれており、大変、価値のある思い出になっています。
私も、もう少し心が豊で
と後悔してせつなくなります。
私の心は成長したのだと思いました。
次のラピュタでは、私はどうなっているのでしょうか。
終わり。
私の近況も少し綴らせてください。
心は成長しましたが、障害の方は変わっていません。
年とともに悪化しました。
いくつかの病院にも行きましたが、治りそうもありません。
治る代物ではないので、返答に困ります。
そのおかげで、ある程度、人気者になれました。
でも、ある日それがとてつもなく嫌になってしまい、
他人とコミュニケーションを絶つようになりました。
今は誰とも接しない日々が続いています。
障害を乗り越えて何かを生みだしたいなと
泣き言ばかりで・・・。
基本的に思い込みです。
僕は社畜生活が2年間だった。
時間に換算すると、8時間×365日×2年で5840時間になる。
5000時間集中して取り組めば何かのエキスパートになれる説があり、
僕も、自分の体験上、この説を支持している。
本人のスキルが足りてないからかもしれないし、原因はいろいろ。
ただ、効率が良いからといって、残業せずに済むほど社会は甘くない。
効率が良くても誰かに足を引っ張られて、残業することも多々ある。
僕も、50代のおっさんが頻繁にタバコ吸ってるせいで残業したことがある。
「いい加減にせい、お前は」とキレそうになった。
それだけ、はい。
社畜になるというのは楽なことだと思う。
線路の上を走っている限り、何も考える必要がない。
意思を捨てれば良い。それだけで楽な人生が待ってる。
ただし、責任感が身に付いたと思ったら、
めんどくさいルールはあるし、話の合わない人とも話さなきゃいけない。
それを差し引いても、決してすべての飲み会が楽しいわけではない。
頭の中は、業後のことでいっぱいである。
ただし、社畜には休日出勤というオプションがあるのでこの限りではない。
干されます。気をつけましょう。
それを考えて、会社を利用することが、社畜にできる数少ない抵抗。
経験則的に、これは正しい。
より条件の良いところを見つけて移る。
一方、僕のように、デキないのに自分の能力を過信して辞める人間もいる。
しかし、これは、あながち間違った選択ではない、たぶん。
デキないのにデキないことを自覚せずに残るよりはマシだと信じてる。
どんなダメ人間でも、外に出ることで、自分のダメさ加減を認識できる。
~検定1級持ってます!
で?
で?
ごく一部の難関資格でない限り、持ってるだけじゃ役に立たない。
資格はセルフブランドするためのツール。ツールは使えてなんぼ。
試しに「その仕事はちょっと…」と言ってみると良い。
その仕事をやってくれる中国人やインド人は世の中に五万といる。
仕事のベースは信用。嫌な仕事でもやらないと信用は得られない。
逆に、信用を得られれば仕事をある程度選択できるようになる。
飲み会中に言っても忘れられることが大半。
好きな部署やプロジェクトに移してやると言われた。
退職するって言って好きに異動できるなら、皆やってるわい。
よほどのことでない限り、自分だけが特別扱いされることはない。
一方で、中途の人は優秀であることが多かった。
もう少し一般化して考えてみる。
経験値というものは、社会に通用するものとその会社固有のものに分けられる。
そして、その経験値というのは、1:2くらいの割合で貯まっていく、たぶん。
中途で入ってきた人は、社会に通用する経験値がそれなりにある。
会社がなくなったら、どうするの?
affected そういうシステム
● 動いているネットワークには触るな。
● 配線図を信用するな。
● 特権権限のパスワードが「password」の機器は誰もログインしていない。
● 冗長構成は動かない。
● 機器触っている時に「あっ。」って言う人は信用するな。
● しばらくアラームが来ない場合、何らかの問題が起きている。
● ググれ。
● 再起動は命がけでやれ。
● バックアップは戻らない。
● 素人は素直に申し出ろ。
● 手順書も読めない
● 手順書は読めるが作れない
● 手順書がないと作業できない
● だいたい手順書が間違っている
● 早業で障害対応したのに怒られる
● 飲み会の日は夕方障害発生
● コンフィグを保存し忘れる
● デフォルトオリジネートは消える
● 堅い名前をつけても誰も呼ばない
● MUAにこだわる
● キーボードにこだわる
● OSにこだわる
● そのスイッチのせいでSTP走って混乱
● 攻撃だそれフィルタと安易に言う奴が多い
● それはだいたい管理職
● 攻撃されている顧客には連絡が取れない
● DNSのことは知らない
● 経路交換は政治だ
● 落雷に敏感だ
● 生き字引みたいな人が居る
● その人のデスクはだいたい汚い
● 椅子の座り方をしらない
● 椅子を並べて寝るのが上手い
● ラックの間で昼寝する
● 光ケーブルの受光は目で確認しちゃう
● DC電源が怖い という話が怖い
● 低レイヤの事は以外としらない
● ケーブルは埋め殺す
● 埋め殺されたケーブルが多くてケーブル撤去できないのでそのケーブルも埋め殺す
妻は、悲しんだり喜んだりする感情が薄い。ほぼ無いといっても言いぐらいだ。
結婚してから10年以上になるが、涙を流しているのを見たのは1回だけ。
おいらが結婚して仙台から静岡まで嫁を連れていくときに、途中の福島のホテルで夜に「帰りたい」と言って泣いた。
それだけ。しかもそれもほんの10秒程度で、すぐにいつもの嫁に戻っていた。
喜んでいる所さえもほとんど見たことがない。
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妻は実は苦労人だ。
小さいころ両親が離婚し、父親側についたが、父親も飲んだ暮れで女遊びや博打がひどく
多額の借金を抱えている。
おいらの会社がだんだんと大きくなってくると、何度も無心をしてくるような輩だ。
そんな状況だから嫁は学生時分から兄弟3人を半ば養っていたに近い。
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いつ寝てるんだ、という生活を8年近く続けていた。
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嫁は飲んだ暮れのおやじと二人で滅入っていた。
嫁はおいらが何とかしなきゃと思い、結婚を申し込んだ。
ろくすっぽ付き合ってもいなかった。
嫁はうんともすんともいわなかった。
しかし一緒に来てくれた。
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その後だって、好きとも嫌いとも言われたこともない。
