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はてなキーワード: 名工とは

2023-07-11

イタリア名工ドン・ピシャリ氏が由来の言葉である

anond:20230711101304

彼はイタリア南部名家職人である

当時イタリア南部はいい加減な職人しかいなかった。

しかし彼の作る家具には寸分の狂いもなく、ガタつきも緩みもない様子を敬意をこめて”ドン・ピシャリ”と呼ぶようになった。

そこから転じて様々な要素が狂いもなく合致する様が”ドンシャリ”と言うようになったのである

  

しかし、それを快く思わない者もいて、人間性のない四角四面言動や取り付く島もない様な物言いを、敬称ドンを抜いて”ピシャリ”というようになった。

それが日本に伝わり、「どんぴしゃり」「ぴしゃり」という言葉になっていったというわけである

この話は、史書である南イタリア連合起源(United South Italy Origin:USO)800ページに記載されている

2021-02-26

anond:20210226211701

分かる。everything用にファイル名工夫しようかなっていう殊勝な気持ちも、最近薄れてきた。探すのが面倒なのよ。ファイル管理したくないのね。でも共有フォルダ上だけは整理整頓好きの潔癖書を装ってる。

2020-10-08

で、シリコンバレーいくら稼げるのか(Part 5)

承前 : Part-4 https://anond.hatelabo.jp/20201006121559

次回 : Part-6 https://anond.hatelabo.jp/20201011065246

前提

前回、交渉すればL4になれたのに交渉しなかった学生の例を紹介した。あまりのnaiveさに周りのgrown upは頭を抱えたが、ある意味で微笑ましい事例とも言える。

今回紹介するのはその逆で、ダメ交渉をしてしまい彼自身を含め関係者に苦々しい思いを残した。この例は今でも自分に怒りと後悔を覚えさせる。

増田にこのシリーズを書いた動機にも関わる。長くなるが、事の始まりから書いていく。

導入

ある時、自分はある会社のある部署で働いていた。高ランク技術者ばかりがいる部署で、非常に刺激的、かつ全員がいい人であった。

自由雰囲気で、ランクや年齢に関わりなく皆が家族のように親しんでいた。その時の同僚とは今でもつながっている。COVIDが来てもZoom乾杯をする仲だ。

ある年、その部署新人が来た。仮に彼をペーターと呼ぼう。ペーターの雇い方は稀とは言わないが少し特殊であった。

ペーターは、やたら押しの強い人が多い気がするある国の出身で、やたら社交的な気がするある国の有名工科大でポスドクをしていた。

そして、その部署のあるmanagerがあるプロジェクト必要技術下調べをしているとき、彼の論文が目に留まった。

その論文を皆で議論しているうちに、著者のホームページを見てみるとポスドクであることが判明した。ということは求職中の可能性がある。専門家がいるならその人にそのまま実装してもらえばいいし、その後も戦力になるだろう。

そのmanager、のちにペーター上司となる、が早速彼と連絡を取り、面接をすることに。自分面接に加わった。高ランク技術者たちとの質疑でも物怖じせず、専門分野でもかなりいい線を行っているという感触を得た。

ほかの社員も同様だ。すぐさまL4オファーが出され、彼は渡米することになる。

我々はペーターを温かく迎え入れた。家族の一員であるビザGCのことでいろいろと相談にも乗ってあげた。

彼の専門分野は自分も興味を持っていたところなので議論も多くした。彼から学ぶことも多く、利発で高生産性という印象を強めた。春秋に富む若者だ。

ペーター、残される

さて、そうこうしているうちに彼とは無関係にその部署であることが起き始めた。人が辞め始めたのだ。

その部署は非常に心地よいところだったが、高騰を続けるシリコンバレー給与水準(と家の価格)についていけていなかった。

ある程度の期間であれば仕方がないが、長期間続けばやりがい搾取である暖かい家族のような、アットホーム職場、日々新しいことを学べますしか給与は奮わない、ブラックフラグ満貫である

最初に辞めたのはアメリカ人であった。彼は利に聡く、情勢に通じ、交渉も上手であった。多くのオファーを得て、その中からさらに値を吊り上げ、TCを大幅に上げて出て行った。

そして我々は家族なので、そういった情報が共有された。なんというoutside world! 一人、また一人と彼に続いた。みなL7付近オファーを大量に得、上手な交渉をしていった。

