はてなキーワード: 孔子とは
同性婚の法制化については、自民党は憲法やパートナーシップ 制度に言及した上で「慎重な検討が必要」と回答。立憲・共産・国民・社民・れいわは「賛成」としています。
死刑制度の廃止は、共産党と社民党が「賛成」で、立憲・国民・れいわは「要検討」、自民党は「死刑を廃止することは適当ではない」と反対しました。
選択的夫婦別姓の導入に関しては、自民党は「氏を改めることよる不利益に関する国民の声や時代の変化を受け止め、その不利益をさらに解消」するとしながらも、賛成か反対かを明言せず、立憲・共産・国民・社民・れいわは「賛成」でした。
これは「自民党の異常性」を強調したいようなんだけど、それはおかしい。「保守勢力は党としてまとまっているのに、リベラル・左派勢力は同じ意見なのに全くまとまっておらずバラバラ」ということしか意味していない。野党はまさに、「小人は同して和せず」と孔子が批判しているものそのものだ。自民党の出している価値観を、国民常識から外れた異常な少数であるかのように示するのはよくない。逆に左派、こうした価値観が日本では(少なくとも投票に行くような人たちの間では)多数派なんだ、と言う事実から出発しなければだめだろう。
「矛盾」は、韓非が『韓非子』の中で儒家(孔子と孟子がその代表、ここでは孔子)批判のためのたとえ話の中で、「矛盾」という言葉を使ったもの。儒家は伝説の時代の聖王の「堯」と「舜」の政治を最高で理想だとし、舜が悪きを改め、良い立派な行いをして人々を助けたから堯は舜に禅譲したとした。しかし、韓非によれば、堯が名君で民を良く治めていたとすれば、舜が悪きを改め、良い立派な行いをして人々を助けるということはそもそも起こりえない。一方が立派な人物だとすれば他方はそうではなくなってしまう。したがって、両方の者が同じく最高の人物で、理想的な政治を行ったというのは話が合わず、あり得ないという意味を込めて批判的に矛盾の喩え話をした。
過去の正しいこと詰合せだと思うよ。
ただし、人間は昔は人間関係や社会のほうが関心があったからそちらに関心を持った。キリストとか釈迦とか孔子やマホメッドが人間社会はこうじゃないかと考えて、実際それなりに正しかったから後世に受け継がれていった。
だけども、「聖書が正しい」(プロテスタント)と、「聖職者が正しい」(カトリック)で大揉めにもめて戦争になって「明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたものは正しい」(科学)がうまれた。
しかし科学は振れが多くて明証分析がなせないものは苦手とする。だから一番の根っこの人間関係や社会については苦手。統計で頑張ればギリギリいけるか?ではある。
それから、そもそもが人の心を惑わす手法はいくらでもある。無論それも宗教内で語られたりする。なので、プロテスタントとカトリックの大戦争以前は、人の心を惑わす連中は異端審問として潰されていった。
だけど信教の自由を掲げるということは人の心を惑わす手法で騙す連中がのさばるということでもあったと思う。
人の心がまどうのはやはり何らかの苦しみがあるから。苦しんだやつが適切に救われることだと思う。一番近いのは人間心理関係の研究が進んで、精神医療+カウンセリングかと思うけどね。
困った人に何かを諭そうとしているとき、
架空の人物を作ってメタ認知させるのはいい方法かもしれないと思った。
つまりどういうことかというと、
例えば自分に非があっても全く謝らない、間違いを認めない御仁がいたとして
そのまま諭すと、普通に反発される。
Aくんは絶対に謝らない、間違いを認めない人でこういう謝ったら死ぬマンの精神の根底には、自分の責任だと受け止めたくない
、誰かのせいに事象のせいにしたいという弱くて醜い心があると思う。
間違いを認めず、修正しないのが、一番の間違いだということにこいつは気づいてない。
実に哀れで弱く醜い精神だよねー、愚かだよねー。間違いを認めて、先に進むほうが素敵な人間になれるのにねー
みたいな話をして、Aくんについてどう思うか話してもらうと、
自分自身のメンタルの問題について気づいてくれるかもしれない。
あと問題がある御仁のAくんに対しての考えも聴ける
こういう奴はだいたい自分を客観的に見れない、メタ認知ができないので、こうやって自然とメタ認知させるのはどうか?
という話でした
一人目は、在日朝鮮人だった。
「戦後60年日本人はがむしゃらに働いてきた。その人たちが日本の豊かさを作ったので我々が恩返し・支える必要がある」
みたいな発言をしたところ、
「ぜんぜん?」
みたいに氷のような無表情でいってきた人。
あーこいつ外人だと思った。
「中国の諸子百家はいろいろ思想があっておもしろい。中でも孔子・老子・孟子・荘子は日本人が学んでおく必要がある」
みたいにいったところ、
「ぜんぜん?」
と、こちらも無表情で、まったく心底興味のない顔だった。
今思えば100%中国共産党員だったと思う。(他の中国人はそういう話をすると誇らしい顔になったので)
政治的に人生をコントロールされている人は、
その歴史観や人権意識も、他人にコントロールされることになり、哀れだと思った。
そこに学生時代、勉強することでフラットな思想を仕入れることができる。
しかし幼少期から親や政治組織(宗教という名の政治的組織ふくむ)から「仕込まれ」てしまうと、もうほかのものを受け付けられない。
そうして出来上がるのが、
「人間らしき姿をした」怪物でありフランケンシュタインである。
おもえば中学高校大学で、大量の文献を自由にみて選択できる日本という国に生まれたのはラッキーだったと思う。
もちろんそこでマルクス主義を選んだかもしれないし、マキャベリズムを選ぶこともできたかもしれない。
しかしそうならず、基本的人権や生命権こそすべてという思想に、「自ら選択して」なれたのは日本のおかげだと思う。
自ら選択しない(できない)フランケンシュタインがいきつくのは、兵隊としての暴力である。
そして暴力がいきつくのは、血であり、弾圧であり、臓器摘出であり、レイプである。
「ぜんぜん」
を教えてくれた二人は、人生の師だったと思う。