嫁に言わせりゃ、自分を取り巻く環境が変わり、生活のために結婚した、というが
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昨晩、嫁のおかあが無くなった。
癌だった。
嫁は二人の小さい子供をつれて、木曜日におかあのところに新幹線で行った。
基本的に連絡もほとんど取り合わないおいらたちの間だが、
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おいらは体調が優れずかつ仕事に追われていたので、特に返事をしなかった。
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そしてその日の夜、突然亡くなった。
夜中の2時56分ごろに電話がなり、不眠症もちで寝れずにもたもたしていたおいらはすぐにピンと来た。
「おかあ、亡くなったから。それだけ」
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嫁はおかあのことだけは、この世で慕っていた。
おかあおかあといつも言っていた。
おかあの面倒を見たいと、柄にも無いことを言っていたことさえある。
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おいらは今、新幹線に乗り、嫁の亡くなったおかあのところに向かっている。
おいらは感情のない嫁を何とかしてあげたいと思い続けている。
おかあもそれをおいらに言いたかったんだと思う。
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2ヶ月前に癌が宣告され、最後の旅行と言うことでおかあをつれて嫁含めて旅行に行った。
おかあは、おいらがそこそこの会社で働き、家も購入し、安定していることに深く感謝していた。
ただただ泣きながら嫁をお願いされた。
嫁は何でこうなってしまったんだろう、と後悔の念も口にしていた。
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でもそれは本心で、いつか嫁が心から笑ったり心から感動して泣いたりしてくれるよう
おいらは妻が安心できる状況を作りだすんだ。
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おいらはおかあにそれを約束しに行く。
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ありがとう、おかあ。
ーーーーー
ーーーーー
おかあは冷たくなっていた。
おかあは本当に亡くなってしまっていた。
おいら、おかあに謝りたいことがあるんだ・・・
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おかあは貧乏だった。
おかあは離婚後、よせばいいのに飲み屋で知り合った男性と一緒に暮らしていた。
いい人だったが、お金は全く稼いでこなかった。
おかあは毎日、せこせこせこせこと新聞配達や清掃のパートで働いていた。
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おいらも嫁もおかあが人と仲良く話しているのを見たことがなかった。
どちらかと言うと気が強く、
平気で近所の人と喧嘩するぐらいの威勢の良さだった。
それはそれで格好良かった。
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おいらはおかあのことが好きだった。
しかしおいらは正直、おかあの家に泊まるのが嫌だった。
おいらは全く心が休まらなかった。
言葉は悪いけど、おかあの家で出された食事も気が進まなかった。
嫁がおかあの家に泊まりたい、というと
おいらは何かしら理由をつけて遠ざけた。
嫁はそんな気を察して、おいらに不満をストレートにぶつけてきた。
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2DKの広めのアパートだったが、やはりおいらは泊まるのがいやだった。
広さの割りに家賃がべらぼうに安く、住んでいる住民たちもおかしな感じで、
遊びに来ているおいらたち家族に、聞こえるようにいやみを言ってきたりした。
壁もヒビだらけで、お風呂は今にも崩れんばかりであった。
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おいらはおかあを心のどこかで遠ざけていた。
それは、貧乏だったり、家がぼろかったり、汚かったりという理由だった。
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しかしおかあのもとには、80名以上の方がいらっしゃってくれた。
おかあは孤独ではなかった。
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嫁の弟が大きな声で呼んできた。
「おかあにお別れの言葉を読んでくれる人が来たよ!」
そんな人いたんだ、と皆驚いた。
物静かで清楚な感じの女性だった。
-----
「私によくお孫さんの話をしてくださいました。」
「二人目のお孫さんが生まれたあと、少しでも孫が来やすい様にと、広めの家に越されたんです」
・・・・・。
おいらは号泣した。人目をはばからず大きな嗚咽を出して泣いた。
おいらは雷に打たれたような気分になり、自分の気持ちと態度を恥じた。
おいらはどれだけバカなんだ。。
おかあはおいらたち家族が来てくれることを、何よりも楽しみにしていたんだ。
それなのになぜ、相手の気持ちも汲み取れず、自分の気分で判断をしていたんだ。
人間としてクズだ。本当に情けない。自分が許せない。。。ばかだ!ばかだ!ばかだ!!!
-----
そしてお葬式が終わった。
とにかく一からやり直さないといけない。
人として、おかあのように立派な人間にならないといけない。
こんなんで妻のことをきちんと養っていけるのだろうか?
小さな子供を立派に育てることができるのだろうか?
-----
そのなことを考えているうちに、ふと現実に戻った。
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おいらは嫁に聞いた。
嫁は抑揚のない声で淡々と言った。
「おかあは、葬式代もお墓も住んでいた家の整理も、その他すべて自分で整理して死んでいった。
おいらは再び号泣した。
だっておかあはお金もないのに、日雇いのお酒好きを養っていたんだよ。
なぜできたの?