彼らの情報手法は我ら家族に惜しみなく共有され、非常に学ぶところが多かった。交渉成功例として次回以降にいくつか取り扱いたい。

また、彼らがうまく各企業に散らばってくれたおかげで、自分はいろいろな企業情報を得ることができている。

そして自分も辞めた。しばらくしてペーター上司も辞めた。

ペーターは、一人残された。

ひどいな、と思ったが新しい職場で忙しく、どうすることもできない。ただ、機会があれば何かしてあげたいとは思っていた。

アルムさんとの邂逅

さて、自分は次の会社で忙しく働いていたのだが、他部署のある技術者と知り合いになった。仮に彼をアルムさんと呼ぼう。

アルムさんは年季の入った技術者で、ちょっと頑固なところはあるが自分コードに誇りと情熱もつ好漢だ。

自分が長年L6であることに不満は覚えつつも、金は求めない自分プロジェクト成功させたい、と邁進していた。肩書上managerではあるが、軸足は今もコードに置かれている。

自分はそういう人が好きであるので、すぐに仲良くなった。

そんなアルムさんが自分プロジェクトを加速させたいと願い出、無事に追加のheadcountが付与された。そして、いい人いないか、と自分に尋ねてきた。彼のプロジェクトペーターの専門分野と少々重なりがあったので、自分はすぐにペーターのことを思い浮かべ、彼に連絡した。彼は他に行きたがっていた。渡りに船だ。

この時、自分ペーターのreferを正式にはしなかった。大抵の会社ではreferral bonusがあるが、自分はそんなことよりペーター

助けになりたかったのだ。単に知り合いの中継ということにしてペーターアルムに引き合わせ、自分はそ知らぬふりでアルムからどんな面接を予定しているかどんな素養を見ているか聞き出し、秘密裏ペーター面接対策を施した。もちろん面接者は何人もいるが、最も重要なのはアルムさんの心象だ。

それがどれぐらい奏功したかからないが、無事にアルムさんはペーターを気に入った。彼がペーターのことを褒め称えているのを聞いて、自分の責務を果たした気がした。

オファーが出され、1週間ほどたった。さてどうなったかアルムさんに聞いてみた。

彼は苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「なんなんだあいつは。自分VPだとでも思っているのか」

一週間前とは真逆の反応である。何があったのだ?詳しい話を聞き、自分は非常に混乱した。

アルムさんが出したL4オファーを、ペーター報酬が低すぎるといって、最低でもRSUがこれだけなければ、という数字を出してきたのだ。

その数字というのがL7に相当するものであった。なんだそれは。

経験のない人によくある、4年分のRSUと1年分のRSUを取り違えたのでは?自分若いころ勘違いして舞い上がり、その後でがっかりしたことがある。恥ずかしい。アルムさんに質したが、ペーターは確かにこの数字を出したという。

ペーターの誤解

訳が分からないのですぐにペーターを捕まえ、なぜそんなことをしたのか聞いた。自分は聞き役に徹した。

「あのオファーは安すぎるよ」

そうは思わなかったが・・。彼はL5を希望していたのか?交渉次第ではありえなくもない。転職ランク上げの好機である

「...だってRSUから収入サラリーよりも低いじゃないか

聞き役に徹するまでもなく、この時点で自分は声を失った。

TCの大部分はRSUになるんだろ?Xさんはサラリーなんてpeanutだって言ってたよ」

XはL7Amazonに行ったんだ。Amazonサラリーが早々に頭打ちするためにRSU-heavyの特殊場所だ。大体お前はL4じゃないか

この時点で全容が大体見えてきた。彼は高ランク技術者に囲まれ、彼らの武勇伝を、分け隔てない風潮の中で

聞いているうちに、とんでもない期待を持ち始めたのだ。以前の回で書いたようにランクが上がれば確かにTCの大部分がRSUになる。しかL4やL5の段階ではまだまだそんなことはない。そもそも彼はL4などという用語さえ知らなかった。

「わかってるよ、交渉大事なんだろ?discountしたオファー最初に出すのは交渉なんだ。」

そんなことはない。アルムさんがdiscountをする動機が全くない。彼は小さなチームのmanagerであってRSU depletionを心配するのはもっとずっと上の人々である。彼はheadcountを埋めてさっさと仕事に戻りたいだけだ。大体今回の件はrecruiterの関与が最小限の、ほぼ直接hiringである。お前はそもそもrecruiterとhiring managerの違いが分かっているのか。

