はてなキーワード: 押し寿司とは
朝、いつものように電車に乗って会社に向かっていたんだが、4駅目を過ぎたあたりで、急に激しい便意に襲われた。
何が悪かったのか。昨日の中華居酒屋でしこたま飲んだ紹興酒が悪かったのか、帰ってから食べた押し寿司が古かったのか、わからないが、便意とも、腹痛ともつかないものに意識全体が奪われて、寒気がするくらいだった。
これくらいはマイペンライ、会社のウォシュレット付きトイレでいつものように快便すればすべて丸く収まる、と思っていたのもつかの間、やはりこのまま我慢するにはあまりにも強い、これは便意なのだと確信した。いますぐ出したい、出さなければ腹が壊れる、というか、もう勝手に限界のところまで下がってきている、何かが、という状態だった。
次の駅でホームをダッシュしてトイレに駆け込むしかない、というようにエマージェンシープランを変更して、降りる決意を固めたのはいい。
だが、ドアの傍に立っている大学生らしい男の背負っているホモランドセルで、入り口全体がふさがれている。
電車が止まったのはいい。降りようとして自分が動き始めたのはいい。だが、やっぱりホモランドセルが邪魔になっているせいで、降りる人の流れに加わって自分も降りることはできなかった。
再び動き始めた電車の中で、義憤ども諦めともつかない気持ちを味わっているうちに、尻のあたりがなにか生暖かくなってくるのが感じられた。
暖かさは意外に気持ちよかったが、そうも言ってられない状況になった。自分でもそれとわかるほど臭いがする。でも動くことはできない。
腿と膝のあいだを通って、生暖かい液体が降りてくるのを感じる。
次の駅で電車が止まったところで、すいません、すいませんと繰り返して、ホモランドセルを手でのけながら、やっとの思いでおりて、駅のトイレに駆け込んでパンツを下すと、液体に混じって実が出ていた。
パンツだけを捨てて、水でズボンをゆすいで、反対方向に向かう電車に乗って、着替えに戻ったのだが、電車の中で臭いが漏れていないかどうか、気になって仕方がなかった。
増田日記だから正直に書くけど、今売られている日本の歌ものの音楽は、
・人間の声に聞こえない。歌が上手いんじゃなくて、レコーディングの技芸になっている。そのうえに、音声を加工している。いま依頼が集まっているクリエイターは、作家としての能力ではなくて、DAWの技能が高いだとか、制作費を出す側にとって扱いやすいだとか、そういった本質外の理由で登用されている。
・言語になっていない。メロディ先で無理に歌詞あわせて、さらにはメロディを崩壊させるような歌詞を書く奴がいる。
・作文を読んでいる。話し言葉ではない。何を云っているか判らない。
わざわざ録音音源を聴くのは、感動的な実演を聴きたいからだ。それなのに、売られているのは工業音声。エイベックスとかが出てきて音楽を使い棄てにした。けれどその前にそもそも、日本人には職人気質が好きな封建ギルド的勘違い野郎が多いので、演歌なんか技芸であって感動ではない。
感動的な実演を聴きたいのを辛抱して録音物で再生しているのに、買い切りではなくてストリーミング配信とか、売り手の都合の押し付けで、ボッている。
実演をライブで聴くのが理想だけれど、数万人とか集まって音響がクソなところで聞いても鑑賞なんて成り立たない。音楽鑑賞とは異なるものを売っているのだ。
ライブハウスなんかでも、オールスタンディングで押し寿司みたいに詰め込まれても鑑賞なんて成り立たない。そもそも飲酒しながら鑑賞しなきゃいけなくなるようなのが問題外。
けど、そもそも音楽が売れないのは今の日本人が貧困だから。カネもっている奴は暇がなく、時間を確保して人らしく生きたら所得がなくなる。カネもっていて払えるような有所得者の多くは、集中して鑑賞する余裕なんてなくて、「ながら」で聞いているか、そもそもまともに鑑賞する能力なんてなくて鑑賞とは別の原因で買っていたりすることすら少なくない。
まともに鑑賞するに堪えないようなもんを造っといて、単に数が売れたとかマスコミに露出が多かったとかいう理由で自慢してプロフィールに代表作として誰それに提供したとか書くの、恥を知れと思うね。
売れないからって媚び売ったり煽ったりして、クソなもののほうが売れるからクソ売って、ついにはクソであることの認識能力すら失った日本人は、もはや救われようがなく赦されないと考えられるのである。
売れないよ。鑑賞するに堪えないし。払うカネなんて無いか、聴く暇無いか。聴く時間の総量や、買う人の総数が少ないんだから、売上少ないだろ。業界物凄く小さくなっただろ。
お寿司の形態で軍艦巻が一番好きな気がする。なんかこう、妙にワクワクする。
見た目、食べた時の感じ、あと持ちやすいとか崩れにくいとかいう部分も好きなのかもしれない。