おいらだったら延命したいとしがみついて、自分の亡き後のことなんて考えられないよ。
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おいらはもう一度やりなおす。
おいらは会社で若くしてそれなりの立場となり有頂天になっていたのだ。
おいらは新しいマンションを手に入れて、身の丈以上のモノや環境を手に入れていただけなのだ。
おいらは変わる。
おいらはおかあの前に自信を持って出れる人間になる。
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おかあ、ごめんなさい。
そして本当にありがとう。
題から見て分かるとおり、http://anond.hatelabo.jp/20110929232831のパクリです(書き終えてみれば、パクったのは題名だけですが)。
栄養学科版です。それほどメジャーな学科ではないと思う。管理栄養士になりたい人が行くところと捉えて頂ければ十分です。
そもそも、栄養士という職(資格)を知っていても、具体的にどんなことをするのか分からない方も多くいらっしゃると思います。
悲しいけれど、「給食のオバちゃんのボス」という言葉がしっくり来る現状です。
仕事は多岐に渡るのだけど、後にさらりと触れるので、ここでは省きます。
筆者は栄養学科に行きはしたが、結局は別の道を選んだ脱落者です。
これから書く内容は、現状には即していないかもしれませんが、恐らくそう外れたことでもないでしょう。
筆者がなぜ栄養士として働かなかったのか、ということについても後程述べます。
栄養士を夢見る女学生の方や、栄養系の学科ってどんなことやるの?と思う方、その他お暇な方向けです。
長い序文となりました。本文も長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。
他の学部学科ならば、大学生活は割りと時間に余裕があるのではないでしょうか。人生の夏休みとも言われるほどですし。
空きコマがあるのは当たり前、丸々休みの日もある、というのが私のイメージです(他の学科について正直よく分かりませんが)。
栄養学科の場合、たまに空きコマがあっても、休みの日なんてありません。時間割がみっちり詰まっています。月曜日の朝から金曜日の夕方まで何かしらあります。
取りたい資格が少なければ、少しは余裕が生まれますが、逆にひとつでも多く資格を取りたい!となると遊ぶ時間が消えます。
衛生の資格に加え、栄養教諭の資格も取得した友人は、1年生から4年生の間まで、ずっと忙しそうでした。死にそうな顔していました。
また、実験や実習も多くあるので、それらがある日は時間割通りに行かないことも少なくはなく。
管理栄養士になるために必要な科目が必修科目になり、その量が膨大……とまでは行かなくとも(膨大なんて言ったら医師や看護師に失礼だわな)、
かなり多い部類には入るので、他の学科のように単位選択に困るわー、取得に困るわー、なんてことはありません。ここは利点かな……?
1,2年生まではみっちり勉強そして実習、3年生になると時間割の上では余裕が出来ますが、臨地実習に行かなくてはなりません。
給食施設実習(ここでの給食施設とは、保育所、学校、及び老人福祉施設などを指す)、臨床栄養実習(病院)、公衆栄養実習(保健所)の3箇所全て。
準備、臨地実習本番、報告書作成、報告会準備などに追われ、ひとつ終わったと思ったら次の実習が始まるので、3年生は結構忙しい。夏休みは半分くらい潰れました。
4年生になれば、授業ほっとんどねーや解放されたぜイヤッホゥゥ!!だが世の中そんなに甘くない。就職活動と卒業論文(実験)が待っている。
授業もそこそこそれなりにあって、臨地実習もある3年生が恐らく一番忙しい学年です。そんなだからまともな就職活動が出来るのは2月くらいからかな。
ちなみに栄養教諭を目指す人は、そのための実習があるので、さらに遅れます。
(管理)栄養士になりたくない、って人は実習等も適当に乗り切って、時間が出来る12月くらいから始めます。それでも遅いんだろうけどさ。
さて、栄養学科は文系に属するのでしょうか、理系なのでしょうか。
理系の知識がなければまずやっていけませんが(化学と生物、特に化学については高校でしっかり学んでおく必要がある)、
まるっきり理系というわけでもなく、文系のような?こともやります。
管理栄養士は、食事を作ることだけが仕事ではなく、人の相談に乗ったり(カウンセリング)、教育したりなどもします。そのための技術も必要です。
保育所や学校の栄養士の場合、最近は児童生徒等に対し、食の知識について教えることが多くなりました(いわゆる食育、何度か出てきている栄養教諭は食育専門の教諭)。
自治体の栄養士になれば、管轄地域の住民全体の健康について考えなければなりません。収集したデータをどのように統計し、解釈し、どんな計画を立てるか。
また、給食を作ると言ったって、タダで出来るわけじゃないから、経営についての知識も必要となる。あとは福祉についても少しだけやったかなあ。
前述のとおり、実験や実習も多くあります。実験は理系の学科であれば大抵やっていると思うので省きます。
食品や栄養について学ぶ学科なので、調理実習はたくさんあります。1年次はただ指定されたものを作るだけ(それはそれで楽しいしラク)ですが、
2年次から自分で献立を考えて作らなくてはならなかったり(たとえば、腎臓病の方向けの食事の場合、低蛋白高カロリーの献立を実際に考えて作らなくてはならない)、
実際の給食施設のように大量調理し、客(に見立てた学生)に配膳、アンケートを取る実習があったり、一筋縄では行かないものばかりです。
