はてなキーワード: 諸子百家とは
一人目は、在日朝鮮人だった。
「戦後60年日本人はがむしゃらに働いてきた。その人たちが日本の豊かさを作ったので我々が恩返し・支える必要がある」
みたいな発言をしたところ、
「ぜんぜん?」
みたいに氷のような無表情でいってきた人。
あーこいつ外人だと思った。
「中国の諸子百家はいろいろ思想があっておもしろい。中でも孔子・老子・孟子・荘子は日本人が学んでおく必要がある」
みたいにいったところ、
「ぜんぜん?」
と、こちらも無表情で、まったく心底興味のない顔だった。
今思えば100%中国共産党員だったと思う。(他の中国人はそういう話をすると誇らしい顔になったので)
政治的に人生をコントロールされている人は、
その歴史観や人権意識も、他人にコントロールされることになり、哀れだと思った。
そこに学生時代、勉強することでフラットな思想を仕入れることができる。
しかし幼少期から親や政治組織(宗教という名の政治的組織ふくむ)から「仕込まれ」てしまうと、もうほかのものを受け付けられない。
そうして出来上がるのが、
「人間らしき姿をした」怪物でありフランケンシュタインである。
おもえば中学高校大学で、大量の文献を自由にみて選択できる日本という国に生まれたのはラッキーだったと思う。
もちろんそこでマルクス主義を選んだかもしれないし、マキャベリズムを選ぶこともできたかもしれない。
しかしそうならず、基本的人権や生命権こそすべてという思想に、「自ら選択して」なれたのは日本のおかげだと思う。
自ら選択しない(できない)フランケンシュタインがいきつくのは、兵隊としての暴力である。
そして暴力がいきつくのは、血であり、弾圧であり、臓器摘出であり、レイプである。
「ぜんぜん」
を教えてくれた二人は、人生の師だったと思う。
そこら辺は多分、仏教の主流概念である因果と無我を説く際に邪魔になるんで語らなかったんだと思う
仏教はバラモン教と対峙するために自我を否定して純粋に因果関係だけで世界を説明しようとしたんだけど、
そこを突き詰めると世界は初期パラメータで決められたとおりにしか未来に遷移しないということになり、「じゃあ初期パラメータは誰がどうやって決めたんだよ」って話になる
「その問題を考えても苦しみから逃れられないよ?それはお前の目的なの?」みたいなことを言った。
というのが俺の理解。
この傾向は中国哲学でも同様で、諸子百家でも無神論の儒家は「怪力乱神を語らず」みたいに言って避けようとしてる
有神論で一神教の墨家はそうでもなかったんだけど、こいつらが生き残っていたらきっと今の西洋哲学みたいに発展していったんだろうなー。
なんていうか、国公立大学ってそもそも官僚の養成機関とか教師の養成機関で設置されたわけだから、知識を広めようとか思想を広めようという動きを、組織としてやらない気がする。
もちろん、教員一人一人はそういう考えを持つかもしれないけど、組織としての立ち位置としては、公平で、思想的に中立を維持するような。
現状を変えるっていうのは、なんであれロックなわけで。
それが、より開かれた教育を目指すっていう行動であっても。
やるとしたら、私学からかな。
松下政経塾のように、ブランディング出来れば、大学の看板はいらないし、大学の価値がそのブランド力ではない時代になれば、ブランディングすら不要なわけだし。
国が方針を決めて横並びにえいやって感じじゃなくて、バラバラに動いて、教育に多様性が生まれるんだと思う。
あくまで少数精鋭で議論に拘る大学から、とにかく外部に知を発信する大学、すっげー偏った宗教教育を行う大学、そういうのがいろいろ出てくるんじゃないかな。