交渉の仕方はわかっているよ。買う方が$10っていったら、売るほうが$100って言って、買う方が$20って言って・・・徐々に双方の提示を近づけていくんだろ。常識だよ」

どこの常識だ。

大阪のおばちゃんの値切り方か。お前の国は確かに南のほうだが、ミナミ次元トンネルでつながってるのか。いつからだ。

「値切り交渉になるだろうから少し高めの額を言っておいたよ。返事を待ってるんだけどなかなかこないんだよね、せかしてくれない?」

もう二度とアルムさんはお前と連絡を取らないよ。

彼は自分が忙しい中でお前のために面接をこしらえて、上司交渉して迅速にオファーを作ってきたんだ。

オファーの作り直しにどれだけ手間がかかるのかわかってるのか。なぜ交渉の向うに自分と同じ、忙しい一人の人間がいることに気付けない。

自分のfair valueを事前に調査しておくことすらしなかったひよっこ技術者になんでほかの人間が汗をかかなければならない。

交渉をするにしても相手迷惑をかけないやりようがいくらでもあっただろうが。大体お前competing offerもないのに交渉することの意味理解しているのか。

自分は怒りと絶望で頭がおかしくなりそうだった。なんなんだこいつは。自分を何だと思っているんだ。

Naive greedy ignorant selfish tard. Do ur f-ing DD or never leave your mom's basement!!!

そして、自分やほかのgrown upどもが転職経験の彼に不完全な形で吹き込んでしまった情報が遠因であると知り、なんてやつを紹介してしまったんだ、自分が関わっていることを知られるとまずい、と思い始めた。

まず、アルムさんにはペーターと連絡を取っていることは以降も完全に秘密とした。馬鹿げたやつもいるもんだ、彼のことはよく知らないけどびっくりだね、と同調に回った。

アルムさんはペーターからメールは全部無視するよ、と言っていたので多分ばれてはいない。

そして、ペーターには、以降連絡を取らなかった。残念だったね、どうしてだろうね、とだけ言っておいた。

その後、ペーターがある会社L4で移ったのを知った。いい会社だし失敗しなければ彼ならL6まではいけるだろう。

今回L5になる可能性もあったのをふいにしたが、長い目で見れば大した影響はないのかもしれない。ただ、自分は彼と金輪際関わり合いになりたくない。

教訓

ペーターへの怒りは絶えないが、時間をおいて何が悪かったのか冷静に分析してみた。

  • 彼がnaive greedy tardであったのは確かだ。しかし、それがすべての原因だったか?誰しも最初世間を知らないし、馬鹿な期待を抱いたりすることってないか
  • 彼はselfishであった。しかし、経験のないことをする際に、その周囲の人々の事情をすっぽり見過ごしてしまうことはないだろうか?

自分にはあった。では違いは何だ。due diligenceだというのが私の結論だ。

からないなら調べろ。levels.fyiでもTeamblindの糞に塗れた情報でもいいからとにかく集めて分析しろ

どこで情報を集めるのかわからないなら人脈・Google何でもいいから駆使して聞きまわれ。

人生重要な転機なんだから当然する。ペーターはしなかった。そしてそれがほかの要素と相まってこんな結果となったのだ。

こういったことに強いのはいつもアメリカ人だ。日本人やそのほか外国人は開始地点からして遅れている。悲しい。どうすればせめて開始地点を近づけられるか。

情報だ。自分はそれを伝えたかった。できれば不完全でない形で。相場機微常識も、USに行く前に最低限抑えておいて欲しい。

TCの大部分がRSUになるのか、ふむふむ」とだけ受け取る人を少なくしたい。これが増田投稿した理由の一つである

もう一つの理由は、誰にも言えない怒りを周囲の誰も見ないところに便所の落書きとして吐き出したかったのだ。すっきり快感である

次回は株価上下による収入への影響について。

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-09-22

名刀みたいに名銃ってあるのかな

日本には多分ないだろうけど、銃発祥の地辺りには名工による伝説的名銃みたいなのあるのかな。

銃は古いのより新しい方がガンガン強くなっていったから無いかもなぁ。

刀は何で銃みたいに強さがアップしていかんかったんかな。

鞭刀とかチェーンソー刀とかロマンあるのに。

 
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