調理ではない実習もあります。たとえば低学年の児童を対象にした栄養教育を計画書から作って(児童に見立てた学生に)実演してみたりとか、カウンセリングの実習であるとか。
リーフレット作ったり、商品開発の実習をしたり、パソコンの実習もありました。
前の項と合わせて、必修の課目が多いし、分野も広い。期末はレポートの山に囲まれ、レポート作成と並行してテスト対策もしなければならないので、大混乱です。
レポートの期日が重なるなんて当たり前。テストは持ち込み不可のことが多い。劣等生は追試の山……。
ちなみに、実習の際はグループ行動が多く、グループ分けも大概教授が指示するので、ひとりぼっちになることはありません。
そういう機会に知り合いや友人が出来るので、他県から一人だけで入学したという場合も、孤立することはまずないかと。
栄養士になった人がキツくなるのか、それともキツい人が栄養士になるのかは分かりませんが、授業中にキツいことを言われることもしばしば。厳しい方が多い。
「あなたたちは即戦力となるために~」なんてのは耳にタコが出来るほど言われます。
実際、管理栄養士として就職したならば、初めての社会人経験であっても管理職として扱われます。
その時にまったく戦力にならないのでは困る、ということ。
調理員のオバちゃんをこらしめる方法を教わったときはどうしようかと思いました。
献立でダメ出しくらうの当たり前、授業中の雑談が思いの外キツいことだったりすることも当たり前(患者さんが亡くなってしまった話とか、派閥の話とか)。
むしろ、こういうことを耳にして、覚悟完了できるかできないかが、栄養士として働くか働かないかの分かれ目である。
筆者は覚悟完了出来ませんでした。これから下記に書く実情もあり。
ここまで栄養学科の話を書いてきましたが、どのように感じたでしょうか。
大学生にしてはずいぶん忙しそうだな、とか、こんなヌルい内容でキツいだなんて笑わせてくれるなど、様々な意見があるかと思います。
私も当時の思い出を振り返りながら書いているので、昔の自分であればキツいと感じたことも、今であれば当たり前と感じるのかもしれません。
それはそれで置いておいて、管理栄養士が実際に管理栄養士として働くと、
他の医療系資格よろしく(管理栄養士をコメディカルと見ない人もいるが)、常に求人はあり、その意味では困らず、食っていくに困りません。
だけど、食っていくことしか出来ません。自分の時間が取れない。食べて寝て仕事して寝て食べての繰り返し、というのが管理栄養士として就職した友人の生活。
ただ、管理栄養士はやりがいがあります。そして責任があります。誰かがやらなければならない、いのちの基本、食事に関わる職業です。
そのことにやりがいを感じ、そのために生きていける人ならば、きっとやっていけるでしょう。
それか、何でも要領よくこなせる人とか、切り替えが早い人とか。
私はそのいずれにも該当しなかったし、あとは早い段階で(ただ入学した後の話でしたが)2ch等を見て、栄養士は基本的にブラックな職業だと判断し、事務職に就きました。
何が言いたかったかというと、栄養士を夢見るお嬢さん(高校生以下)、理想と現実はかなり違うから、考え直すならば今のうちだぜ、ということです。
それから、栄養士の労働環境を知ってほしかった。他の方も様々な場所で腐るほど語っています。
テレビに出る栄養士なんて雲上の人、1000人に1人いるかいないかの超好待遇の人なので、管理栄養士が全員そうだとは間違っても思わないでくださいませ。
それではここまで読んでくださってありがとうございました。
先週、数年前はあったはずの預金がほぼ底をついていた。
額にして337円。衝撃過ぎて一度で金額を暗記していた。
給料日を翌週に控えた2011年の9月21日、関東には台風が来ていたが私の心にはそれを凌駕する嵐が迫っていた。
預金337円。正確には別にある貯金用の口座に十数万円が残るが手はつけまいと、ただそのためだけに作った口座なのでそこにある分は預金とはみなしていない。
会社に入社して毎月お金を家に入れていた。給料日。忘れる事もあったが毎週コンビニでジャンプを買う。思い出してすぐにATMで引き出して数日以内には入れていた。
3万円。手取り13万の私が自由に使えるのはここから携帯電話の料金を除いた10万円弱。
高校のころにやっていたバイトの月収およそ二倍。大きな買い物もせず順調に、そしていつの間にか、貯蓄はその額を増やしていた。
しかし会社に入って一年、情けないことにコミュ障をこじらせてお局様に相当嫌われ、しかし幸運が重なり数ヶ月後の異動が決まった。
2009年6月5日、金曜日。吐き出す術を知らなかった私が誰にも話すことなく頼ったのは心療内科だった。
軽度の鬱と診断され(もしかしたらそんな病気など無かったのかもしれないが)、異動が決まり少しは環境がマシになること、趣味が充実していること、生きがいを持っていること。そんな諸々が加味されて通院は2009年の9月26日、ニヶ月ほどで終了した。
その間に家族に通院がバレ、通院の最後の方には薬の副作用で筋固縮になり仕事に支障が出かけた。しかし新しい環境での仕事はそれなりに順調だったし、ネットで見ていたような断薬症状も無かった。
昔よりはコミュ充に近づいたと思うし、失敗は回収できるんだと思えるようになった。
そこまで生きる間に私が家に入れるお金は5万円に増額した。家にお金が無いのは知っていたから。
臨時で貸した時が何度かあった。その時は、給料日に5万円を入れずに相殺して返済とする。そうやって家計を保っていた。
2009年の9月、その頃には大きな額を貸すようになっており、もう毎月のお金は入れずに貸出金から相殺し、そこにまた貸していくそんなやりとりが続いていた。
しかし貸し出す金額は徐々に増え、頻度が増す。数ヶ月に一回だった貸し出しはほぼ毎月になり、7桁を記録しようとしていた私の預金が7桁を記録したのは、いつだったかの給料日後の数日だけだった。
