ところで、この宇宙の愛情の起源がレイプのような気がするんだけど…。
元々は憎悪が中心で他人を傷つける事に喜びを感じる生物だったわけですよ。
そう考えると我々は原罪を背負っている。
「自分は苦労をしている」という自尊心を持つか、或いは(これが最善なんだろうが)「他人から労わってもらう」事が精神衛生上重要なファクターだと考えられる。
来るものは拒まず去る者は追わず
去るもの追えばウザがられ
完全に敗北状態でし
この言葉通りに生きてれば色々辛い思いもしなくなるだろうし
相手も不快にならんって事なのね
そんな訳でなんかもう人付合いとかどうでもいい
あのツリーは前提としてるものとか視座とかめちゃくちゃで話になってないというのが第一印象。
まあ、増田なんてそんなもんか。
あんたもあのツリーにいた増田かどうかも疑わしいしな。
dequeは必死だな
dequeue?
特定承知で書く。
自分はまともにコメントも付けずに増田の気に入ったエントリをブックマークしているのだけれど、全く興味のない、そして関係のないツリーで自分の事がIDコールされていて驚愕した。
「心理カウンセラーになりたい人たち(http://anond.hatelabo.jp/20110610063353)」ではないけど、一体自分の何を分かっていて、そしてどんな関連性を見出してIDコールしているのか非常に不思議だ。
その金使うのが正しいっていう考え方以外は同意できる
http://anond.hatelabo.jp/20110611171325
10数年前かな、実家は風呂とシャワーがなかったのでお湯をわかして水を貯めて玄関で体をあらってましたよ。
当時のコツをいくつか。
・玄関で水を浴びるなら、排水構造はあらかじめしっかりと作って防水もしておきます
・ホテルのシャワールームの防水カーテンように周りにシートを貼っとくといいです
・蛇口に付けられるシャワーの口があると好ましい
今ならより便利に節約できると思います。マンションでは設備に手を加えられなかったり、排水がうまくできないと玄関を使うのは難しいし、実際にやるならかなり工夫のしがいがあると思う。
謎が多いが、ニートとしては、首をつっこむことで何かが満たされるのだろう。笑
http://anond.hatelabo.jp/20110615181433
スピーチで深く掘り下げてたわけじゃないけど、これを聞いて戦後なんでこういう方向に来たのかとか考える人がいれば、それも意味はあると思った。
「戦後なんでこういう方向に来たのかと考え」ていない人が(スピーチに意味付けする程度に)いる、と思い込める方が逆にびっくりなんだけど。
なぜ、自分が考えないから他の日本人も考えてないだろう、と決めちゃうのかなあ?単にお前やハルーキ・ムラカミが考えてないだけでしょ?
「ハルーキ・ムラカーミがこう言った、ということは、日本人の大多数はそういう事を考慮していない奴らなのだ」というミスリードをしてきたのだとしたら酷い話で売国的と言えるかもしれない。
やっぱり日本の文人とか作家とかは、危機的状況では役に立たんだけでなくむしろ害があるのではないだろうか(前回の戦争の時もそうだったわけで、日本の伝統なのかもしれんが)。
追記しておくと、村上春樹は好きな作家だし、危機的状況でなければ(ジャズ喫茶を経営する、とかそういうシーンでは)彼の言説には一聴の価値があると思っていますよ。
だから、「1:N」の話なんだよね。
そういや昔、アフターサービスが充実しているが割引しない店がブコメで「詐欺」だと叩かれていたっけ。
考えてみれば、車必須の大型店と言うのも、高齢者とかには不便なわけで。
「みんなのりべんせい」とか言いながら、体の良い弱者切捨て社会だよな。
社会コストの効率利用って話になれば、どうしたってリソースの集約は必要で、最大公約数的になるよなぁ。
でも存外そうした話は、この手の話題には上がってこない。
幻覚だとは分かっていても、休んでいたのに疲れてしまうという逆効果が発生して日中のパフォーマンスに支障を来たしている。
夢の内容は、具体的には延々と侮辱されたりというもので肉体的であったり生命の危機に関するものは少ない。
トラウマというと大げさだが、過去に同じような経験をしたせいもあってあまり気分の良いものではなく、強制的に回想に耽ってしまって集中力が削がれる。
別の件で精神科に通院しているが、この事も話そうか迷っている。他人にとってはどうしようもない、或いはどうでもいい事で相談しても無意味なのかもしれないから。
やれSFだとかそれファンタジーだとかいけ魔法少女モノだとかまたゼロ年代だとかいう文脈で語られるまどか☆マギカ。
だけど私は思う、まどか☆マギカは徹底的なリアリズムだ、第三話以前と最終回を除いて。
もっとも、その除かれた物も、現実の只中にある視聴者が希求してやまないものだった。
一部の人間は日常の延長としての水着回を、あるいは美化された青春に永く留まっていたかった。
現実を突きつけられた視聴者は少女たちの救済を願って止まなかったし、事実それは達成された(視聴者の意図とはずれようとも)
少女たちは友人の死、避けられない宿命、隠されてきた歴史、対価と代償、資源枯渇の様々な現実を見せつけられ、翻弄された。
そしてそれは「よりよい終末」という政治的な解決(そしてそれは因果律を書き換えるほどの困難)によって救われる。
さて、なぜこれがリアリズムなのか。
数年前、蟹工船がブームになったのは、まだ記憶に新しいだろうか。
内容や当時の潮流などはさておいて、平成の世にまたブームが巻き起こるのは当然理由がある。
もちろんそれは今でも色褪せぬ現実がそこに描かれていたからにほかならない。まさに共感による再燃である。
つまり、文学的、思想的な背景は無視され、そこに描かれた現実のみが人を動かしたのである。
むろん、そこからの解釈は薄いと言わざるを得ない。表層的な一致が、ブームにつながったのだから。
しかしながら、それは今となっては関係がない。理解の程度はブームとは無縁なのは、バナナダイエットが示したとおりである。
さて、リバイバルヒットというのは、ときに悲しい事実さえも教えてくれる。現実は変わっていないということだ。
悪く言えば、成長していないということでもある。
いつか働かなくても生きていける社会が来ると、望んでは嘆き、を繰り返す。
そしてまた時が経って再評価されるのである。
いつか、まどか☆マギカが忘れられたときに再評価されるだろうか?
それはわからない。
報われない彼女らと、報われない私を重ねて。