でも普段半額で買うようなスーパーのお寿司は握り寿司が多い。あと巻き寿司、いなり寿司、押し寿司。
また、軍艦巻になるのはイクラとかウニとかネギトロくらいで値段が割と高かったりするのもつらい。
回転寿司に行くと白魚とか白子とかタクアンとかなんとかサラダとかコーンとかハンバーグとかもあるけど、そう頻繁に行く場所でもない。
軍艦巻という形態自体が好きな部分もあるようで、お寿司を選ぼうとすると
がせめぎあって、結局何を選んでもちょっとモヤモヤしたりするし、海鮮軍艦とかいう安定供給されない端材軍艦的なものに手を伸ばしがちになる。
当時、合奏のグループメンバーにクリスチャンがいて、そこから教会のご厚意で、ミサが終わった午後に練習することが何度かあった。
その時、たまたま合奏を聴いていたドイツ人の信者さんから「あなたのモーツァルトはおかしい」と言われ、後でそれを楽器の先生に話した所
「ヨーロッパ人の言うことはあんまり気にしないほうがいいよ」と言われた。
そこから「現代ヨーロッパ人にとってのクラシック音楽の受容」という話になって、先生から出てきたのが以下の喩え話。
個人的にはかなり納得した。
私、32歳。父親、61歳。
今日は敬老の日ということで、旨い押し寿司を買って実家に行った。
以前父の日だか母の日に買って行ったのと同じ代物で、二番煎じではあるのだけれど。
父親は「いくら親でもやって良いことと悪いことがあるからな」とつぶやいて不機嫌になった。
どうやら侮辱されたように感じたらしい。
俺はまだまだ元気だぞ、とでも言いたいのか。
あんた老眼鏡し始めたし明らかに体力落ちてきてるじゃん。
「こういうのはな。普通は子どもを連れてくるもんなんだ。お前もさっさと結婚しろ」と攻撃的なことばかり言う。
歳取ると丸くなる人が多い印象があるが、残念ながら父親は頑固親父に成長しているっぽい。
女子高生の白いセーラー服も汗に濡れその若く活発な新陳代謝の結晶である滴を夏風の中にキラキラとまき散らす七月下旬のいま私は女子高生が猛暑のなか今日一日分の汗を存分に染みこませた裾をバタバタと揺らしてうっすら湿った双丘に新鮮な外気を送り込もうとする姿が見られるのではないかという期待のもとに午後六時頃に都心から郊外へと向うサラリーマンキャリアウーマンその他あらゆる暑苦しい面々を新幹線で売ってる押し寿司のような要領でぎゅうぎゅうと圧縮させた仄かに押し寿司の香りさえ漂う列車に乗り込んだのであるが列の後ろのほうでぼんやり立っていたためホームの駅係員のたくましき腕によってメタボ中年の下腹に押しつけられた上に私の身体の押しつけられた部分が中年の服から染みだしてくるなにかによって水分の感触をおぼえ私は思わず声を上げかけたがそんなことで音を上げるようでは女子高生など夢のまた夢と思いなおし眼球をあたう限り上下左右に動かして周囲の状況を観察してみると車内の人間はほとんど成人のようであったからああ来る時間を間違えたかと気落ちしかけたそのとき右目の視界の端っこ眼鏡のツルに隠れて見にくい辺りにわずかに女子高生の姿がありしかもそれは私が待望していた白いセーラー服に黒光りする合皮の鞄をもった女子高生だったので私は欣喜雀躍し彼女のとこまで雀のごとく跳躍していこうかと思ったのだが常識的に考えて無理だったので鷹のごときつぶらな瞳でもって観察してみると吊革を握る女子高生の指はその何気ない動作においても柔らかであって腕は白くそしてその奥にある腋の下は一本の黒線が入ったカフスに遮られて見えないのであるが私が想像するに制汗デオドラントの鼻に抜ける香りの背後にカバーしきれない膨らみをもった濃厚な汗の香りが混じり合ったものであるだろうというのも彼女がたとえ部活のあとに自分の身体にスプレーをかけたとしてもその汗は今朝通学電車に駆け込んだとき腋の下の汗腺から滲みだしたものであって数時間ものあいだセーラー服の中という狭く通気性の悪い空間の中で発酵したものであるから制汗スプレーのようなもので軽く糊塗したからといって消しきれるものではなく私の眼は五感の一つとしての視覚という枠組みを超えてその臭いをたしかに感じ取るのであったがそれにも増して注目すべきは通勤電車のなかで際立って輝く白いセーラー服のその生地の上にまで確かな存在感をもって浮かび上がってくる淡い緑色あれはたしかに下着の色であろうぞ少女のわずかな動きに合わせてその緑色は細やかな陰影を生じその下にある膨らみの形状を間接的にしかしそれゆえ本質に迫った形で示すのであったがそれを見た私は触りたい吸いつきたいという強い衝動を感じたその瞬間私の押しつけられていたドアが突然開き私は大きな毬のようにころころと線路の上に転がり落ち危ないと車掌が絶叫したのも遅し早し上りの電車が運悪く地を撼かしてやってきたのでたちまちその黒い大きい一塊物はあなやという間に三四間ずるずると引き摺られて紅い血が一線長くレールを染めた。