7桁が6桁になった事を少し悔しく思ったが困りはしなかった。マンガが買えて服が買える。何も家を買うわけでも車を買おうとしているわけでも、なかったから。
家族を助けるために。その思いで貸し続けた。
そして2011年9月21日。あれから、通院が終わってから2年。7桁弱あった私の預金は3桁になっていた。
最初はただの使いすぎだと思っていた。2年の間にクレジットカードの使い方を覚えネット通販を覚え、ちょっと良い美容室に行くようになりヘアケアスキンケアだってほんの少し値の上がったものに変えてみたりもした。
友達も増えた。だから都心に遊びに行くことだって増えた。お酒を飲む楽しさを知った。
それでもまだ慎ましい範囲だと思っていたのだが。
収入は増えても控除で減っていく。手取りはほとんど変わっていない。
それでも、何かを控えればまた貯まると、少しだけ考えた。
母から貸出金の履歴を見せてもらうまでの1日だけは。
管理はちゃんとすると言っていた母に貸出金と相殺金の管理を任せていた。小さな手帳に書かれたのは異常な頻度と金額の貸出金の履歴。
近い月にはボーナスの数日後にボーナス額のおよそ半分以上の額を貸していた。
数ヶ月に渡って月手取りの半分以上もしくは同等の額を渡していた。
そこに自分の使った分の引き落としやら何やらが加味されて、これで預金が減らないわけがない。小学生だってわかることだ。
人生ではじめて親に言葉に出来ない苛立ちを覚えた。同時に、仕事は半日で強制帰還されたので台風にははじめて感謝した。
言葉に出来ず感情をうまくコントロールできず、数日間家族と対面するのは食事だけだった。
思い返せば高校時代。進路をどうするか決めていた私を呼び出して
「将来就きたい職業があって、そのために進学するのなら何とかして大学へ行かせられる。
けど、なんとなく進学するのなら、それはできない。」
そう言われた。至極尤もすぎて言葉も出なかった。大学は勉強するために行く場所だ。
専門的な知識を仕入れてそれを将来に活かすのが大学。そう認識した言葉だった。
将来の夢も希望も何もかもを諦めていた私は、その言葉を受けて就職した。氷河期と氷河期の間、ほんの少しだけ回復の兆しが見られた2007年秋。
高校から近い、学校の中での応募枠さえ取れれば内定が取れると言われていた企業へ、普通に、就職が決まった。
一刻はひどい学歴コンプレックスに陥った。しかしそれだって両親にではなく、夢も希望も努力を捨て、しかしあの日からやりたい職業すら見つからずに改めて進学に踏み切れない自分を責める感情でしかなかった。
今日、一週間考え続けた事を母に問うた。本当に我が家にはお金が無いらしい。
そして父の収入は年々減ってきているらしい。
私は辛い心を抑えながらまるで日常の話をするが如く、もう自由にお金を貸せない事を告げた。
考える。何がいけなかったのか。父や母はこの土地に来てから仕事が減ったと言う。ここは母の実家、祖父の土地だ。
建て替えるときに一緒に住みたいかと問われた幼い私が首を縦に振った、そうやってやってきた土地だ。
身につかない習い事をしたいと言った幼い私がいた。勉強が嫌いだったので教材だって使わなかった。
中学の時いわゆる"弄り"と"いじめ"の間に晒されて学校に行きたくないとわがままを言った私がいた。
それでも学校には行かされたが、精神力だけは心がボロボロになったって耐えて自傷しないほどには鍛えられたので、一応感謝している。
引き替えに、誰も聞かないのだと、誰にもうまく苦痛を吐き出すことが出来なくなってしまったのだが。
そう考えると私がいけなかったのだろうか。
もしもいつかの過去に行けるならと聞かれれば、私はあの日に還り何が何でも幼い私に首を横に振らせると答えるだろう。
私がいけなかったのだろうか。ここ数年、いつも私は自分を責め続けている。
平凡で、家族に恵まれて、高校の成績は中の中。テストは概ね平均点。
それなりにおしゃれをして、友だちがいて、普通に恋をして普通に失恋する、密かにそろそろ人恋しいと思うだけのもてない21歳の高卒オタク女だ。
十分に幸せそうなのに、それを客観的に書いている私はこんなにも満たされない。誰でもいいから縋りたい。
思いたち、数日、SNSから姿を消してみたが、取り立てて誰かが「私がいない」と発言することは、ほとんどなかった。連絡もこなかった。
何を期待していたのだろうか。誰にも認識されず必要とされず、自分を責めながら恨みつらみばかり言うだけになった面倒な女を誰が見ていると言うのだろうか。私のいないSNSは見ていて愉快だった。楽しそうだった。
自分は自分を殺さないと思う代わりに、家族が思いつめたら、と、一週間で何度も思う。それでもそんな事は誰にも言えなかった。
病院に行こうとも思ったが、また病院には行きたくない。辛いんじゃなくて、それが甘えではないかと思う自分がいるからだ。
被害妄想だけが蓄積していく。発散するような楽しみはもう寝ることくらいしかない。
それでも寝て起きたら誰もいないと思うと、眠れない日が、たまにある。
今日を含めて16日で、私はもうひとつ年をとる。その日を転機に、私は何かを考えなければならないらしい。
これが誰か知り合いに特定されてもいい。私の家族はネットに疎い。それだけでいい。
いつかの日のために取っておいた15万円しかない貯金や給料日を迎えてわずかに潤った預金は、多分、来月にでも使われることになるのだろう。
書いた色々なことがわがままだと言われても、なんとなくこうやって書き残せたから今日はもう満足だ。
もうおやつどきだけど、昼寝をして、冬に向けて衣替えをして、それから、前向きに考えていきたい。
九月十六日、晩夏、金曜日の夕方。
今年に入ってから、私、なんかヘンでした。たぶん、ストレスをため込んじゃったのだと思います。実はというと、自分でもどこがヘンなのかすらわかりませんでした。友達に指摘されていたものの、直そうと思いつつ、間違いを間違えていたのです。
ただ、いろいろ疲れていたのだと思います。ネットという道具を手にしてしまったために、自分への万能感が二乗されて、億能感になったつもりのように振る舞っていました。只の地方に住む無業の(一応、就労意志はあるけれど、空回りしている親のすねかじりの)一人の青年に過ぎないのに。
しかし、今年で三十になったのに『青年』でもいいのかな。三十歳ぐらいになると『青年』から『壮年』に入るのでは。しかし、人生経験は三十の割にはあまりにも少ないので、まだケツが真っ青なんです。まるで少年、中学二年生ぐらい青いです。いわゆる『中二病』でしょうか
十三歳なんてまだ『青年』ですらなく『少年』でしょうね。三十と十三。戦前の一行一文字の縦書きの記法と、現代の横書きの記法。その間だと誤っていそうなことが現実だったのかも。
この文章自体なんだかヘンです。三十歳になったのに言っていることは中学生レベル。なんていうと中学生に大変失礼なくらいです。そもそも文章の該当年齢すら不明。まるで文章年齢が複素数になってしまったかのような。
ただ、思っていることを吐き出したいのですよ。でも顕名で出すと、またあいつキ○○イなこと言ってるわと、馬鹿にされるだけなので、敢えて匿名で。
最近世の中がねっとりしているような気がします。なんでもかんでもねちっこいのです。だから『断捨離』なんて概念が生まれるのですね。けれども、ねっとりしている現代人は『断捨離』に対しても固執するのではないだろうかと。
大変失礼いたしました。
1 http://anond.hatelabo.jp/20110908032311
2 http://anond.hatelabo.jp/20110909020414
ただし、気付いたのが本当に初期だったらしく、エコーなどで確認も取れなかった為、
昨日黄体ホルモン濃度を調べる為に血液検査をして、金曜日にもう一度診察予定で、
毎回毎回4000円実費とか妊娠出産マジ金かかるわーとかぼやいてたら、
さっき病院から電話があって急遽診察を今日受けて欲しいとのこと。
何それ怖い。血液検査で何が分かったの?超怖いんだけど。
どこに言う事も出来ず、どこかに吐きだしたかったので増田に書いたものの
二時間後には判明するわけで、どうしよう。
たまに、ブログ主のドヤ顔が垣間見える記事が、アクセスアップの方法。
まー、でも共通しているよねということで取り上げていきます。
ブログを開設して20日で月間10万PVを超えるために私がやった11個の行動と2つの決意
http://n1kumeet5.com/2011/08/100000pv/
つまり、協力ブックマークをしない人が、人気ブログになるパターンはまずない。
もう一度言うけれど、99%ね。
仲間で、きゃふきゃふ言いながら3ブクマか、或いは5ブクマする。
これで新着に載って、ライフハック系かIT系の釣りタイトルだったら、簡単にブックマークされる。
いずれにせよ、内容自体はその辺の小学生でも出来るまとめ作業。むしろ、小学生のほうが発想がある。
よくあるのは書評、そしてまとめ系。だから、この2点で有名になったブロガーは、恐ろしく能力が低い。
いずれにせよ、〇〇日で月間アクセス〇〇万PVを達成した私の方法、みたいな記事を書く人は、
100%協力ブクマをやっている。むしろ、何でわざわざスパム行為のような告白をするのかも謎。黙っていれば良いのにね。
要は、ブクマ友達を作れば、誰だって達成できることなので、どちらかと言えば恥ずかしいこと。
で、アクセスアップの99%は書き終えたので、次に残り1%を箇条書きで書いていく。
あとは、そんな感じ。よくあるよね。
あ、以下は別人が書いたんだけれど、丁度良いから貼っておく。
最近目にした「ブログのアクセス◯倍アップした私の方法」的エントリ
http://anond.hatelabo.jp/20110825180047
もう一度言うと、「〇〇日で月間アクセス〇〇万PVを達成した方法」の
だから、逆に言うと、よくあるようなライフハックやITのまとめ系以外で、アクセスを増やして有名になった人は凄い。
G.A.W.の方とかね。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/
例えば、この記事。「金曜日の夜、24時間営業スーパーの駐車場にて」
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20110827/1314393767
見てみろよ、この人気取るぞー!っていう気迫が全く感じられれない様を。
このような方が、滅多にいない貴重種。
http://www.youtube.com/watch?v=MWW3XdD-L2M
↑をまとめた。
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ドイツのロルちゃん。
どっかのビデオで「3週間休みを取った」と言ったら、日本のみなさんから「3週間!?」とコメントがきたので、ドイツの労働事情について話をしましょう。
今はPM4:30で、もう家に帰ってます。これは遅いほうで、公務員なんかは金曜日ならPM1:00に帰れます。フランスとかもそうです。今日は4:00近くまで働きました。これは長く働いたほう。
残業はすごく少なくて、人の地位とか業種によるけど基本的に少ないです。
夜、同僚や上司と飲みに行くことはまずないです。自分は一度もない。
日本でよく聞く「上司が帰らないうちは自分はなかなか帰れない」ってこともなくて、始業から7時間か8時間たったら帰れます。
自分の部下はAM7:00〜AM7:30ごろ出社して、PM3:00〜遅くてもPM4:00に帰ります。僕はそれを止められません。それは彼の権利だから。
日本には名刺交換の文化があるけど、ドイツにはありません。じつは名刺を持ってるけど、それは以前日本のお客に対応するときに作ったもので、それ以来使ってません。
日本の会社でよくある、先輩/後輩の話もあまりないし、後輩は先輩の言うことを聞かなきゃいけないという感覚もないです。
ドイツの平均給料は今の為替レートで500万円くらい。この倍、10倍、100倍もらってる人もいる。100倍は数人だけど。
なんで3週間続けて休暇を取れるかという話。
有給は30日で、土日を入れれば6週間になる。上司の許可が必要だけど、許可さえもらえば3〜4週間連続で取れます。9年前は4週間取ってアメリカに行ったし、去年は3週間、今年も3週間取って日本に行きます。3週間取ってもまだ3週間残ってる。
10月とか11月に有給休暇が残ってると人事部から注意が来る。「早くとれ」と。
ドイツに進出してる日本の会社が一番いつも怒っていること。それは"病欠"。
病欠は有給休暇からさっぴかれない。他のヨーロッパの国でもたぶんそう。病気は従業員のせいじゃないから有給からさっぴいたら可哀想でしょ、ってことで有給からさっぴかれない。悪用する人がいるので法律がちょっと変わったけど、うちの会社は以前のまま。
ゆとりがある?。効率がいい?。
ドイツに住んでる日本人たちのなかに、こういうことを言う人がいる。「なんでドイツ人たちがあんなに休んでるのに、労働時間がそんなに少ないのに、経済大国になっているのか。なんで日本と同じくらいの国内総生産があるのか。」
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参考 (from Wikipedia)
| - | 日本 | ドイツ |
| GDP (IMF2010) | 4,309,532 (3位) | 2,940,434 (5位) |
| 一人あたりGDP (IMF2010) | 33,805 (24位) | 36,033 (19位) |
| 労働生産性 (2009) | 39.9 (21位) | 53.5 (8位) |
今年と去年、夏の過し方はどう違う?こう尋ねられたら、「今年は節電のために冷房をつけず窓を開けている」という人は多いのではないだろうか。
かくいう私もそうである。そして、私が住まうマンションの、私の部屋の真上の世帯もそうだった。
少し前、いよいよ暑さも本格化して、就寝時も網戸にするようになったところ、目覚ましよりも2時間早い7時に目が覚めた。暑さのせいではない。上の部屋の小さな子どもが絶叫していたためだ。月曜日のことだった。
絶叫は、困ったことにその後たっぷり10分は途切れず続いた。暑いわ蒸すわ睡眠時間は足りないわ、という状況で聞く子どもの絶叫は、なかなかに不快指数が高い。そして、同様の状況は金曜日まで休みなく続いた。
「子どもの絶叫ってどんなの?」と思われた方もいるであろう。「そんな大したもんなの?お前が神経質なんじゃないの?」と思われた方も。ここで簡単に階上の子どもの絶叫について説明したい。それはまさに絶叫で、恐怖映画でしか聞けないような類の、「きぇー」ど「ぎゃー」の間を取ったような金切り声である。ボリュームは極めて大きい。持続時間は短くても10分、平均20分程度、いちばん長いときは45分ほど続いた。驚くべき体力だ。合間合間に母親の「○○ー、やめなさーい」という低いテンションの注意が入る。その後数秒は声が止むが、基本的に注意は成果を上げない。走り回る足音も結構に響く。
虐待ではないようなのだけが救いだが、どうにもうるさい。集合住宅で生活する上での騒音の上限を、遥かに超えている。
金曜の買い物帰りに、同じ階に住む若い女性と会った。挨拶を交わすと、彼女は眉根を寄せ声を潜め、「あの…お子さんの声、凄くないですか?」と尋ねてきた。「そうですよね、私もう毎日睡眠不足で…」と苦笑すると、彼女は苛立ちと疲れを滲ませながら、「私きらいなんですよ、子ども。ほんとイヤで。もう限界なんですよ。これって我慢すべきなんですか? 私が窓閉めたり耳栓したりしろっていう話なんですかね?」と吐き捨てるように言った。
絶叫は次の土曜日も容赦なく響き渡った。私は7時に目が覚めた。シャワーを浴びて汗を流し、もう一度ベッドに入る。今日くらい、目玉が溶けるほど眠りたい。もうフラフラだ。せっかくの休みに…などと思いながら眠り、そして子どもの絶叫で目が覚めた。その時は訳がわからず、自分が24時間眠っていたのかと思ったが、時計を見るとベッドに入ってから1時間も経っていない。思わず舌打ちし、ウィークデーはバタバタして成せなかった不動産会社への電話をすることに決めた。
昼ごろ電話した。電話口で名前と物件名を告げた瞬間、「恐れ入りますが騒音の件ですか」と尋ねられた。担当氏いわく、今日になって何件も苦情が入ったらしい。小さな子どものことだし、と気後れしていたが、週末まで睡眠を妨害されては我慢ならない、と何人もが話していたという。ちなみに苦情は私で何件目ですか?と何気なく聞いたら、5~6件目とのこと。部屋数が15もないマンションとしては異例の数だ、よほどひどい状況だろうから午後に早速調査に行く、という担当氏の話を聞き、すこしほっとした。
階上の子どもは出かける気配もなく、順調に騒いでいた。不動産会社が来たときだけすごく静かだったらどうしようかとの心配も、まったくの杞憂だったようだ。
午後3時ごろ、「だって子どもなんですよ!」「他の部屋が何時に起きるかなんて言われても知らないですよ!」「じゃあ節電節電言ってる中でうちだけ冷房つけろっていうんですか?うちだけ冷房代払うんですか?」といった内容の女性の金切り声が聞こえた。不動産会社が来たのだなと思った。それにしても、あれだけの騒音にクレームがつかないと考えていたのなら凄い話だ。そもそもあの子どもは、歌うでもなく喋るでもなく、悲鳴だけをあげ続けているって…大丈夫なのだろうか。前にすれ違ったときは4歳くらいに見えたけれど。母親はなんか…ナチュラルっぽいスタイリングのわりにトゲのある雰囲気の女の人だったな…などとぼんやり考えていたら、浅く眠っていた。そしてその眠りは、階上から聞こえた「何であたしだけ…!」という凄まじい叫び声と、力いっぱい窓を閉める衝突音で破られた。
それからは静かなものだった。叫び声は聞こえるが、今までを10としたら1か2程度のボリューム。突き刺さるよう鼓膜を攻撃してきた音の質も、くぐもってマイルドになっている。これなら眠れる。それがただただ嬉しかった。
それからしばらく経った今、階上からは相変わらず、小さくくぐもった音で叫び声が聞こえる。前とは違う点は、母親の金切り声が聞こえるようになったことだ。たまに、父親の声らしきものも。
「子どもが嫌いだ」と話していたご近所さんと顔を合わせたとき、彼女は話していた。あの騒音のおうち、お母さん凄いこわいんですよ。すれ違うと睨んできたり。この前挨拶したら、なんか知らないけど鼻で笑われて。意味分かんないですよね。私が怒られてんの?はぁ?っていう。むしろご迷惑かけてすみませんとか無いわけ?みたいな。なんか完璧こっちが悪者だと思われてるっぽくて。
私(あるいは私たち住人)は、きっと母親を追い詰めたのだろう。いま、子どもへの虐待に発展する可能性を考えると恐ろしい。
では、私は不動産会社にクレームを入れるべきではなかったのだろうか。私が窓を閉め耳栓をすれば万事丸く収まったのだろうか。もしかしたら、階上の子どもは情緒や発育に何かしらの障害があるのかもしれない。母親はギリギリのところで子育てに奮闘しているのかもしれない。しかし、その母親に「目が覚めるほどの騒音を立てないこと」を期待するのは間違っているのだろうか。
被災地では家を追われ、未だに住むところも決まらない人たちが大勢いる中で内閣不信任・解散総選挙という実に「国民の生活が最優先」なことを実行してくれている永田町の「国民の代表」たち。投票所に使えそうな施設はことごとく避難所に使われてるのに選挙っていうんだからすごいよね。その中でも、「我らの最後の希望 (ドイツ語にすればunsere letzte Hoffnungかな。どこかで聞いたフレーズだね)」として待望論がささやかれて久しいオザーリン同志(ちなみにこの人の元の役職は幹事長。英語にするとsecretary general。ちなみに関係ないけど「書記長」もsecretary general)。その右腕とささやかれる川内博史代議士が地上波テレビですごいことを言ってくれてたみたいだよ。
下の動画をみてくれるかな。
http://www.dailymotion.com/video/xiwwdj_yyyy0-2ysvyyyyy100msvyyy_news
時間のない人のために一番香ばしい部分を抜き出してあげるからね。だいたい1:25あたりから観るといいと思うよ。
わたくしあの、衆議院の科学特別委員会の委員長ですから、先週の金曜日参考人質疑をやって、そこで専門家に話を聞きました。1ミリシーベルト(以下mSv)というのはですね、人間の体というのは60兆の細胞でできてるんですね、その1mSvというのは60兆の細胞すべてに放射線が1回突き刺さってDNAを破壊することを1mSvというんですね。
内部被曝の場合はですね、これは文部科学省の資料ありますけど、0.2マイクロシーベルト(以下μSv。念のため、0.2μSv=0.0002mSv)で外部被曝100mSvと同等だと。文部科学省の資料です(キリッ
えーと、放射能と放射線に敏感で、「ナポレオン孫正義の言うことは全て正しい」がモットーのはてな民の皆さんならおわかりだと思うけど、1つ目の発言、すごい言い方だよねー。「自然放射線」でぐぐればすぐわかることなんだけど、日本の自然放射線の平均がちょうど年間1mSvくらい、世界平均で2.4mSvくらいなんだよね。世界各地の自然放射線にはばらつきもあるけど、だいたい年間0.1mSv-10mSvの範囲内におさまっていると考えれば間違いないね(イランのラムサールとかには局所的にもう一桁高いような極端な場所もあるらしいけどそういうのは除外)。1mSvがそんなに有害なら原発事故が起こる前に自然放射線で僕たちとっくに死んでるよねー。だって人類全て細胞が破壊されちゃってるんだもんねー。
んでしかも2つめの発言、矛盾することを平気で言ってるからもっとすごい。「全ての細胞のDNAが1回破壊されること」という形容が正しいかはともかく(面倒なので検算しない、というかだいたい放射線といってもいろいろあるわけだから検算しようがない)、ともかくSvってのが「人体が受ける影響」を測る単位であるという認識は間違っていない。それなのに内部被曝0.2μSvと外部被曝100mSvは同等ですって???要するに「内部被曝と外部被曝では体に受ける影響は50万倍違っても体に受ける影響は同等」って言ってる訳ね。すごいね。すごすぎて全然意味わかんないよ。それって日本語?それ、どこの文部科学省が作った資料よ。まさか文科省は文科省でもオウムの文科省(こんなネタ、歳がばれるかな)じゃないよね?
なんだかねー、これほど頭のいい人たちが国民の代表として一生懸命働いてくれちゃってるし、現首相は現首相でサミットの公式記者会見で孫正義のトンデモ自然エネルギー推進論を名指しでマンセーしちゃうしさ、本当に今の日本って美しい国だよねー。「大和魂があれば科学的な議論の裏付けがなくてもなんとでもなる、疑う奴は非国民!」なんて声が聞こえてくるようだよ。本当に僕、この国に生まれたことを誇りに思っちゃうなあ。